深川あやかし屋敷奇譚

笹目いく子

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生き人形(一)

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 庭の紅葉を散らす風も清々しい、秋の朝であった。

「お凛や、今朝は歩いたかい?」

 朝餉の膳の前で、期待に目を輝かせながら主が尋ねた。

「歩きませんってば。何度お聞きになっても無駄です。歩きも走りもはいはいも欠伸もくしゃみもしなければ、鼻歌も歌いやしません」

 給仕をしながら、お凛は面倒くさそうに答えた。

「いやいや、そろそろ歩くはずだ。お前が近くにいたら怖がってなかなか勇気を出さないかもしれないが、そろそろ我慢できなくなってくる頃に違いないよ」 

 やっと立ち上がるようになった赤子が今日こそ歩き出すのでは、と楽しみにしている父親のような発言であるが、もちろんそんな心温まる話をしているわけではない。
 いたいけな赤ん坊ではなくて、呪われた人形がいつ歩き出すのかという、世にも物騒な話をしているのだ。

「やっぱりあれかなぁ。最初に着ていた着物を着せた方がいいんだろうか?お前、あの着物は取ってあるよね、ちょいと着せ替えておくれよ」
「あんなぼろを着せて飾るんですか?着物を作り直していいとおっしゃったのは、旦那様じゃありませんか」

 眉をしかめつつ、櫃からお替りの飯を茶碗によそって手渡すと、

「そうしないと捨てるって言うんだから、駄目とは言えないじゃないか。お前は本当に捨てるから怖いよ」

 仙一郎が真剣に恐怖を浮かべた目でこちらを見るので憮然とする。呪われた人形の話をする時にはきらきらと目を輝かせるくせに、お凛を見る時には道端で熊に出会ったかのように怯えているとはどういうわけなのだ。

「ほら、おどろおどろしい着物じゃないと気分が出ないんだよきっと。小奇麗な格好で満足しちまってたらさ、そりゃあ誰だって祟りなんて面倒くさいこと、しようって気になりゃしないよ。人間、切実なもんがないと怠けちまうからねぇ。いや、人間じゃなくて怪異だけどさ。真理だね、真理」

 とかなんとか妙な精神論をぶつぶつ唱えながら、しみじみと味噌汁をすする。表はもう日も高く昇り、世の人々はとっくに朝の一働きを終える頃だというのに、この青年は朝寝を決め込みだらだらと起きてきて、ただ今遅い朝餉を優雅に取っているのである。煩悩と堕落の化身のような主に怠惰について語られるなど、人形にしてみたら噴飯物に違いない。
 だいたい、呪われた人形が満足して、いや成仏して、大人しくなったのなら結構な話ではないか。普通はそう思うのだろうが、この主は普通ではない。世には呪いを祓いたい人は多くいても、身悶えするほどに呪われたいと思う人はそうはいなかろう。
 ところがこの仙一郎ときたら、その数少ない変人なのであった。 
 くだんの、歩く人形の話である。
 今年の春に、この深川木場は通称「あやかし屋敷」の主、仙一郎の元へ持ち込まれたがらくた、もとい珍品だ。なにしろいわく因縁つきの物を蒐集することに目がない主で、何の間違いか「天眼通てんげんつうの旦那」などと呼ばれているから始末に負えない。後から後から妙な品物を持ち込まれ、女中のお凛は大いに迷惑しているのだった。で、この人形も本所一ツ目橋にほど近いところにある小間物問屋『万年屋』から持ち込まれたのである。
 なんでも、この人形は夜な夜な歩き出すのだそうな。

「一月あまり前からでございました」

 鶯の声にもかき消されそうな小声で、万年屋の店主、勝右衛門しょうえもんが青ざめながら言ったものだ。羽振りのよさを示すような紬の着物に、洒落た色羽二重の羽織なぞを纏っている。つるりと手入れの行き届いた顔に、どっしりと座った鼻と気働きのききそうな鋭い目が印象的だった。しかし、その目が今は、寝不足と心労ゆえか血走って見えた。

「奥の部屋にきちんと置いてあるんでございますが、夜皆が眠りについて朝になってみると、どういうわけか部屋のあちらこちらに動いているんでございます。試しに女中や下男がこっそり夜中に部屋を覗いて見ましたんです。そうしたら……ひょこり、ひょこり、と人形が畳の上を動いておりましたそうで……」

 勝右衛門は締め上げられた蝦蟇がまがえるのように、ぶるぶるふるえながら呻いた。

「私もとうとう、昨夜見たのです。暗い廊下を、ひたひたと歩き回っているのを……」

 人形は、三尺近い大きさの、三つ折りの立派な市松人形である。黒々とした桃割れの繊細な髪、透明感のある、血の気が差すような艶のある肌、丸く潤んだつぶらな瞳、ほんのり紅をさした唇といい、まるで生きているかのようだった。聞けば桐材の上に胡粉ごふんや顔料で彩色されているのだそうで、髪の毛や歯も一本一本埋め込まれているというから驚いた。青地に菊花や打出の小槌、隠れ蓑、隠れ笠、金嚢きんのうといった宝文様、それに犬張子に手鞠、鈴、糸巻、独楽といった玩具文様も散らした加賀友禅を身につけていて、なんとも愛らしい。だがしかし、その着物はどろどろに汚れて惨めなものだった。
 なんでも、恐怖のあまり店主が人形を庭に放り出し、数日野ざらし雨ざらしにした結果、猫が爪を立てて泥まみれにしたらしい。

「私もう、恐ろしくて恐ろしくて、夜も眠れないんでございます。そうしましたら、番頭が千里眼の仙一郎様のお噂を耳に挟みまして……」

 どうか、どうか、この呪われた人形を預かっていただけませんか、と店主はやつれた顔を伏して仙一郎に頼み込んだ。

「……掴まえてみました?」
「へっ!?」

 その辺の魚を手掴みで掴まえるかのような調子で青年が言うので、男がぎょっとしたように目を見開いた。

「いや、追いかけて本当に人形だったのか、確かめてみたのかなぁ、と」
「め、滅相もない!恐ろしくて腰が抜けちまいやした。とてもとても、追いかけるどころでは……」

 青白い顔でぶんぶんかぶりを振る旦那に、はぁそうですか、と仙一郎はいかにも残念そうに嘆息した。

「旦那さんは……恐ろしくないんで?」

 勝右衛門が厚い唇を心なしか青くして訊ねる。

「え?怪異がですか?ぜんぜん、ちっとも。人間の方がよっぽど恐ろしいですよ」

 へらへらと笑う仙一郎を、万年屋の店主は苦い笑いを浮かべて眺めた。

「あたしは逆ですねぇ。人間なんざこれっぽっちも怖かありませんがね、呪いだ祟りだ幽霊だっていうと、これが苦手でねぇ……」
「へぇ、意外ですねぇ。商人あきんどは目に見えないものなんぞ怖がらないもんだと思ってましたが」
「いやいや、あたしにとっちゃ、人間をどうこうするのは造作もないんで」

 肩を揺らして笑う勝右衛門の唇がぱくりと開き、紫色の禍々しい瘴気を吐き出した気がして、お凛は目を疑った。
 人間なぞ、どうとでもなる。赤子の手をひねるかのようにねじ伏せてしまえる……そう言っているかのような笑みだ。

「……ですからね、こういうどっちつかずのものが、本当に気に障るんですよ」

 つるりと手入れの行き届いた、働き者の旦那の顔に戻った男は、そう付け加えてあはは、と気恥ずかしそうに破顔した。

──それ以来。
 人形はうんともすんとも言うこともなく、もちろん飛んだり跳ねたりすることもなく、同じいわく因縁つきの「笑う箪笥」なる古ぼけた箪笥の上に行儀よく座っている。厄介な代物を押し付けられる主にも辟易するが、襤褸をまとったばっちい人形が日々目につくのは実に不快である。お凛はこの人形を家に置くのなら、せめて着物を仕立て直させてくれと仙一郎に迫ったのだった。 
 だがしかし。そのせいで人形が腑抜けのように歩き回るのをやめてしまったのだと、この主は大いに嘆いているのだ。

「──お食事中に申し訳ございません、旦那様」

 下男の富蔵が、庭から声をかけてきた。

「お客様がおいでなんでございますが、いかがいたしましょう?」

「おっ、なんだい?いわくつきの物を持ってきたお客かい?このところ久しくなかったねぇ」

 焼き魚を口に運んでいた仙一郎が、犬が尻尾を振るような様子で尋ねた。

「いえ、それが……万年屋の坊ちゃんの清太郎せいたろう様でして」

 下男が鬢をかきながら言った途端、仙一郎は渋い顔をして飯を頬張った。

「またあいつか。しつこいねぇ。大福でもやって追い返しておいてくれ」
「いいじゃないですか!あの人形を返してくれっていうんでしょう?返してしまいましょうよ」

 お凛は手を打って明るい声を出した。
 万年屋の清太郎は八つになる跡取り息子だ。万年屋の旦那が不気味な人形を泣きつかんばかりにして持ち込んだのとは反対に、息子の清太郎はその人形を返して欲しいと、ことあるごとに訴えに来ていた。

「嫌だよ!歩く人形なんて、そうそうあるもんじゃない。私がご店主からもらったんだから、もう私のもんだ」

 主がむっと眉間にシワを寄せて唸る。

「そうそうじゃなくて、まったくありゃしません。人形が独りでに歩くわけないでしょう。旦那様がお人形遊びをするわけじゃなし、その辺に放ったらかしにするくらいなら、返してしまえばいいじゃないですか?」

「あれは歩くんだってば!お前が骨抜きにしちまったから歩かないだけでさ。私だっていつお人形遊びに目覚めるかわからないよ。だめだめ。絶対返すもんか!」

 いーっと小憎たらしい顔を作って見せるよわい二十五の主は、脱力しそうに子供っぽい。お人形遊びに興じてもおかしくなさそうだが、想像するとぞっとしない光景だ。不気味な想像を頭から追い出しながら、お凛はこっそり人形を返してしまおうかしらん、などとよからぬことを考えた。
 と、その刹那、だだだっと庭に足音が響いたかと思うと、

「──大福なんぞいらん!人形を返しておくんなさい!」

 縁側の前に現れた子供が大声で言った。万年屋の倅、清太郎だ。富蔵が背後ですまなそうな顔をしている。

「やなこった」

 鼻でも穿ほじりそうな様子で間髪入れずに主が切り返す。

「……あ、あなたそれでも大人なんですか!?」 

 品のいい顔を真っ赤に染めて、少年は池の鯉のように口をぱくぱくさせる。

「ばぁーか。人の家にずかずか入り込んでおいて、大きな口を叩くんじゃない。文句があるならおとっつぁんとおっかさんに言わんか」

 卵焼きを口に放り込みながら小馬鹿にしたように言う姿は、小突きたくなるほど憎たらしい。相手が美女でないと見ると、とことん愛想をケチるいい性格をしているのだ。

「お、おとっつぁんたちは聞いてくれないから、こうしてお願いしに来ているんです!どうして返してくれないんですか?」
「本当ですよ、ねぇ?口も意地も悪い主で申し訳ありません。坊ちゃん、いいこと教えてあげましょう。お店の奉公人さんに美女はいませんか?その人と一緒にいらしたらイチコロですよ。ちょろいもんです」
「……お前は一体、誰の奉公人なんだい?」

 清太郎に知恵を付けてやっていると、仙一郎が迫力にかける童顔でじろりと睨んだ。

「いいじゃありませんか。旦那様が気を強く持って、誘惑に負けなければいい話なんですから。簡単でしょう?」
「お前ねぇ、私は蝿も殺せぬ心やさしい男だよ?見てごらんよ、この子犬のように無垢な瞳を。争いごとは大嫌いなんだ。相手が何だろうと、戦うなんて可哀想でできっこないだろ。だがどうしてもというのなら誘惑を寄越してくれていいぞ、清太郎。涙を飲んで降参してあげないこともない。で、お前さんの店にはどんな美女がいるのかな?」

 克己心の欠片もなさそうな台詞をぬけぬけと吐く。 

「……ひどい」清太郎が涙声で言った。
「えっ、いえ、あのう、そこまでひどくはないんですよ。まぁ親御様にも匙を投げられた程度で」

 お凛は慌てて少年を宥める。

「充分ひどくないか……?」

 恨めしげな目で主がぼやいている。

「違います!旦那さんが意地悪だからひどいと言ったんです」

 少年が腕で顔を覆って甲高く叫ぶ。

「あんたなんか、人攫いだ!」
「──はぁ?ひ、ひと……!?」

 仙一郎が目を剥いた。

「言うに事欠いて、人聞きの悪いことを言うんじゃない。私のどこが人攫いだ」
「あれはただの人形じゃないんだ!あれは死んだおみやも同然なんだ!だからあんたは人攫いだ!」
 
 そう言うなり、清太郎はしゃがみ込み、唖然とする仙一郎とお凛を前に悲痛な声で泣き出した。

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