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忠告1 見合いの打診

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 ――きっかけは5年前。

 秘書室に配属され数週間が経過しようとしていたころのこと。

 あの日は確か……会長が出社した日のことだろうか。

 もとより漆鷲会長は、高齢であることを理由に、息子のはじめ社長に主な経営を委ねている。

 出勤は週に数回の、いわゆる非常勤形態をとっていて。私たち秘書は、他二人の非常勤役員秘書も並行することで、チーム内の業務バランスをとっている。

 藤森さんや役員たちと意思疎通を図れるようになった現在では、割とこなせてしまう内容だけれど。あの頃の、社会人になりたてで、一人暮らしをはじめたばかりの私にはなかなかの、ハードワークだった。

 ことが起きたのは、そんな慣れない職場と、はじめたばかりの一人暮らしに躍起になっていた頃のことだ――
『國井、会長にお茶出しが終わったら一度、秘書室に戻ってこい。会食は明後日がはじめてだよな? 当日抜かりないように、会議までの間に復習しておくぞー!』

『ありがとうございます! お願いします、藤森さん』

 軽いメイクを施した童顔に、緩くひとつに束ねた癖のない真っ直ぐな長い髪。
 百五十センチ未満の人より小柄な体には、いつも動きやすい白シャツとシンプルなAラインのスカートをはいている。
 今と同じく“早く一人前になりたい”という思いで仕事に挑んでいた私だ。

 第一秘書の藤森さんは、そんな私の指導役で、英子室長の隣にデスクを置くサブリーダー。
 格闘選手のようなガタイのいい風貌で、後輩思いで熱血指導をしてくれる、ガッツのある先輩だ。
 今年四十歳になる愛妻家でもある。
 この頃は株主総会も近いことから、休憩時間さえ惜しく、こうして合間に予習復習に付き合ってもらうことが多かった。

 慣れない業務は時間がかかり、夜遅く帰宅したあと、ヘトヘトの身体にムチを打って、どうにか家事をやっつけて。

 眠りにつくのはいつだっただろう……。

 手を抜くことを知らず、毎日あっぷあっぷしていたのは覚えている。

 そして、この日、とうとう限界がきた――。

『失礼します』

 給湯室からカウンターに会長の好きな茶葉とティーセットを乗せて、個別役員室へ持っていく。

 すると、プレジデントデスクの顎髭老紳士の前には、ここを定期的に訪れるダークスーツの後ろ姿。

 グループセクレタリー・ゼネラルマネージャー。

 そして『秘書室の悪魔』との異名をもつ――島田しまだ智秋ちあきさん。
 会長は“彼”を定期的に呼び寄せ、こうしてたまに秘書室内の報告を交わす。

 彼の話は、入社当初のこの頃から、よく聞いていた。

 綺麗な外見とは裏腹、クールな物言いと、容赦ない指摘事項に、みんなから恐れられているのだと。

 でも、私はそれを聞いても、みんなと同じように嫌悪感を抱いていなかった。
 私には、みんなが言うほど、彼の言葉にキツイものは感じないし。

 彼はどんなに忙しくても、仕事の相談すると嫌な顔ひとつせず、きちんと足を止めて答えてくれる誠実な人だった。
(基本がポーカーフェイスだけど)

 それに、仕事を頼まれたときなんかは、必ず案件の解決後『ありがとうございました』の一文をパソコンに送ってくれる。

 秘書業務をしながら、グループ全体の秘書室を統括する彼は、想像よりも遥かに多忙だろうに。
なかなかできることではない。

 『悪魔』のような人じゃなさそうだけど……。

 そんな頭で、お茶菓子を準備しながら整った横顔を盗み見るのはいつものことだった。

 彫刻家が魂込めて創り上げたかのような整った面立ち。どちらかというと男性的で。冷たそうだけれど、気を抜くとうっかり見惚れてしまいそうなほど繊細な顔立ちだ。

『ありがとう、國井さん』
『いえ』

 お茶と和菓子をデスクに並べると、会長は柔和な笑みを浮かべてくれた。

 笑顔返して『では、失礼します』と、その場をあとにしようとしたき――ことが起きた。

 目の前が霞んで、ふらりと視界がぐらついた。

『あ……れ……?』

 突然、目の前が真っ暗になり、全身から力が抜けて、膝から体が崩れ落ちていく。

 ………やばい……倒れる。

 微かな意識の中でそう悟ったその瞬間、

 ぐっと力強い腕が腹部に回り込み、次の瞬間ふわりと身体が浮いた。

 え……?

『顔色が悪いかと思えば……。貧血でしょうか。自らの健康管理を怠りながら、役員秘書を務めるなど言語道断です』

 低く艶のある声が耳元に触れ。爽やかなグリーンの爽やかな香りと共に、失いかけた意識がぼんやりと浮上する。

『國井さん! 大丈夫か?!』

『部屋に入ってきたときから顔色が良くなかったので、おそらく疲労か何かでしょう。会長はそのままに。彼女はこのまま医務室に運びます』

 どういうことだ。島田さんの整った顔が目の前にある。わけがわからぬまま、心地よい浮遊感に揺られ、会長の声が扉の向こうに消えていく。

 パタリと扉が締まり、廊下のひんやりした空気にふれたところで、ようやく気づいた。

 お、お姫さま抱っこされてる……?!

『すみ、ません……迷惑かけて、じぶんで歩きます……。ふじもりさんにも、ほうこく、しなきゃ……』

 そう思うのに、どうしよう。クラクラして言葉と体が言うことを聞かない。全身に力が入らない。

 島田さんにも、みんなにも、会長にも……とても迷惑をかけてしまう。

 罪悪感にいっぱいになりながら、グリーンの香りのするスーツに、吸い寄せられるようにして、ふらふらと頭を預けてしまう私。

『はぁ……体力バカの藤森は加減を知らないからな……少し注意しておくか。……あなたも、自分の限界くらい見極めてください。入社したてで夢中になるのはわかりますが……体を壊したら元も子もないでしょう』
 
 藤森さんが……なに? 見極める……?

 いつもよりどこか穏やかな声。

 もしかして、心配してくれてるんだろうか……。

 今にもくっつきそうな瞼を開いて、頑張って聞き分けようと整った顔を下から見つめていると。

『――まぁ……仕事熱心なのは、評価しますが』

 柔らかな面差しが私をとらえて、薄い唇が緩やかに口角を上げる。

 その瞬間、意識の朦朧とする私の脳内に、あたたかな春の風が舞い込んだ。

 あぁ、なんて温かく笑う人なんだろう……

 そう――。
 私は一瞬にして、その優しい表情に恋に落ちたのだった。
 次に目を開いたときは、医務室の真っ白な天井が見えた。

 会長の計らいで、私は数日間の有給をもらってしまい。その後は、私生活でも仕事でも、いい意味で程よく手を抜くことを覚えていったと思う。

 藤森さんからは、しつこく謝罪を受けた。彼の指導は厚意なのはわかっていたし、むしろ私の体調管理の不届きだから気にしていないのに。

『つい熱が入りすぎて、申し訳なかった!』

 と朝イチの秘書室で泣きつかれるものだから、どうしていいのかわからなかった。

 そして、あの日から五年経った今も、私の気持ちはかわらない。

 出勤後、お礼と謝罪を兼ねて送った彼への社内メールに返事はなかったし。

 もちろん仕事以外で、会話をすることはないんだけれど。

 たまに本社にやってくる彼を、それとなく探したり。

 藤森さんの熱い絡みを聞き流す彼を見守ったり。

 永斗社長へのお遣い任務は、率先して私が申し出たりして。

 おかげで秘書室の親しい間柄の一部では、そんな私の動向が名物扱い。

 さっきみたいに面白がられている――。

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