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ゼロ地点

シナモンとスターアニス

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後日、私はアナが通っているというミッテ地区のGlobal Education Companyを訪れ、担当者に大まかな説明を受けた後、勧められるままにマークシート式のレベルチェックテストを受験した。この語学学校はドイツ語のみならず、英語やフランス語なども計5カ国語が学べるらしく、アナはこの学校で英語とドイツ語の両方を、時間と曜日を分けて同時に受講している。見学してみたところ、アクセスも良いし、とてもインターナショナルな雰囲気で学校内が活気に満ちていた。アナがとても満足しているというし、とりあえずレベルチェックだけでも早めに、受験する事にしたのだった。
実際に受講の申込をするとしても、レベルチェックの結果が出てからということだったので、学校からテスト結果の連絡が来るまで数日待った。
思ったより早く、3日後には連絡が来て、テスト結果は中級ということで、受講可能なコースのリストをメールで送ってくれた。
中級のレベル3だと、インテンシブグループレッスンで月~木曜日、朝の8:45から午後15:30というクラスがあった。時間的にも無理のない感じだし、あまり悩んで時間をロスするのも本末転倒なので、早速このコースに申し込んだ。
毎月第3週の月曜日に新しい生徒が受講開始するシステムだったので、申込してから5日後、私の勉強が始まった。
少人数制で、クラスの人数はその日にもよるが7人~10人、たまたまこのクラスは女性ばかりで、先生も女性だったため、いい意味で緊張感の欠ける?雰囲気だ。指定されて買ってきたテキストは思ったより内容が難しく、文法の基礎が怪しい私には半分以上ちんぷんかんぷんだったが、聞き取りのほうはついていける感じだったので、「毎日授業内容を復習しながら、文法のテキストを自主的に勉強すれば大丈夫なはず」という先生の言葉を信じて、本屋でドイツ語文法の基礎レベルのものを購入した。
アナとは校内で会うことは滅多になくて、たまに携帯のSMSで当日連絡を取って予定が合えば帰り際にお茶をする。でも、彼女は音楽のほうも活動しているので、平日はかなり忙しそうだ。
本格的に学校が始まってから、私のスケジュールも安定した。
月~木は学校に通い、帰りにスーパーに寄る。金曜日は洗濯や掃除などの家事、宿題をすませたりして、一日を家で過ごすことが多く、夜は誘われたら外食したりする。日曜日は殆どのスーパーが閉まっているので、土曜日には新鮮マーケットで新鮮な食材を買うこともあったし、午後はアナやマリア達とカフェランチしたりと出歩いたりする。日曜日も天気が良ければベルリン散策を兼ねて、新しいカフェの開拓をや蚤の市を巡るという日々を送っていた。
あっと言う間に語学学校に通い始めて2ヶ月が経ち、私のベルリン生活も3ヶ月。気がつけば予定滞在期間は残す所9ヶ月と、予定されていた時間の4分の1は過ぎていた。

金曜日の夕方、私は美妃が郵送してくれたDVD、映画「テルマエロマエ」を鑑賞していた。漫画をもとに映画化されたということは知っていたが、日本い居る時は忙しさに紛れて見そびれていたので、たまたまDVDを入手した妹が送ってくれたのだ。
古代ローマ時代の浴場と、現代日本の風呂をテーマとしたコメディで、久しぶりに大笑いするシーンもあり、なかなか見応えがあって、同時になんだか温泉に行きたくなってしまった。
それにしても、主演の阿部寛のインタビューを見たら、彼は純日本人だとか!? あんな彫りの深い濃い顔立ちなのに、びっくりだ。
また今度見よう、とDVDを片付けてから、私はキッチンに行ってお湯を沸かしカモミールティを作った。寝る前に温かいハーブティを飲むのが最近の日課になっていて、いろんな種類を試しているところだ。
湯気をたてるまろやかな香りのするカモミールティをそっとデスクにおいて、メールチェックをしてみたら、東京の出版社に勤める友人の晴美からメールが来ていた。



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カノン、ベルリン生活は順調?
もう、ペラペラ?
あれからもう3ヶ月も経つね、日本も春めいてきたよ。花見シーズン。
わたしは万年寝不足で花見どころじゃないんだけどさ。
出国前に話していた、そっちのカフェやレストランのレポート取材、実現出来そう?
シングルのイケメン・ウェイターがいるところなんか見つけた?!
良さそうなところがあったらいくつかリストアップしてメールして。
店舗情報と、出来れば店の雰囲気がわかる写真添付で。
4月半ばの入稿〆切に間に合うなら、5月号の各国レポートのところにベルリン用のスペース準備する。
ASAPでよ・ろ・し・くー!

はる ё_ё) ウフッ☆
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私は手帳を取り出して、これまでチェックしてきたカフェのリストを確認した。リストの中でもマイお気に入り印の(★)をつけた店舗が10件以上。
毎週あちこち見て来て、よさそうなお店では携帯で写真を何枚か撮ったりしてきたので、これをもう一度見直したら、3カ所くらいはすぐ候補に出せるはずだ。私は即座に晴美に返信を送った。





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はる、メールありがと!
万年寝不足ってのが泣けて来たけど、ほんと、大丈夫なの?今、そっちは真夜中だよね?!
まさかまた、点滴打ってないよね?スタミナドリンクも飲み過ぎもよくないから気をつけて。
私のほうは、生活は慣れて来たところだよ。ドイツ語のほうはまだまだ使えるとは言えないけど、無遅刻無欠席で頑張ってる。
カフェのほう、結構情報は集めてる!イケメンはどうだったかなぁ?
めんくいのはるの好みに合うスタッフがいたかまでメモってないけど、絶対オススメ!ってカフェはいくつも見つけたよ!
週末中にもう一度見直して、リストを送るね。
気に入ってくれるところがあれば嬉しいナ o(^-^)o ♪
ありがとね。
とりいそぎ

かのん
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ちなみに、私も人並みにSNS利用者なのだが、失恋したあたりから更新はしていない。
もともとあまり投稿していなかったので、友達のページを見たり、たまにメッセージを交換していたくらいのライトユーザーだった上、ベルリンに来たあたりから殆どログインさえしていなかった。
というのも出国前に、はるからこの「ベルリンのローカル情報」をライフスタイル雑誌の現地リポーター欄に載せるという提案を受けた時から、もし実際に現地生活をネタにした記事を載せてもらえるとしたら、日々の生活や行った場所をSNSに載せないほうがいいと思ったのもある。
それに、本当の友達や家族は、SNSを使わなくても定期的にメールや電話で連絡を取るので特に不自由はない。
私は携帯を取り出して、これまで撮って来たカフェの写真をチェックしながら、どのお店を取材先として提案しようか考え始めた。
今、3月末。4月半ばの〆切まではギリギリといえばギリギリだ。しかも、イースター休暇の直前!
今年のイースターホリデーは、オランダのおばぁちゃんのところに数日行く予定なので、当然ながらその前に仕事は終らせなくてはならない。日数から言ってたったの2週間半くらい。大丈夫なんだろうか。
一瞬不安がよぎるが、びびっている時間も無駄だ。
リストから、ミッテ地区とシェーネベルク地区のカフェで、それぞれユニークなタイプの店舗を3件、地図上で位置確認してみた。この3件なら、駅近なので、万が一、読者が実際に旅行に来て行こうと思った時にもガイド的に使える情報になりそう。
ネットで店舗のHPを確認し、正確な住所や営業時間等を調べて、データ作成を開始。続けて、自分が撮って来た写真と、ネット上で見つけた店舗の写真もいくつかコピーして、データに追加。
気がつけば真夜中になっていて、写真を選び終わった段階で作業をストップした。
日曜日中までに完成させてメール送信したら、日本の月曜日、朝一番に届く。編集のプロのはるのことだから、フィードバックは即返信されてくるはず。その際、提案した3カ所が候補から落とされるところもありえるから、他のカフェを候補にだせと言われた時のために、あと2件ほど、予備のデータもまとめておこう。


翌朝の土曜日、朝日が部屋を照らした頃、私はすっきりとした気分で目覚めていた。
昨晩は少し高揚気味で目が冴えていたけれど、思ったより疲れていたらしく、ベッドにもぐりこんだ後は全く覚えていない。
シャワーを済ませてからキッチンに行って果物かごをチェックしたら、バナナと洋梨はあったけれど、林檎を切らしていた。毎朝、果物を取るようにしているのだが、自分のお気に入りを見つける目的でいろんな名前の林檎を日替わりで試しているところだった。
黄緑色でレモンみたいな酸味の強いGranny Smith、白雪姫の林檎みたいな濃い赤い色のBraeburn、名前の通りとっても奇麗なピンク色で歯ごたえがあるCrisp Pink、白い果肉で歯ごたえがぱりっとした、甘みがまろやかなRoyal Gala……
明日は日曜日でスーパーも閉まっているし、急ぎの用はないから今のうちに買い出しに行くことにした。朝の7時半から開いているから助かる!
そうと決まればまず部屋着を脱いで着替えないと。
そろそろ暖かい日もあるし、明るい春色の服も買いに行きたいなと思っている。寒いとなんとなく濃い色の服ばっかり着てたけど、外の木々も少しずつ緑の新芽が出て来て、確実に春は近づいて来ている。今日はライトブラウンのパンツにターコイズブルーのシャツを羽織り、白地に黒いフラワーパターンが編み込まれたウールストールを肩にかけることにした。
キッチンに戻ってミネラルウォーターをグラス一杯飲んで、私は買い物用のベージュ色のリネンバッグに財布と携帯をつっこんで家を出る。
歩いて7、8分のスーパーはまだ空いていて、買い物もはかどる。
りんごと、週末用の野菜と豆乳を買い、パンは後でベーカリーに買いに行くことにして、ものの15分でスーパーを出る。
帰宅したら、コーヒーを煎れて、最近気に入っている固めのチーズをスライスして、パンを温めて、そしてフルーツを切って……後でアナに連絡してみようか……などと考えつつ歩いていると、バス停の隣の公園のベンチで座っているおばぁさんに声をかけられた。
「おじょうさん、247番バスが何時に来るか見てくれないかね」
「バス?あ、今時刻表見て来るね」
私はバス停の時刻表のところに戻り、携帯の時間を見ながらチェックした。247番は15分おきに走っているようだ。今8時15分だから次にくるのは……あ、もうすぐだ。
急いでおばぁさんの所に戻る。
「あのね、もう来るはずみたい。予定より早めに出発してなければだけど、いつから待ってるの?」
「もう10分も待っているよ。今のところバスは来てないから、じゃぁそろそろだねぇ。ありがとさん」
シルバーのふわふわの巻き毛がキュートなおばぁさんだ。チャキチャキしている私のおばぁちゃんとはまた違うけど、なんだかほのぼの気分になりながら、じゃぁと軽く手を上げて歩き出した。そして前を見ると、その247番バスが角を曲がってこちらへ来るのが見えた。
振り返ると、おばぁさんはベンチに座ったまま手提げ袋の中を覗き込んでいて、こちらへ来ているバスに気がついていないように見える。声をかけたほうがいいかも、と思ってUターンしてベンチのおばぁさんに声をかけた。
「来ましたよ!247番!」
「え?あっ、247番」
おばぁさんは杖をつきながらベンチから立ち上がる。腰が悪いようだ。
バスは既に少し先のバス停に停車して、乗客が下りてきている。前の乗車ドアのほうが開いて、先に立って待っていた3人が乗り始めている。このままじゃ乗り遅れる!これに乗り遅れたら15分待ちになっちゃう!
「こっち、こっち」
思わずおばぁさんの腕を掴んで歩かせつつ、バスの運転手がサイドミラーで私達の様子を見ていることを期待して手をあげ合図しながら乗車口のほうへ向かう。運転手さんは若いブロンド美人のお姉さんだった。
「ありがとね、ご親切に」
おばぁさんがにこにこと振り返りながらバスに乗り込み、空いていた席に着席すると、ゆっくりとドアが締まりバスは発車した。
運転手さんもいろいろだから、冷たい人にあたると目の前でぴしゃりとドアを閉められたりする。今日は運が良かったみたいだ。朝一番にこういうことがあると、一日中気分がいいし、良いことが続くことが多い。きっといい一日になりそう!!!

バスを見送ってきびすを返し、家のほうへ歩きはじめた途端、前から猛スピードで来た自転車が私と街灯の間をスレスレで抜け、通り過ぎざまにはずみで腕にかけていたバッグにあたった。あっと思った時には1メートル先にバッグが吹っ飛んだ。
一番上に入れていた林檎が倒れたバッグから落ちて、ころころと散らばった。
もうっ!ひどっ!最低っ!
すでにはるか遠くに走り去った自転車を見て、ため息をついた。
せっかくいい一日の始まりだと思ったのに、直後にこれだ。いや、負けちゃダメ。これくらいで凹んでどうする、カノン!
バッグを取り上げて、散らばった林檎を拾うべく、あたりを見渡したら、足下の1個以外、全部なくなっている。
「あれっ?」
驚いて、身をかがめて辺りを見渡すと、頭上から声がした。
「とんだ災難だったね、ほら君の林檎」
「あ」
見上げると、背の高い男の人が林檎を両手に持って私を見下ろしていた。
思わず息を飲み、呆然とした。背が高いせいもあるけど、まだ春前というのにきれいに小麦色に焼けた肌、いかにもスポーツ万能そうな精悍な顔立ちに薄く生やしている無精髭も少しワイルドで大人っぽく、日頃街の中で見かける人達とは雰囲気が全く違う。ブラックとグレーのシャツを重ね着していて、ボトムスはチョコレートブラウンのジーンズとラフな感じで、右肩にカーキ色のキャンパスリュックを引っ掛けている。
外国人?あ、っていうか今、英語を話してた。
びっくりしている私を気にすることも無く、彼は手の中のりんごを見下ろして独り言のように言う。
「少し傷がついてしまった。ひどい運転するやつだ」
「あ、ありがとうございます、でも私もぼけっとしてたから、半分は自業自得です」
まだ林檎を持たせたままだったのに気がついて、あわててバッグを開いて前に出すが、彼は林檎を眺めたまま、まだバッグに入れようとしない。数秒、黙ってそのまま待つものの、林檎はバッグに入れてもらえず、戸惑って彼を見上げた。
「あの、私の林檎……?」
すると、彼は何か思いついたのか、私の顔を面白そうに覗き込み、いきなりの至近距離にひるむ私を気にすることも無い様子で言う。
「林檎、一度に全部食べるわけにはいかないだろう。フレッシュジュースにしてあげよう」
ジュース?あ、このまま傷ついた林檎を放置出来ないから?
まだ彼の両手に乗っている林檎を見ると、あちこちぶつけた感じで、確かにこのままだとすぐに腐ってしまうから、速攻で食べるか、あるいは火を通してコンポートにでもしなければいけない。
彼は何も言わずに林檎を見ていた私が持っていたバッグに林檎を入れると、そのままバッグを取ってしまった。
「あ、あの、バッグ」
バッグを取り戻そうと手を出すと、さっと反対側の肩にバッグを掛けかえて、彼は通りの反対側を指差した。
「そこにカフェがある。キッチンのジューサーでフレッシュジュースにしてあげよう」
「でも、えっと」
思いがけない提案に、断るべきか親切に甘えていいのかとっさに決められず慌てていると、彼は私を待たずにさっさと歩き出してしまった。
「早く、今のうちに渡って」
赤信号の交差点をさっさと渡り、道路のど真ん中で彼が私を振り返ってそう言う。
ええっ、ちょっと……まだ青になってないのにっ!
左右を見渡して向こうに車が来るのが見えて、やはり赤信号での横断は躊躇してしまう。彼はもうとっくに反対側に渡りきってその先を歩いている。結局信号が青に変わるのをまって、小走りで交差点を渡る。
よく考えたら、バッグの中には財布も携帯も入っているし、あの人が悪い人だったらドロボーなんてことも勿論ありえるわけで、少し慌てて後を追いかける。どこにいった?!
姿が見えず焦ってあたりを見渡すと、ひとつ先の建物の角に彼が立って待っていたので、急いでそちらに駆け寄る。彼は目を細めてクスッと笑った。
「もしかして日本人?」
「え」
なんでわかったの?確かにアジアなのは見ればわかるけど、ここにはベトナム系移民や中国人も居て、どちらかというと日本人はアジア人口的にはかなり少ないと思うけど……
「そうです、日本です」
そう答えると彼はにっこりして、歩きながら言い訳っぽく続けた。
「車がほとんど走っていなくても信号を守るのって、日本人くらいだろう?」
「……そういわれてみれば確かにそうかもです」
「アメリカの大都市でも目につくから、すぐにわかる」
「アメリカ人ですか?」
「ま、半分以上そんな感じだ」
彼は少し、自嘲気味に声のトーンを落として言う。
「半分以上?」
どういう意味なんだろうと思ったが、詳しく聞くのも憚られてそれ以上は聞かなかった。
それにしても、一体どこまで行くんだろう?
もう10分くらい歩いている。微妙に不安になってきていると、急に視界が開けたところに出た。

車がこの先入れないよう道路が仕切られて作られた広場のようなオープンスペースは、周りに建物と大きな木々が囲うように立っていて、小さな噴水もあり、殆どすべての建物の一階部分(もとい、ドイツ式0階部分)はカフェやレストランになっていて、表にはそれぞれのお店の名前がついたパラソルが並び、テーブルや椅子も出されていた。車も来ないし広々としていて、ゆったりとした落ち着きのある素敵な場所だった。
私のアパートの近くにこんなところがあったなんて、知らなかった!
新しい発見に少しテンションがあがる。いつもと違う方向に歩くことは滅多になかったから、こんな近場に素敵な場所があるなんて気がつかなかった。
「君!そこのMs. Apple、こっちだ」
立ち尽くしていた私の耳に彼の声が飛び込んで来て、そちらのほうを向くと、お店のほうへ彼が入って行くのが見えた。
入り口に張り出す真っ白なオーニングの下に、Café Bitter-Süßと書いてあるカフェだった。
窓際には白いパラソルが立ち、座り心地がよさそうなベンチにはカラフルなクッションがいくつも並んでいて、丸太を切っただけのウッドテーブルがナチュラルでとてもかわいい。キャンドルの火は灯っていないけれど、アンティークらしいキャンドルホルダーも、どれも一品ものらしく同じデザインのはなくてとってもおしゃれだ。テーブルとテーブルの間に1mくらいの木が置いてあって、自然な仕切りになっている。
ここって、取材先にももしかしたらいいかもしれない……
そんなことを思いつつ、入り口の階段を5段上って店内に入ると、外とは雰囲気が変わって、中のインテリアはもっとハイクラスなデザインだった。まだ開店前らしく照明はあまりついてなくて若干暗いけど、木目を活かした作りの内装にアンティーク調のインテリアで、クラシックな雰囲気がいかにもヨーロッパ風。斬新な油絵が飾ってあったり、モダンなガラスのローテブルと深紅の大きなL字型ソファなど高級感があるコーナーもあり、カウンターの側はモスグリーンの光沢のあるベルベッド生地が美しいチェアが並べられて、こんなところに座ったらもう何時間も動けなくなるんじゃないかと思う。
カウンターに私のバッグが置いてあったので、忘れないうちにそれを手に取る。
念のため中をのぞくとちゃんと財布も携帯も入っていた。
「そこに座って待ってて」
カウンターの向こうから彼がそう声をかけてくれたので、そのまま吸い込まれるようにモスグリーンの1人掛けの椅子に腰を下ろした。柔らかくてちょうどいい弾力性のあるその椅子に感動しつつ周りを見渡していると、カウンターの向こうのキッチンから、ミキサーの音が聞こえて来た。
本当にご親切にあの林檎でジュースを作ってくれているんだ。
お礼ってどうしたらいいんだろう?
持ち込みした果物でジュースを作ってもらう料金なんて、メニューにはないだろうし。
どうしたものか、と思っていると、彼がガラスのボトルに作り立てのジュースを入れて持って来た。淡い黄色に濁るそのジュースは、見るだけでとろっとして甘く美味しそうに見える。
彼はボトルをテーブルに置いてくれ、私はそれを手に取り濁るジュースをじっと眺めた。
ほんとに美味しそうだ。
林檎はいつもそのまま食べていたけど、こうやってジュースにするとまた別の美味しさになるのかもしれない。
「びっくりした」
「え、どうして?」
唐突にそんなことを言われて意味が分からない。
きっと私は怪訝な顔をしたんだと思う。彼はにっこり笑いながら林檎ジュースを見た。
「りんご、6個あったけど、全部種類が違ったから」
「あ、それは」
確かに、全種類を一個ずつ買った。林檎は全種類、1kgで2.49ユーロと量り売りなので、種類を混ぜたっていいと気がついてから、殆ど各種1個ずつ買っていた。普通は皆、お気に入りの林檎があって、それをまとめていくつか買うのだろう。
「それは、私、まだどれが一番好きかわからないから、毎日違う種類を食べていて」
そう説明すると、彼はふーん、なるほど、というように頷いて林檎ジュースに目をやり、それからじっと私をを見た。
「こんな林檎ジュースは作ったことがない。俺も飲んでみたいと思うんだが」
「あ、もちろんです!」
私は少し嬉しくなってニコニコしてしまった。作ってくれた人だし、私も今、出来立てを味見してみたい!
「オッケー、じゃグラスを持って来る」
彼はカウンターのほうへ行きかけて、私を振り返った。
「君……君、ばっかり言うのもなんだね。名前は?」
「私、カノンです」
「カノン?」
珍しい名前だと思ったのか、彼は目を丸くした。
「あなたは」
と名前を聞き返そうとしたら、入り口から大きな声が聞こえて来た。
「ニッキー!もう来ているか?」
声と同時に、トマトやレタス、ルッコラなどが山盛りの箱を抱えたおじさんが入って来た。
「やぁトーマス、おはよう。そこに置いといて。ありがとう」
「オッケー。チャオチャオ!」
おじさんは入り口のテーブルにドンッと箱を置くと片手を上げてすぐに出て行った。
「ニッキー?」
私が聞くと、彼がその野菜が山盛りの箱を抱えながら頷いた。
「ニック、ニッキー、ニコ、皆好き勝手に呼んでいるけどね。さて、カノン」
「はい?」
「この時間買い出しに行っていたということは、朝食はまだなんだろう?」
「朝食?まだ、と言えばまだです……」
「だったら」
ニッキーは少しいたずらっ子のような笑みを浮かべて言った。
「俺もまだ。開店まで時間があるから、食べて行けばいい」
そう言って片目でウインクすると、カウンターの向こうへ行ってしまった。
朝食。
返事をする間もなくニッキーはキッチンへ行ってしまった。
いいんだろうか、初対面の立場で、図々しいにもほどがある気がするけど。
でも、カフェの朝ご飯、食べてみたいといえば食べてみたい。お腹も空いている。
今更すでに時遅しなのだが、少し悩んでみたものの、もう朝食をいただくのは決まっているようなので考えるのは止めることにした。
あの、なんていうのか、キラキラした微笑みに気を取られて返事するのを忘れてしまったというか。
アメリカの人って初対面から気さくな人が多いし、あまり遠慮とかしなくてもいいのかもしれない。
そうだ、気にするのは止めよう!!
カフェで朝食だ、かなりおしゃれじゃないの、私!
私は椅子から立ち上がり、カウンターに近寄って姿の見えないニッキーに声をかけた。
「ニッキー!」
「なに?」
中から返事だけ聞こえて来る。
「ありがとう、ほんとに。なにか手伝うこととかあれば言ってください」
「あぁ、気にすることはない。君はコーヒー?ラテ?」
「あ、じゃぁラテで」
って、即答している私って随分と態度がでかいじゃないか!
返事をした後で自分に突っ込んでみる。
英語だと態度が軽くなるせいもあるかもしれない。ドイツ語だともっと真面目な態度になると思うんだけど、英語だとどうしてもくだけてしまうのはやっぱりその言語が持つ文化的なもののせいか?
言語と自分の態度の関連性を考えつつカウンターで立っていると、やがてニッキーが飲み物をふたつ持って来た。
「君のラテと俺のエスプレッソ。林檎ジュース用のグラス2つ」
「はいっ」
受け取ってテーブルに運び、飲み物とグラスを置いていたら、大きな楕円形の白いプレートを二つと、赤いペーパーナプキンに包まれたカトラリーを2セットもってニッキーが戻って来た。
「わぁー!」
思わず声をあげてしまい、あわてて口を手で押さえる。
プレートには、ほかほかと湯気をたてるふわふわのスクランブルエッグ、サイドには、黒胡椒がかかったきゅうり、レタス、トマトのサラダ、そしてその隣りにはブルーベリー、ラズベリーに真っ赤なスグリのベリーが添えられて、色合いが鮮やかでとっても美味しそうだ。白パンと薄い茶色のパンのスライスが1枚ずつついて、四角に切られたバターのガラスの小皿が乗っていた。
「気に入ってくれた?」
ニッキーがにっこりして、椅子に座った。
「とっても美味しそう!」
「それはよかった。じゃぁ主役のジュースを入れてみよう」
ニッキーがボトルの蓋をあけ、グラスに注いで行く。ほんのり甘い香りが漂って、クリーミーな林檎ジュースがたっぷりとグラスに注がれた。彼はミントの葉を数枚ずつそれぞれのグラスに入れて、銀色の長いソーダスプーンでくるりとかき混ぜた。まろやかな林檎の黄色にミントの葉の緑が映えて、なんだかとても高級な飲み物に見えた。
「さぁ、食べよう。まずは乾杯」
茶目っ気のある言い方をして、ニッキーがグラスを取って視線の上に掲げる。
「乾杯!そしてBonappetit!」
私もグラスを掲げ、カチン、と乾杯の音がした。


その林檎ジュースは今まで飲んだものとは全く別の飲み物じゃないかと思うほど美味しかった。
常温だったせいか、甘みが思いのほか強く、とろりと喉を滑り落ちてゆく感覚にびっくりした。
それに、いつも自分で準備した朝食を取っていたので、誰かと一緒に、しかも自分以外の人が用意してくれた朝食を食べるなんて、ベルリンに引っ越して来てから初めてのことだ。
向いに座っている彼は、とても話し易いしものすごく親切。しかも恐らくこれまで出会ったことのない程のいわゆるイケメンなので、私も自然とテンションが高くなっていた。
それに、初対面の人とこんな感じで朝食タイムなんて、人生初の大事件と言っても大げさじゃないくらいの出来事だ。
「君はおもしろい」
二杯目のエスプレッソを上品に口元へ運びながらニッキーがそう言って笑う。
おもしろいってどういう意味なんだろう?いい意味?変人って意味?
「りんごの味を全種類試しているのも驚いたが、チーズもヨーグルトもローテーション中だとは」
「多分、決断力がないせいもあるかな。でも、いろんな種類を試すと、味の好みだけじゃなくて、目的別に使い分けたり楽しみが増えるの。同じ製品でも製造元で味が違ったりするし……やっぱり、こだわりすぎだと思う?」
よく考えたら妹の美妃はあまりそこまで慎重派じゃなかった気がする。昔から私は物事を決めるのが苦手だった。
空になったカフェラテのカップの底を見下ろして、少し考え込んでいると、彼がクスクスと笑って、冗談ぼく言った。
「いや、よく吟味することはいいことだ。となると、世の中の男達も君に順番にデートしてもらって、自分が選ばれるのをただ待っているってわけだ」
「えっ」
思わぬ方向に話が飛んで、びっくりしてニッキーを見る。
「冗談だ。君はとても真面目で何事も真剣らしいな。俺はいいと思う。林檎ひとつにこだわるくらいの真剣さ」
本気で言っているのかそれも冗談なのかよくわからないが、あまり必死に説明することでもないので私も笑って頷いておいた。
携帯が振動したのを感じて、バッグの中から取り出してちらっと見たら、マリアからメールが入ったようだった。
「あっ、もう9時半になってる」
このカフェ、もうすぐ開店じゃないのだろうか。思わず周りを見渡すと、ニッキーが片手でお皿とカップ、グラスをまとめてカウンターへ運び出していた。
そろそろ失礼しないとお店の邪魔になってしまう。
「ニッキー?私、そろそろ帰ります。朝食のお支払い、二人分でお願いできるかな」
カウンターの向こうへ声をかける。
すっかりご馳走になってしまった上、開店前の時間に長々と居座ってしまって、せめて二人分の朝食くらい支払いたい。
「少し待って」
ニッキーがそう答えたので、数分カウンターで待っていると、彼が手になにか湯気が立つ飲み物を持って戻って来た。
「どうぞ」
見ると、ガラスのマグカップの熱そうなお湯の中に、お茶の葉が入った銀色のビクトリーが沈んでいて、彼は目の前でカウンターのエスプレッソマシンの横の棚から取り出したスターアニスを数個入れ、シナモンのスティックでくるりとかき混ぜた。
「スパイス入りのグリーンティ。5分くらい待って、栗の蜂蜜を入れて飲むと体が温まる」
ガラスの中で少しずつお湯が緑茶色に染まってゆき、シナモンとアニスの香りが湯気と一緒にふわりと空中に浮かび上がってくる。
ガラスのカップの中でスターアニスがころころと浮かび、なんだかメルヘンチックだ。
「そろそろいい頃だ」
ニッキーが木製のスプーンで濃い蜂蜜をすくってグラスに落とし、ゆっくりと3回ほどかき混ぜて、それから私のほうへグラスを向けた。
「熱いから気をつけて」
「ありがとう……うーん、とってもいい香り!」
勧められるままにゆっくりと飲んでみる。スパイスが効いて、いつもの緑茶よりきりっと味が引き締まっている。でも栗の蜂蜜が優しい甘みで全体を包み込んで、とても優しい味だ。シナモンはもともと好きだし、アニスはミルクと一緒に甘くして飲んだりしていたけど、グリーンティと合わせて飲むのは初めてだ。
「こんなグリーンティ、初めて。ほんとに美味しい!」
感動してニッキーにお礼を言う。
「ニッキー、どうも有り難う。ごちそうになりっぱなしでどうお礼したらいいのかわからないくらい」
「そう?喜んでもらえてよかった」
ニッキーはカウンターの向こうで両肘をついて、にっと不思議な微笑み方をした。
ん?なんだろう、この、妙にするどい微笑み方は?
思わずじっと彼を見ると、ニッキーはすっと携帯を取り出して、私のほうへ差し出した。
「?」
携帯を見下ろして、それからニッキーのほうを見ると、彼は目を細めて少し面白そうに私を見つめ返した。
「料金はいらない。かわりに君の連絡先を教えて」
「えっ」
彼は驚く私の手を片方取ると、ロック解除した自分の携帯を私の手ひらに置いた。
「15秒以内に入力しないと、またロックがかかる。連絡先情報を入れて」
「え、あ、でも、支払いはやっぱり」
「後で俺の連絡先も送るから。カノン、入力をいそがないともうロックかかってしまう」
「あっ」
手元の携帯のスクリーンが暗くなりかけたので思わずスクリーンタッチをしてしまった。
見れば、コンタクト情報の入力欄になっている。

どうしよう。
いいんだろうか。こんな気軽に連絡先を交換とかいうの。

ニッキーはもう、カウンターの奥へ消えてしまった。
あ、でも、いつかここを取材させてもらうお願いをすることになった場合、連絡先がわかったほうがいいか。
そう思い直し、私は自分の名前、携帯電話番号とメールアドレスを入力した。
「カノン、登録した?そのままカウンターに置いて。今は手が離せないから」
奥から声が聞こえて来た。もう、忙しい時間なのだ。
「入力しました。ほんとにごちそうさま、美味しかったです。いろいろ有り難う、じゃぁこれで」
なるべく大きな声でそう奥のほうへ声をかけると、「チャオ!」と返事が聞こえて来た。
満腹になったお腹が大満足だ。残った林檎ジュースのボトルをバッグに入れてカフェを出る。
少し人通りも増えて来たようで、家族連れのにぎやかな喋り声が聞こえて来る。お日様の温かな光があたりを明るく照らしていて初春を感じる朝の空気が気持ちいい。
うん、やっぱり、今日はきっといい一日になりそう!
私は一度大きく背伸びをして、ご機嫌で歩き出したのだった。
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