母ナキ鳥籠

蛇狐

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Capitolo.1

episodio.5「incontrare(出会い)」

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 ぐっ!と蹴られた腹を押さえる。痛みに慣れているとはいえ今のはかなり効いた。今まで色んな人間から暴力を受けてきたが、それら素人たちとは訳が違う。きっと本格的に鍛えてきたのだろう、とジョシュアは腹を擦りながら目の前の男、リカルドを見た。
 リカルドは苛ついたように舌打ちをして、おいと低い声でそのジョシュアに歩みよる。

「ナメてんじゃねぇぞガキ、そんなもんか?」

 見下されるように上から見られ、ジョシュアはキッと睨みつけた。正直、ナメていたのは確かだ。そりゃ向こうは人間、そしてこちらは吸血鬼なのだ。それにホムンクルスの分、体力や筋力なども底上げされている。その状態でまさかこんなに圧されるとは。見てると全く効いていないという訳でもないらしいが、それを上回るスピード、力で押し退けられる。今まで鍛えてなかったオレでは適わないのだろうか。

「立て。強くなりてえなら、休む暇なんてねえぞ。何時どこに奴らが現れるかも分からねぇ。オレも時間を無駄にしたくねえしな」

 そう言ってリカルドはジョシュアの腕を乱暴に掴むとそのまま立ち上がらせた。そしてその体をどん、と軽く突き飛ばすと構えろと自身も距離を取った。
 ジョシュアは呼吸を整えるように何度か深呼吸をして、構えた直後拳をリカルドへと放つ。が、リカルドはそれを軽く避けその腕を取ると、引っ張ると同時に背中を掴みそのまま地面へと押し付けた。ジョシュアは悔しそうにリカルドを睨みつける。ダメだ、何も勝てない。どうしたらいいのか。

「テメェ、手抜いてるだろ」
「……は?」
「分かるぜ。テメェにはもっと力があるはずだ」

 もっと。それは血を飲んだ状態の事だろうか。
あまり広めない方がいい、とアェルドから吸血鬼でありホムンクルスであることは伏せるように言われている。赤い目も病気で赤いのだと誤魔化した。
だから血は飲めない。それに頼るのも嫌だ。このままで強くならないと。
 ぎり、と拳に力を入れ立ち上がろうとするも、今や体重を掛けられ身動きすら取れない。
 ホムンクルスは人間より筋力が底上げされているはず。それでも振り解けないのは、もしかしてまだ全力は出せていないのか……?いや、だが全力なんて出してしまえばリカルドは……。
 そう考えていると、掛かる体重がさらに重くなりジョシュアは小さく唸った。

「おい、やっぱりナメてんなテメェ」

 リカルドはそう言ってジョシュアの上から退く。そして胸ぐらを掴むと自身の顔に引き寄せた。よく見ると、その目は怒りで震えていた。

「どういう理由で手ェ抜いてんのかは知らねぇが、テメェが相手してるのが敵ならどうする。テメェを殺そうとしてる奴ならどうする。仲間を傷付けるやつなら、どうするんだ?それでもテメェは手ェ抜くのか」

 そして再びどん、と突き飛ばされたジョシュアはよろめきながら後ろへと下がる。

「テメェには覚悟がねェ。人を殺す覚悟が、全くねェ。そんなんじゃ人なんか守れねぇんだよ」
「ころす、覚悟……」

 そうだ、とリカルドはナイフを構える。

「相手は遠慮なく殺しに来る。あのな、殺すのは簡単なんだよ。そりゃそうだ、遠慮しなきゃいいだけだ。だが殺さないのは難しい。戦いながら、でも相手を殺さないように加減しなきゃならねぇ。体力削んのと殺す方、どっちが簡単かわかるだろ」

 リカルドはそう言うと、少し目を伏せてナイフを持っている手に力を込めた。どこか辛そうに、表情を歪めながら。

「……力の無いやつは、簡単な方を選ぶしか出来ねぇ。オレには、守る力が無かった。だから、殺られる前に殺るんだ。……そうしないと、何一つ守れやしねェ」
「……オレは……」

 ジョシュアは拳に力を込め、真っ直ぐ向き直る。

「オレは、誰も殺したくない。死なせたくない」

 それを黙って見た後。リカルドは不機嫌そうに眉を寄せた。「わかってんのか」とジョシュアに歩み寄る。そしてその胸ぐらを掴むと軽々とその体を持ち上げた。

「おら見ろ!テメェなんかこんな軽くてひ弱なんだぞ!そんなんでどう戦うんだよ!?」
「オレは……オレはひ弱なんかじゃない!」
「じゃあオレを倒してみろよ!」
「それは……っ」

 手が震える。もし殺してしまったら。傷付けてしまったら。だがリカルドの目は真っ直ぐこちらを向いていて、全力で来いと、そう訴えているようだった。
 ジョシュアはぐっと噛み締め、胸ぐらを握るその腕を掴んだ。そしてその手に力を入れていく。ぎゅう、と腕を締めていく一回り小さな手。だが徐々に、ミシミシと骨が軋む音が響く。
 リカルドはその顔を痛みで歪めると、咄嗟にその胸ぐらを離した。が、ジョシュアの手は未だに自身の腕を締め付けていく。ミシミシ、と骨が鳴る。

「ぐ……ぁっ、てめ、ぇ……」

 止まることなく込められていく力に、リカルドは膝を着いてその痛みに悶えた。まさかこんなに力があったなんて。力を抜いているのは分かっていた。だが、そんなひょろっこい体のどこに、こんな力が。
 解放されると、リカルドはその腕を押え蹲った。もう少しで折られるところだった。それ程、「軽く」握られた。

「お、い……やっぱり、オレのことナメて……」
「違う。ただオレは、傷付けたくなかった。もう誰にも苦しんだり、死んで欲しくなかったから」

 でも仕方ない時もあるのだと、チンクエとの争いはそう思わせた。攻撃をただ避け続けたところであの戦闘狂は収まらない。話し合うことすら出来ないあの状況では、最低限攻撃する必要があった。だがこうして傷付けずに相手の戦意を喪失さえさせてしまえば、それで済むかもしれかい。
 殺さないよう、傷付けないよう力を調整するのは難しいことだろう。きっとオレは下手だ。でも。

「……オレは、どうしても殺したくない」

 リカルドはそれを黙って聞いた後。ふっと笑いを零すとゆっくりと立ち上がった。へぇ。とまるで嘲笑うようにジョシュアを見る。

「なるほどな。それはそれはいいお考えで。…だが、そう上手くいくとは思うな。テメェが相手すんのは国の犬バンビーニ……かつて存在した吸血鬼じゃねえかと噂されるほどの実力者集団だろ。それにテメェ一人で何が出来る?」
「一人じゃ、ない」

 ジョシュアは弱々しくそう呟いて、しかし首を横に振った。ひとりじゃないんだ、と今度は強くリカルドを見つめる。

「皆が、いるから……一人じゃ、ない」

 少し驚いたあと、リカルドはお腹を抱えて盛大に笑ってみせた。ジョシュアは突然のことに目を丸くして驚く。な、なぜ笑う?
 リカルドは笑いを収めるように息を吐き出すと、姿勢を元に戻した。そしてふっと柔らかく微笑んでその頭に手を置く。

「よかったな、ガキ。いい面するようになったじゃねェか」
「……え……」
「少し前まで、しにたいだのきえたいだの考えてそうな面だったのに、いつの間に成長したんだか。……ま、ヴィヴァルディのヤツらのおかげか」

 頭をわしゃわしゃと撫でた後、背を向けて歩いていく。

「だがオレはそのやり方を知らない。教えてはやるが調整はテメェでしろ」

 そのまま振り返らずにひらりと手を振って、歩いていってしまった。
 びっくりした。リカルドに殴られると思ったから。……でも、ようやくオレのすべきことがわかった気がする。まだ、一歩目かもしれないけれど。

「とりあえず、訓練続けないと」

 目的は変わらない。だがもっと強くなって、バンビーニ達を圧倒するほどの力をつけないと。……力をつけて、皆を説得する。

「……やるぞ、オレ」

自分の頬をぱちん、と両手で叩くと、よし!と声を上げて屋敷の中へと入っていった。






 爆音。銃声。悲鳴。断末魔。焦げた匂い。火薬の匂い。鉄の匂い。……血の匂い。

 白髪に褐色肌の男、ウノはその中でただ立ち尽くしていた。
ドゥエが、連れていかれた時と同じだ。そう思うと体が動かなくなる。
 なぜあの時何も出来なかったのだろう。なぜもっと強くなかったのだろう。なぜ。なぜ。考えると止まらなかった。
 真っ赤な空を見上げる。そこら中で火が上がって、煙が空へと吸い込まれていた。
 兄さん!声が聞こえたと思えば、すぐそこまで迫っていた人間の姿。ナイフを構え、ウノの首にナイフを近づけて行く。ウノはその手を掴み軽く捻ると、地面へとその男を押し倒した。唸っている男にそのナイフを近づける。そして、鋭い目付きでナイフを首に突きつけた。

「ドゥエ……バンビーニの一人を連れ去った奴らを知らないか?」
「ひっ……!んなの、知ってる訳……!」
「じゃあここで死んでもらおう」
「ちょっ!待て待て!えと、確か噂なら聞いた!どこかのファミリーが、マフィアが!バンビーニの一人を連れていたとか!そんな噂!」

 そうか、とウノは少し上を見上げ、立ち上がるとその顔をふみつぶした。他国のマフィアの侵入は他のマフィアどもが許さないはずだ。となると、国内か……。
 国内で争うと怒られるのだが、連れ去られたのがバンビーニの一人ドゥエともなると許されるだろうか。

「ドゥエ……必ず、迎えに行くから……」

 その姿を黙って見ていた女性……バンビーニの三番目、人束だけ白くなった黒髪のトレはため息をついて周囲を見回した。
 ああ、もう。うじゃうじゃと人間が湧いてくる。どこからだろう?もう何百人も殺したはずなのに、またこんなに。お腹いっぱいにもなったし、もう疲れた。帰りたい。

「また服汚れちゃった……」

 突然後ろから大柄の男に抱きしめられる。興奮した様子のその男は軽々と持ち上げると、トレの耳元で囁いた。

「ああ、シニョリーナ。こんな所より僕の部屋でゆっくり楽しまないかい?」

 トレは振り返りもせずにため息を吐く。ええ、そうねとその腕を軽く掴むと、その男を見上げた。

「それも悪くないわね」

 微笑んだその時には、男の頭は無かった。あら、と驚きもせずその腕を離すと、足を拭っている青髪のその男へと顔を向けた。

「ありがとう、チンクエ」
「あー?ああ、居たのか。休憩?」
「んー、まあそんなとこ。あげるわよ、そこら辺の人間」
「お、そりゃありがてえ」

 周囲の人間がその圧に押されて距離を取る中、チンクエは鼻歌を歌いながらその中心に立つ。そして「さあ!」と両手を広げ笑って見せた。

「久しぶりの外なんだ……どうせならオレと遊ぼうぜ?後悔させねぇからさ」

 ざわ、と恐怖が兵士たちの中に渦巻く。誰もが、そこから動けなかった。そこに立っているだけで圧に押しつぶされそうだ。まだ殺意すら感じていないのにその威圧感だけで殺されそうだった。
 兵士の中の一人が躊躇しながらも、覚悟を決めた様子でそのチンクエに向かって銃を向ける。「うわああ!!」と叫びながらその銃を乱射した。だがふと見ると、そこにチンクエの姿はない。
 「ぐぇ」という声が聞こえて辺りを見渡すと、そこに居たはずの人間が皆肉塊となっていた。青ざめていると、後ろからその両肩を掴む手。そして耳元で悪魔が囁いた。

「嗚呼、嬉しいぜ。唯一オレに応えてくれたよなァ?嗚呼……オレは今凄く嬉しいんだ」

 振り返ることすら出来ずにガタガタと体を震わせる。あんな一瞬で、仲間たちが……。嫌だ、死にたくない。死にたくない!!
 辛うじて立っているその足を、悪魔チンクエは撫でていく。下から上に、恐怖を煽るように。

「テメェも嬉しいだろ……?こんな震えちまって……いっそ漏らすことも出来ねぇか?」
「し……」
「し?」
「しにたく、ない……!」

 たすけて、と言う前のその口をチンクエが手で押える。おい。低い声が耳元で響いて、兵士はびくりと大きく体を跳ねさせた。

「んなつまんない事言うなよ殺したくなるじゃねぇか」
「ひっ!ごめんなさい!ごめんなさい!」
「はは!冗談冗談!んな震えんなよ」

 チンクエはそのまま肩を抱きトレの方へ向く。玩具を手に入れた子供のようににっこりと無邪気に笑って、その兵士を見せつける。

「おい!オレはこいつ連れて帰るぜ!」
「えー……まあ、いいんじゃないの?」

 戦場に似合わないその明るい声に、兵士は胸をなで下ろした。殺されなかった。皆には悪いけど、ほっとしてしまった。
 なんとなく噂には聞いていた。まれに、生きたまま連れて帰られる兵士がいるのだと。理由は分からないが、何故か気に入られたらしい。
 あの、と兵士が顔を見上げる。チンクエは、あ?と答えるもそこに殺意は感じられない。

「なんで、ボクを……」
「オレを無視しなかったから」

 そんな、ことで。仲間は殺されたのか。思わず漏れそうになった言葉をぐっと飲み込み「そうですか」と俯いた。なんの躊躇もなく人を殺していたこの男には感情なんてあってないようなものだろう。人間なのに、人間らしくない。赤い目も相まって、まるで、吸血鬼だ。
 チンクエは兵士の頬を片手で掴むとそのまま自身へと顔を向かせる。

「おい、テメェ名前は?」
「え、あっ、イルです」
「イルか。テメェはな、今日から……つか、たった今からか」

 チンクエは再びにこりとその表情を明るくさせた。兵士……イルはそれにほっとすると、はい、と応える。

「オレの餌だ」
「……え?」

 目を見開いたその時には、既にチンクエの牙が首に突き刺さっていた。肉にくい込むその歯の鋭さに、痛みに、イルが表情を歪ませる。痛みに身動ぎ唸っていたが、気付けばそれは快楽へと変わっていた。
 その快楽は抵抗すら許されず、もっと、と思考を支配していく。ガクガクと足が震えて立ってられず、思わずチンクエの腕にしがみついた。気持ちいい。もうそれしか頭になかった。
 チンクエは一度口を離して、流れる血を舐め取っていく。そしてニヤリと目を細めた。

「嗚呼、美味い……こいつ中々に美味いな。……しかし、オッドアイを手に入れたいところだよなァ?一度くらい飲んでみたいぜ。比べ物にならねェんだろ?」
「オッドアイ欲しいなら、この前チンクエが押し掛けたヴィヴァルディってとこ狙えばいいじゃない。オッドアイ沢山居るらしいわよ」
「……へーえ?」

 チンクエは何かを含んだように笑うと、吸って欲しい、とせがむイルにちらりと視線を向けた。

「そりゃ、いいな」

 そして、がぶり、と再びその首に噛み付いた。





 それらを見ていたクアットロは咳をしたあと、ため息を吐いた。
 この戦場にも慣れてしまった。血も、その匂いも、火薬の匂いも、人の声も。でも、いくら慣れても、ここは地獄だ。
 本で読んだことがある、普通の日常…普通の生活に、憧れはある。贅沢で無くてもみんなで暮らして、争いなんて一切しない。少しのことで笑って怒って、みんなで悩んで、また笑って。
 そんな、そんな「普通」の生活。吸血鬼であり、ホムンクルスであるオレには贅沢なものだ。オレにはこの戦場がお似合いなんだろう。こんな、化け物には。
 ポツ、と雫が頬に落ちる。雨か。こんな血を流してくれるなら、なんだっていい。だが空を見上げても雨なんて降っていなかった。……じゃあ、これは。まさか。

「涙……?」

 ぐし、と目元を擦る。初めてだ。というか、ホムンクルスオレらでも出るものなのか。
 主に悲しい、という感情から出るものらしいが……。

「……オレは、悲しい……のかな」

 だとしても。何も、変わらない。今までと何も。これからもこうして人を殺して、殺して。そうして化け物として生きるしかない。それがオレの、オレたちの人生。
 ふと、人の山の中で唸り声が聞こえた気がして歩み寄る。よく見ると兵士の一人がまだ息をしていた。

「あ、すまない。コホ、コホッ……今楽に……」

 首に手を伸ばすその手が止まる。殺すべき。だが、殺していいのか?任務なのだからいいのだろうが、そうじゃなくてもっと、もっと人間らしく生きるとするのなら。許されるなら。

「……一緒に、来るかい?」

 餌として、だけれど。と目を伏せる。静かに、力なく伸びてくるその手をそっと掴み、山から救出した。ありがとう、と小さく絞り出される言葉。クアットロは小さく目を見開いて、そして俯いた。
 ああ、この言葉が、ずっと欲しかった。本の中では当たり前に見ることが多い言葉だが、ほとんど言われたことの無いものだった。兄弟から貰うものとは、また違う。
 嬉しい。素直にそう思って、クアットロはその手を強く握った。ありがとう、と微笑みながら返す。
 ぐしゃ。その音とともに目の前の人間だったものは、クアットロが握っている手を残しただの肉塊となっていた。ただそれを見つめていると、すぐ先の大柄な男が振り返る。その男を見てクアットロは「オット」と呟いて、握っていたその手をそっと下に降ろした。

「なんで、この人を?」
「……命令」

 それだけ言って、オットは黙る。元から無口で無表情な男だった。何を考えてるのか、兄弟でありながら何も分からなかった。ただ、命令に忠実だった。
 動揺することなく、ただ静かにその目を見つめる。こほ、と咳をした後、口を開いた。

「……うん。そうだね。でもねオット、この人間はオレの餌にするつもりだったんだ」
「……そうか」

 オットは目を伏せて、黙り込む。どの感情も映さない表情とその目がクアットロは苦手だった。限りなく人形らしく、不気味で怖かったのだ。弟を恐れるなど兄失格かもしれないが、最早弟とすら思えなかった。
 オットは黙ったまま、背を向けて歩き出した。……まあ、元より謝罪など期待していない。そもそもオットは何も間違ったことはしていないのだから。
 でも。それでも。下に膝を着いて、肉塊を撫でる。ごめん。ごめんね。そう繰り返すクアットロの目からは、涙がぼろぼろと溢れていた。

「……しあわせに、なりたい」

 無意識に吐き出された言葉は空気に溶け、クアットロの心を締め付ける。ああ、もう。どうしようもない怒りが溢れ出しそうだった。
 それを抑えるように下唇を噛み締め、立ち上がる。

「しょうがない、しょうがない……」

まるで自分に言い聞かせるように。何度もそう呟いた。







 ジョシュアはリカルドとの特訓で未だ痛む腹を擦りながら長く広い廊下を歩く。すっかりこの大きな屋敷にも慣れてしまった。最初の頃はよく迷ったな、と小さく笑って部屋を開ける。
 ふと見ると、テーブルの上には甘い匂いがするものが乗っていた。なんだろう?近付いてその食べ物を見る。ケーキ……とは少し違うような。

「ジョシュア、戻ったのね」

 カテリーナの声が聞こえて振り返る。びっくりした、と漏らすジョシュアにカテリーナは無邪気にふふふっと笑ってみせた。案の定、ジョシュアはそれを見て心臓を鷲掴みにされたようだった。

「えと、……あっ、ねえ、これ何かわかる?」
「これ?ああ、クロスタータね。フルーツジャムが詰められているのかしら。美味しそう」

 クロスタータ。どうやらまた新しいものを知った。スイーツ、らしい。椅子に座ってフォークを手に取った。まだ使い慣れないが、アェルド曰く「最初よりは随分とマシになった」とのこと。
 クロスタータにフォークを入れる。サク、という音が響いて、もう一度フォークを入れた。食べやすそうな大きさになったそれを、口へと運ぶ。そして、口に甘さが広がりやがて目を輝かせた。

「美味しい……!」
「良かったわね。私も貰ってこようかしら」

 あったらいいのだけれど、とカテリーナは部屋を出ていった。……そういえば、料理は誰が作っているのだろうか。ブルームだと思っていたが最近屋敷を空けていて作れるはずもない。アェルドは作らなさそうだし、三つ子にも荷が重いような……カテリーナも、最近来たし……。となると。

「知らない人がまだ居る……!?」

 こんなに屋敷にいたのに!?とジョシュアは目を丸くして驚いた。そう考えてみるとキッチンすら分からない。部屋に料理が運ばれて、それを食べていた。当たり前のように。

「……お礼を、言いたいな」

 こんなに美味しいものを毎回作ってくれているのか、と少し感動する。どんな人達だろう?会ってみたい。

「食べ終わったら、探索しよう」

 急ぎたい気持ちを一先ず頭の端に追いやり、クロスタータをゆっくりと楽しんだ。






 味わっているとすっかり夕飯の時間になっていた。急ぎ足で廊下を歩き、部屋を覗いていく。
 しかし部屋が多くとても時間がかかる……。そこで、いつも食事を食べている部屋に近いはずだ。そう思ったジョシュアはその部屋を開ける。まだアェルドも三つ子も誰もいない部屋を見回していると、今まで気づかなかった部屋があることに気付いた。そしてそこからは、美味しそうな匂いがしているようだった。
 あそこだ!とジョシュアはその部屋へと駆け寄り、そっと扉を開けた。沢山の人が居るなら、一人とはいえ入ってしまうと邪魔だろうか。でも見てみたい。
 しかし視界に飛び込んできたのは、たった一人の女性の後ろ姿だった。

「えっ」

 一人?と思ったその時、つい声が漏れてしまった。それを聞き逃さなかったのか、その女性が振り返る。そして束ねた長い髪を揺らしながらジョシュアへと歩み寄った。

「あんたがジョシュアかい?」

 腰に手を当て、首を傾げる。どこか色気があるその雰囲気に、服の上からでも分かる大人らしい体つき。女性は目を細め「思っていたよりはいい顔じゃないか」とニコリと笑う。

「あたしはサラ。アェルドに拾われた、ただの使用人さ。話は聞いてるよ、ホムンクルスの吸血鬼ヴァンピーロらしいね。随分大変そうじゃないか」

 よくやってきたね、とサラはジョシュアの頭を撫でる。初めてあったはずなのに、どこか暖かい雰囲気でとても心地いい。
 あっ、と思い出したように声を上げる。

「あなたが、作ってくれてたんだよね?」
「ああそうさ」
「一人で……?大変じゃないの?」
「あたしは作るの大好きでね。皆の美味しいっていう感想を聞けたら疲れなんて吹っ飛ぶよ」

 ははっと笑って、サラは大皿を両手にそれぞれ抱えて歩いていく。ジョシュアはその先の扉を開けるとサラは「気が利くじゃないか」とまた笑ってテーブルへと乗せていった。

「最近はブルームも居ないし、ただでさえ少ない人手がもっと少なくなって困ってるんだよ。まあ、カテリーナが来てくれたお陰で随分と助かってるけどね」

 ジョシュアも置かれているお皿を運んでいきながら、そのサラへと問いかける。

「なんでアェルドは使用人?を増やさないの?サラが大変」
「はははっ!心配してくれてるのかい?ありがとうね」

 サラは最後の大皿を置くと、「そうだね……」とエプロンを外した。そして椅子へと腰掛けると、アェルドの席を眺める。

「……あいつはね、その目のせいで幼い頃から苦労したんだろう。人と関わることが怖い、って酒に酔った時にこぼしてたっけな。だからか知らないけどね、あいつは自分のように苦労している人間を引き取り始めた。みんなそれぞれ、色々あった。もちろん、あたしもね」
「そう、なんだ……」
「そうさ。苦労してない人間なんて居ないだろうけど、ここの奴らはもう少し特殊だ。だからこそ自分のもとへ集めたんだろうが、それはきっと自分の家族が欲しかったのもあるんだよ」

 家族?と首を傾げるジョシュア。アェルドの家族の話はあまり聞かない。むしろあいつに居るだなんて、想像すらつかないものだ。……でも、アェルドも苦労したんだよな。ジョシュアはなんとなくそう思って、目を伏せる。
 サラはそれを見て豪快にわしゃわしゃとその頭を撫で、「あんたが気にすることじゃないよ」とまたまた豪快に笑った。

「話が長くなったね。まあ、あいつが使用人を増やさないのは……ひとつは人と関わるのが怖いから。そしてもうひとつは……多分、みんなを守るためだよ」
「守るため……?でもそれなら、人が居た方が…」
「……難しいね。人は、簡単に裏切るものさ」

 サラは窓の外を眺める。その視線はどこか寂しそうに見えた。

「ま、ここの人間みたいに良い奴もいるけどね。要するに皆が大事なんだよ、あの男は」
「なんの話しをしているのかな?」

 聞き覚えのある声に振り返ると、やはりアェルドが立っていた。アェルドは不満そうに片眉を上げてみせると、いつもの席へと腰掛ける。サラは驚きもせずに「あんたの話だよ」とにっこりと笑っていた。

「私の話?面白くもない。やめたまえ」
「あたしは面白いさ。早くあんたの弱点が知りたいねえ?」
「……へえ?探れるものなら探ればいい。無いものをどう探すかは知らないがね」

 いつも通りの嫌な笑顔を浮かべるアェルド。いつも人を小馬鹿にしたように笑って、余裕もある。だからだろうか、感謝はしているし信頼もしているがどこか気に食わない。ジョシュアはムッとした表情を浮かべ席に座る。間もなくしてカテリーナや三つ子が集まり、食事が始まった。
 今日は初めてサラと共に食べることになったが、いつもはどこで食べているのだろうか?一人だとしたら、寂しかっただろうか?

「サラ、美味しいね」

 ん?とサラは少し驚いたように目を丸くする。そして「そうだろう」と満足そうに笑った。
 サラは豪快で不思議な女性で、ジョシュアはもうとっくに好きになっていた。また新しい人と出会えたと楽しくなった。
 ……目的は忘れない。忘れてはいけない。きっと兄弟たちはたった今も苦しんでいるだろう。でもだからといってオレまで苦しむのは違う気がする。だからこそ沢山力をつけて余裕を持って、兄弟たちを助けたい。
 ジョシュアはうん、と小さく頷いて大きな一口を頬張った。

「はは、いい食べっぷりじゃないか!」
「大口開けて食べるんじゃない、ジェシー」

 アェルドもそう言いつつどこか微笑んでいるように見えた。三つ子も口々に「おいしい」「おいしいね」「おいしい!」と楽しそうに食べている。
 楽しい食事。いつの間にか兄弟たちと同じくらい、この日常を守りたいと思っていた。オレの大切な場所。大切な人たち……。迷惑を掛けてしまうだろうけれど、それ以上に返せばいい。人はそうして生きていくのだと、いつかブルームが言っていた。
 ……また今度、ブルームも帰ってみんな揃った時には、こうして食べたいな。一緒にお話して、少し夜更かしなんてしたりして(アェルドが怒るかもしれないけど)。
 これからそんな毎日が待っていると思うと、胸がドキドキする。

「何をするにしても、あんたはとりあえずいっぱい食べて体力を付けるんだよ」
「……うん、ありがとうサラ」

 そしてジョシュアは、また大きな一口を頬張った。






 次の日。ジョシュアはサラの買い物に付き合っていた。「気分転換にもなるだろう」。そう提案してくれたのはアェルドだった。
 買い出しというか、あの屋敷に来てこうして出掛けたのは初めてだ。それだけで胸がドキドキした。
 赤い目を隠すためにローブを深く被り直して、サラの後を歩いていく。サラは街の人達と仲がいいようで、さっきから色んな人と話をしていた。会話を交わす度フルーツや野菜などの食べ物をもらい、持っていたカゴは既にいっぱいだ。
 重くないのかな、とは思うが自分も既に荷物を持っていて、更にそれを持つほどの筋力がある自信はなかった。
 そんな心配をよそに、サラは軽々とそのカゴを持っている。

「さて、何か欲しいものはあるかい?」
「え?」
「折角街に出たんだ。何か好きなものを買おう」

 に、とサラは笑ってジョシュアの頭をわしゃわしゃと撫でた。欲しいもの、か。考えたこともなかった。そんなものが手に入るとも思わなかったから。空を見上げて考える。服もある。綺麗にもして貰えた。他に必要なものも揃っている。……さて、どうしたものか。
 するとひょこ、とサラが覗き込んできた。

「思いつかないのかい?」
「……うん、考えたこと、なかったから」
「なんでもいいんだけどねえ……」

 うーん、と悩み始めるサラ。その横顔を見て、ジョシュアは彼女の耳にあるきらりと光るものを見つけた。

「サラ、耳のそれ……なんて言うの?」
「ああ、ピアスかい?かっこいいだろう?」
「……うん……」

 ピアス。見たことはあったが、サラの耳にはいくつも付いていた。……なんだか、かっこよかった。

「……それがいいな」
「えっ、これかい?」

 驚いて自分の耳を触ってみせるサラ。ジョシュアは迷うことなく、うん、と頷く。

「これか……かなり痛いよ?ほんとにいいのかい?」
「痛みには強いから」
「そうじゃなくてねえ……」

 サラはしばらく困ったように唸った後。わかった、と観念したようにジョシュアに向き直る。

「アェルド相当びっくりするだろうけど……帰ったら開けてあげるよ」
「ほんと!?」
「ああ、本当だよ」

 嬉しそうなその表情を見てサラは小さく笑うと「さて」とその頭に手を置いた。

「少し待ってておくれ。すぐそこに居るから」
「うん」
「何かあったら来るんだよ」

 いいね?とサラはその手を動かしてジョシュアの頭を撫でる。ジョシュアは、うん、と頷き歩いていくサラを見ていた。
 ピアス。かっこよかったな。

「オレも、かっこよく、優しくなりたい」

 そしてサラやブルームのように、誰かを安心させる人でありたい。……吸血鬼ヴァンピーロでも、それは可能なのかな。被っているローブを深く被り、俯いた。
 どう生きようにも、ずっと付いてくる事になるだろう。オレは最初からまともには生きられないと決まっていたのだ。
 せめて。せめて迷惑だけはかけずに生きたい。

「もう、迷惑かけてるかなあ……」

 ふと視線を上げ、辺りを見渡す。どこもかしこも幸せそうで、楽しそう。羨ましいが、オレからしてみれば今だって楽しい、幸せだ。それを失わないためにも、もっと強くならなきゃ。
 ドタッ。と言う音が聞こえてそこに顔を向けると、目の前で少年が転んでいた。少年とはいえジョシュアとあまり変わらなさそうな、いやむしろジョシュアよりお兄さんのように見えるが。
 ともかくその少年を見てジョシュアは目をぱちくりと瞬かせ、はっと我に返ると急いで駆け寄った。

「だ、大丈夫!?結構思いっきり転んだけど……」
「あっ、ご、ごめんなさい……!大丈夫です、少し擦りむいたくらいで……」

 少年は起き上がって、申し訳なさそうに何度も頭を下げた。よく見ると手には擦り傷が出来ていた。
どくん。ジョシュアの心臓が跳ねる。
 えっなんで。どうして。そう思うジョシュアとは裏腹に、体は、本能はその血を求めている。このままじゃ……。
 少年はジョシュアを見て、首を傾げた。

「大丈夫、ですか?貴方の方が体調が悪いような……」
「だ、大丈夫……無事なら良かった。それじゃ……」
「あっ!待って……!」

 少年の声を背に、ジョシュアは走る。本能から逃げるように。吸血鬼としての自分から逃げるように。
 何度も思った。どうしてオレは普通の人間じゃないの。どうしてオレは、生まれてしまったの。そしてそれが、まさか戦争のためだとは。そんなの、生きてる方が迷惑だ。武器なんか、兵器なんか、要らない。無い方がいい。
 路地裏に入って、蹲る。懐かしい。少し前まではこうして身を隠して、人から物を盗って暮らしていた。その時助けてくれた恩人と、それなりに幸せに暮らしていた。
 ……もう、その幸せは戻ってこないけど。

「あの!」

 ふと声が聞こえて肩が跳ねる。驚いた顔のまま振り返ると、そこにはさっきの少年が居た。

「本当に大丈夫ですか?すみません、少し心配で……」
「大丈夫!大丈夫だから……!」

 そう言って後ずさるジョシュア。ダメだ、また血の匂いが。するとローブを踏んでしまったようで、そのまま体勢を崩し後ろへと倒れる。

「あっ!」

 少年は咄嗟にジョシュアの手を掴むと、自分に引き寄せた。しっかりと背を支えて、「大丈夫ですか?」と心配そうにその顔を覗き込む。
 ジョシュアは目を見開いたまま、ゆっくりと口を開ける。いやだ、噛みたくない。噛みたい。飲みたくない。飲みたい。いやだ、もう……やめてくれ!!
 そう思った瞬間。ピタリと本能の声は聞こえなくなった。あれ。収まった……?

「だ、大丈夫ですか?」

 少年は、突然口を開けたまま固まったジョシュアに驚いたようでぽかんとしている。ジョシュアは急いでその口を閉じ、距離を取るように離れた。そしてローブを深く被り直すと、改めて少年に向き直る。

「大丈夫……心配してくれて、ありがとう。でも本当にもう、大丈夫だから……」
「けれど、顔色が……」
「び、病気で……」
「だから、目も赤いんですか?」

 ゆっくりと目を見開いた。しまった。見られていたのか。早くなる心臓を抑えるように胸に手を当て、落ち着けと自分に言い聞かせる。
 こんな気味悪いの、見られてしまった。怖がらせてしまう。拒絶される……また、オレの存在が…。
 こくりと喉を鳴らして、ゆっくりと顔を上げた。

「……そうだ。病気で、目が赤い。でも病気とはいえ目が赤くて肌が白いんだ。……例の化け物、みたいだろ」
「化け物……吸血鬼……ですか?」
「……そう。あいつらの他に目が赤いなんて……ほとんど居ない。だから、早く向こうに行ってくれ」

 もう二度と傷つけたくない。……いや、傷つきたくない。
 少年はそれを静かに眺めると、小さくため息をついた。

「大丈夫ですよ。貴方がたとえ吸血鬼だとしても、僕は貴方を拒みません」
「え……」
「これも何かの縁でしょう?よければですが、お友達になりませんか?」

 意外な反応に、思ってもみない提案。ジョシュアはきょと、と状況が飲み込めないままただ目を丸くさせる。少年はにこりと微笑むと、そんなジョシュアの手を両手で包んだ。
 あ、暖かい。ジョシュアはゆっくりとその手を見てから、恐る恐る少年を見上げる。

「ボクはルカ。貴方の名前は?」
「じ……ジョシュア」
「ジョシュア!いい名前ですね!」

 わあ、と少年、ルカは目を輝かせると、包んだその手にきゅ、と力を入れ、強く握った。

「ジョシュア、大丈夫ですよ。ボクはたとえ貴方がどんな人であろうと、お友達に変わりはありません。というか、それでもジョシュアと友達になりたいです!」

 太陽のように暖かく優しいその微笑みは、ジョシュアの心を溶かしていくようだった。ジョシュアは少し俯いて、うん、とだけ答えるとその手を握り返した。
 こんな気味の悪いオレの手を握って、友達になりたいと言ってくれるのか。ジョシュアはその手をゆっくりと額に当てる。

「……ありがとう」

 小さく呟くように吐かれたその言葉に、ルカは嬉しそうに笑ってみせた。







「ちょっと、どこ行ってたんだい!?心配したんだよ!」
「ごめんなさいサラ」

 苦笑いで謝るジョシュアを見て、サラは不思議そうに首を傾げる。そして、あんた、とその顔を物珍しそうにまじまじと見詰めた。

「なんでそんなに嬉しそうなんだい?」

 えっ、と急いで自分の顔を触る。そんなにニヤついていたかな、とジョシュアが少し慌てているとサラは豪快に笑ってジョシュアの頭を少し乱暴に撫でた。
 なんだいなんだい、とサラまで嬉しそうに笑っている。

「帰ったら聞かせておくれよ」
「えっ、恥ずかしいよ……」
「おやあんた、カテリーナという子が居ながら女の子かい?」
「ちっ違!ていうかカテリーナとはそんなんじゃねえし!」

 からかってくるサラを振りほどくように先を歩く。ルカとの別れ際。「またね」と手を振りあったその瞬間が、ずっと頭から離れない。また会ってくれるのだと、それを望んでくれるのだと。そう思うと自然と口元が緩んでしまった。
 またね。この言葉が、こんな短い言葉が、すごくすごく嬉しかった。







「へえ。友達が」

 帰った後。サラが言ったせいでみんなに話を聞かれることとなった。わざわざ食事の後みんなで集まって、なんだか記念日のようにケーキを食べたりして。
 そしてオレの話を聞いたアェルドは、驚いた顔のままそう呟いた。

「なんだよ」
「いや、良かったじゃないか」
「……怒らないんだ」
「なぜ怒るんだい?ちゃんとジェシーが色々な危機感を持って接すなら、なんの問題もない。帰れば私たちが居るのだから、吸血衝動も抑えられるだろう。ただし遠くへは行かないように」
「うん」

 ふと、その言葉にジョシュアは思い出したように、あ、と声を上げた。

「そうだ、アェルド。今日一瞬血が飲みたくなったんだ。すごく。でも、すぐに抑えることが出来た…なんだろう?これ」
「ふむ……抑えられたのはいいが……一瞬でも出るのはジェシーにとっても負担になるね。定期的に少しずつ血を与えることにしよう」

 また血が貰える、と密かに喜ぶジョシュアに気づき、アェルドは小さく笑みを零す。少しずつなら暴走の問題もないさ、と紅茶を一口、こくりと飲んだ。

「よかったねジェシー。存分に楽しんでおいで」

 微笑むアェルドを見てジョシュアは安心したようにほっと胸を撫で下ろすと、うん、と照れくさそうに、そしてぎこちなく笑った。




 それから、何度もルカに会いに行った。
 人目が気になるだろう、とルカは橋の下や路地裏など、人目につかない場所を選んで話してくれた。ルカが持ってきた本を読んだり、ルカの話を聞くのが楽しかった。見たことも無い本、聞いたことの無い話。どれもが新鮮で、どれもが輝いて見えて。
 とにかく、友達と話しているということが何より嬉しかったのだ。初めての友達。なんだかこそばゆいが、やはり嬉しい。何度も心の中で呟いて、その度に会いたくなった。こんなオレでも、友達が出来るなんて。今はただその幸せを噛み締めていた。






 人気のない夜の街を静かに歩く。そこに僅かに居る人間のうち、大体は家のない者たちばかりで路地裏からは腐臭すらしていた。だがこういう場所はもう慣れている。なにかの取引や調べる際にはこういう所が役に立つのだ。誰も好き好んで入る場所ではないから。何があっても不思議ではないから。
 少し離れたところからは叫び声や怒鳴り声、奇声が聞こえてくる。そこかしこに血の跡すらある。今もほんの少し先で喧嘩が勃発した。そんな地獄のような場所を歩き続け、比較的綺麗な橋。……の三つ先にある細くくたびれた橋の下にブルームは降りた。
 辺りを見渡すと、一人の男が端で蹲っている。警戒しながら歩み寄ると、男は驚きもせずそのブルームを見上げた。

「あんたかい。Bってのは」
「ああ、そうだ。君こそ、グリアだな?」

 男は軽く頷くと、立ち上がって橋の真下へと歩いていく。
 男、グリアは元クストーデであった。クストーデとは、バンビーニたちを従え国に仕えている組織の事だ。吸血鬼が未だ存在し、それらがホムンクルスだということを知っている。というより、ホムンクルスの研究者が多く組織に在籍していた。
 彼に接触することで何か得るものがあるかもしれない。そう考えたのだ。それなりの報酬を支払う代わりに、グリアは協力してくれることになっている。彼は信頼していい。長い付き合いである情報屋の紹介は、今まで間違いなかった。とはいえ相変わらず警戒はしつつ、グリアの元へ着いていく形で橋の真下へと向かった。

「長居はしたくない。早速聞かせてくれ」
「何から知りたい?」
「……最近、オッドアイの人間が行方不明となる事件が多くなってきている。それについて何か知っているか」
「何だそれ。クストーデと関係あるのか?」
「私は、関係があると見ている」

 グリアは見定めるように、じとりと見詰める。その視線はどこか気味が悪い。しかしその動揺を悟られぬようブルームは変わらず平静を装った。
 するとグリアは、ふっと小さく笑いをこぼした。

「なかなかやるな。ああ、たしかに関係ある。……クストーデがオッドアイの人間を次々攫っている」
「……なんのためだ」
「分からないか?餌にするためだよ。化け物のな。昔から言うだろ。奴ら血がうまいらしい。オッドアイの血を飲むと力も跳ね上がり本人のやる気も出る。それは組織にとってありがたいことだからな」

 そりゃそんな美味しい餌集めるに決まってる、とグリアは不敵な笑みを浮かべる。
 しかしこれに関しては大方予想通りだった。オッドアイは吸血鬼にとって大好物であり、力を増幅させる薬でもある。そんな彼らを組織は放ってはおかないだろう。言いたくはないが、餌として間違いないから。

「バンビーニたちをそうして操っているのか」
「ああそうだ。生まれてこの方世界を知らない、無知なアイツらをそうして利用している。もうとっくに殺しが当たり前になってるよ」

 これは予想外だった。てっきり、戦争の道具として生まれたからには、元々殺意を持っているのだと思っていたが……。まさか後から教えこまれたとは。
 つくづくクストーデという組織が嫌になる。勿論知り合いにアェルドなどのオッドアイが居るから、という理由もあるのだが、そもそもそんな理由でホムンクルスたちを生み出したというのが気に食わない。なんて惨いことをするのか、と心底腹立たしい。
 その怒りを抑えて、ブルームは話を続けた。

「では彼らは望んで戦って……殺している訳では無いのか」
「そうだな。中には嫌な奴だっているだろうな。まあ、殺すのが当たり前だと思っているから何も疑わないが」

 馬鹿な連中だ、となんの躊躇いもなく吐かれた言葉に、ブルームは拳を握りしめる。抑えろ。平静を保て。無駄になれば意味が無い。彼らを、助けられない。全てが無駄になってしまう。
 そうか。ブルームは小さく呟いた。それなのに、とグリアが嘲笑うかのように言葉を紡ぐ。

「クストーデの連中のほとんどは奴らを嫌っている。というより、恨んでいる、の方が正しいか?」
「どういう事だ」
「そのままさ。過去、吸血鬼に人生を狂わされた奴らばかりなんだよ。だから、クストーデのバンビーニに対する扱いは散々だ。男は犬のように扱い女はその体を利用する。オレも楽しませてもらったよ」

 握る手に力が込められていく。怒りで頭の血管がはち切れそうだった。そんな、人間の私利私欲で彼らは。
 奥歯を噛み締め怒りを抑える。冷静に、冷静に。彼の機嫌を損なうのはまずい。アェルドの足をも引っ張ることになる。黙ってればいい。肯定も否定もせずに。

「馬鹿だよなあ?それが当たり前、それこそが仕事だ指名だって思ってるんだ」

 グリアがにやりとその口を歪ませる。

「本当に、生まれてきてくれてよかったよ」

 冷静に。
 そう思いながら、ブルームはグリアを思い切り殴っていた。その頬に拳をぶつけ、そのまま力を入れて体を吹っ飛ばしたのだ。
 得意なのは足技。だがそんなことを考えるより先に、体が動いていた。壁に叩きつけられる形で殴られたグリアは、呆気にとられていた。それはそうだろう。今まで冷静に話していた相手が怒りを剥き出しにして殴ってきたのだ。
 恐る恐る見上げるとそこには、怒りを隠しきれず強く睨みつけるブルームが居た。

「貴様のようなクズに聞くことはもう何も無い。殺しはしないが、もう二度と国に居られないようにしてやる」
「は?ちょ、待て……」
「その汚い口で話すな。オレまで汚れる」

 そう言い放つと、ブルームは踵を返してその場から立ち去った。怒りを抑えるように少し歩いて、やがて近くのベンチに腰掛ける。
 やってしまった。はああああ、と大きなため息を吐きながらブルームは頭を抱えた。やってしまった……アェルドがよく利用している情報屋の紹介なのに、殴ってしまった。あんなことを言ってしまった……。
 帰ったら謝らなければ。いや、謝って済む問題ではない。……しかし、後悔はしていなかった。アェルドには申し訳ないが、清々しい気持ちだ。
 仕方ない。腹が立ったのだから。……なぜあそこまで腹が立ったのか、自分でも不思議だが。

「……しかしやりすぎたか……」

 うむ、と小さく唸って、歩いてきた道を戻った。そして橋の下に降りると、グリアに歩み寄る。相変わらず、壁にもたれていた。

「その……先程はすまなかった。手を上げたのは反省している……」

 言ったことに後悔もしなければ偽りも無かったのだが。しかしグリアは何も答えない。……余程、怒らせたか。それとも怖がらせてしまったか。

「……グリア?」

 なにか様子がおかしい。そっとさらに歩み寄って、改めて彼を見詰めた。その首元には、噛み付かれた跡。そして、溢れた血。

「グリア!?」

 急いで彼の肩を掴み揺さぶるが、グリアはそのままずるりと倒れる。もうとっくに、息をしていなかった。
 ブルームは動揺する己を落ち着かせようと小さく深呼吸をして、しゃがみこみその跡を見る。どこからどう見ても吸血痕。グリアも馬鹿じゃない、元クストーデなのもあって、それなりに動ける男だ。そんな彼に一瞬で近づき、噛み付いた……。これは紛れもなく。

「バンビーニ……」

 大体、吸血鬼はジョシュアを合わせて彼ら十三人しか居ない。そうなれば当然、バンビーニの誰かがグリアに噛みつき必要以上に血を啜り、殺したのだろう。

「一体、誰が」

 いや、誰でもいい。一刻も早くここを離れ、アェルドに報告しないと。まだこの付近に潜んでいる確率はかなり高い。
 警戒をしながら、立ち上がる。そしてグリアから離れると、急ぎ足で橋の上へと戻った。
 橋の下と違い、月明かりが辺りを照らしているおかげで幾らか明るかった。これだと接近されても見やすい。自分自身、体術には自信があった。アェルドを支えられるように、守れるように鍛えてきたのだから。
 だが突然、鋭い痛みが首筋に走った。体全身がびくりと跳ね、痛みがじわりと広がっていく。これ、は。

「ぐっ……!」

 噛まれた。痛みに耐えながら目を動かすと、視界の端に青い髪が映った。その男が、自分の首筋に噛み付いている。
 バンビーニだ。

「こ、の……!」

 話をするためにも距離を取りたいが、強い力で体を抱きしめられ身動きすら取れない。どくんどくん、と首筋に心臓を感じた。
 あまりの痛みに表情を歪ませながら、なんとか手を動かしてその髪を掴む。そして、声を絞り出した。

「やめ、……っ!私は、敵じゃ、な……」

 血が吸われる感覚を感じながら全身の力が抜けていく。痛いはずなのに、いつの間にかそれは快楽へと変わっていた。気持ちがいい。それしか、考えられない。もう、このまま…。
 ガブリ。ブルームは自分の手に思い切り噛み付いて、自身の意識を無理やり戻した。このまま呑まれる訳にはいかない。死ぬ訳には、いかない!
 肘で相手の腹を突き、一瞬緩んだその隙に思い切り体を押して離れる。溢れ出る血を止めるように首を押え、壁に背をついてその青髪の男を見た。青い髪……ジョシュアに聞いたのもそんな男だった。ということは、目の前にいるこの男は。
 月明かりに照らされて、その赤い目が怪しく光る。

「あー?痛ェな……なにすんだよ……」
「チンクエ、か……」
「なんだ、名前知ってんのかよ!?なんでかは知らねぇが、そんな事ァどうでもいい」

 チンクエは口の周りに着いたその血を舐め取り、にやりと怪しく笑った。

「久しぶりの飯だ……もっと味わせろ!」

 飛びかかるチンクエだが、なぜかそのまま宙に留まってしまった。は?と訳の分からないチンクエだったが、体にまとわりついた糸に気づく。

「なにしやがった」
「悪いが、しばらくはそうしててくれ」

 そしてブルームはその場を走り去った。

 痛い。痛い。ずっと首に、鋭い痛みがどくんどくんと響いている。そして血も止まらない。このままではまずい。
 何としてでも帰らなければ。歯を食いしばり、夜の街を走った。






 残されたチンクエは、ようやく糸を全て取り終えていた。
面倒臭そうにため息を吐く。

「なんだあいつは……変なもの使いやがって……」

 にしても。とチンクエは空を見上げ、舌を舐めずる。
嗚呼。

「今の血は……美味かったなァ……」





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