6 / 41
たたり振袖(六)
しおりを挟む
抜けるような青空の下、軒下の風鈴がちりんと鳴る。縁側の近くに置いた衣桁で、まだ湿っている赤い振袖が南風にふわりと膨らんだ。
昨夜の小火は身頃に新たな焦げ跡をこさえ、穴まで開いていたが、思ったよりも範囲は狭くて済んだ。まぁ、既に焦げ跡だらけで今更であるし、持ち主は着物がぼろくなればなるほど喜ぶに違いないが。
洗濯物を抱えて通りかかったお凛は、縁側で足を止めると、のんきに風にゆれる振袖を見つめた。こうして見ていると、ただの焼け焦げた着物としか思えないのだけど。
しばらく考えた末、お凛は、よし、と表情を改めてそろそろと振袖に近づいた。
「……あのう、もしもし? 何か恨みごとがあったりとか……します? そりゃあ若くして亡くなったのはお気の毒だと思うんですけれど。火を出すのはちょっとやりすぎじゃありませんか?」
ぼそぼそと話しかけてみるが、もちろん答えは返ってこない。
「すえ吉のお嬢様なんて、縁談が壊れたし、危うく命を落とすところだったんですよ。お御足にも傷が残っただなんて、お気の毒だとは思わないんですか? ものには限度ってものがあるでしょう」
言いながら、段々むらむらと腹が立ってきた。
「第一、無関係の人を巻き込んで、恨みを晴らそうっていう根性がどうかと思うんですけど。そういうのって、よくないですよ、本当に。もてませんよ、絶対。いや、うちの変わり者の主にはもてるでしょうけど、嬉しいですか?」
畳に濃い影を落とし、はたはたと翻るばかりの振袖は、聞いているのかいないのか。
(……こういう時には、やっぱり、あれだろうか)
ふと思いつき、お凛は小さく咳払いした。
「えっと……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。成仏してください。ええっと、般若波羅蜜多……だっけ? 後は何があったかな。ぎゃーてーぎゃーてーはらぎゃーてー。いやこっちかな。祓いたまえー清めたまえー……」
眉間に力を込めて、洗濯物を抱えたままぶつぶつやっていると、
「ぶはっ!」
と背後で盛大に吹き出す声が聞こえてきた。
「あははははは、はっははは! し、死ぬ、あははは!」
陸に揚げられた鮪か何かのように、仙一郎が廊下でのたうちまわっている。
「……の、呪いも祟りも私を避けて通るっておっしゃったのは、ご自分じゃないですか」
耳朶がかっかと熱くなるのを感じながら絞り出す。洗濯物を抱えていなかったら、縁側から蹴落としてやるのにと歯噛みした。
待った、待った、息が詰まる、と首筋まで真っ赤になってばたばたすると、主は涙を拭いながらようよう廊下に座り込んだ。
「お前、噺家になったらいいんじゃないか」
などと言い、呪い殺しそうな目をしているお凛を見て口を噤む。
「ま、それはそうと。せっかくの努力だけど、お祓いは必要ないよ。なにしろ、こいつは怪異じゃないとはっきりしたからさ」
「えっ?」
お凛は寸の間唖然とすると、「残念だなぁ」と振袖を眺めている仙一郎に詰め寄った。
「ど、どうしてですか? だって、火が出たじゃありませんか。祟りだって、その、はっきりしたんじゃ……」
「お前、祟りも呪いも信じないんじゃなかったのかい」
「それは、まぁ、その。だって、あんなにはっきりと……」
もごもごと口ごもると、仙一郎が白い歯を零した。
「昨日の夜は、たぶんああなるだろうと思ったんだよ。だから浅草まで出向いて、遅くなる前に帰ってきたわけだ。待ち構えていたから寝不足になっちまったし、練りきりは一つしか食べられなかったし。散々だ」
目を白黒させているお凛をよそに、あーあ、と子供のように足を投げ出す。
「待ち構えていたって……」
まさか霊魂やあやかしを待っていたわけでもなかろう。
「昨日隠れて見張っていたら、こっそり庭から忍び込んだ奴がいたよ。着物を庭に持ち出して火をつけたんで、出て行ったら慌てて逃げて行ったけどね」
「……見たんですか。誰なんですか? 火付けなら捕まえないと。お奉行所に……」
洗濯物を放り出しそうな勢いで言い募ると、仙一郎はちょっと手を上げてお凛を制し、庭を向いて眩しげに目を細めた。
「──焦るこたないよ。昨日私があちこち嗅ぎ回ったのに気づいたんだろうから、観念してもうすぐやってくるさ」
「……もうすぐ?やってくるって、犯人がですか?」
青年は何だか妙に寂しげな顔をしたまま答えない。その横顔を戸惑いながら見下ろしていると、熱気を孕んだ風が吹いて風鈴がちりちりと歌った。それから少し遅れて、背後にある振袖が、音もなく揺れる気配がした。
***
仙一郎の奇妙な予言の通り、中食の後片付けをしていると、屋敷を訪ねてきた人があった。
「……え。えっ……?」
表庭に出て行ったお凛は、どういう顔をしたらいいのかわからず、赤くなったり青くなったりしながら阿呆のように口をぱくぱくさせた。
「──昨夜は、まことに、申し訳ございませんでした」
膝を折らんばかりにしてそう詫びの言葉を口にしたのは、すえ吉の手代、藤吉だった。
まさか、藤吉が火付けの犯人だというのだろうか。
けれど、どうして藤吉が屋敷に忍び込んで、あの振袖に火をつけるのだ。わけがわからない。
混乱して立ち尽くしていると、仙一郎が背後から声を投げかけてきた。
「藤吉さん、早かったですねぇ。どうぞどうぞ、入ってください」
太平楽な調子で言うのを聞いて、藤吉の強張った顔がかすかに動いた。
ひどく悲しげな目をしている、とお凛はぼんやりと思った。
昨夜の小火は身頃に新たな焦げ跡をこさえ、穴まで開いていたが、思ったよりも範囲は狭くて済んだ。まぁ、既に焦げ跡だらけで今更であるし、持ち主は着物がぼろくなればなるほど喜ぶに違いないが。
洗濯物を抱えて通りかかったお凛は、縁側で足を止めると、のんきに風にゆれる振袖を見つめた。こうして見ていると、ただの焼け焦げた着物としか思えないのだけど。
しばらく考えた末、お凛は、よし、と表情を改めてそろそろと振袖に近づいた。
「……あのう、もしもし? 何か恨みごとがあったりとか……します? そりゃあ若くして亡くなったのはお気の毒だと思うんですけれど。火を出すのはちょっとやりすぎじゃありませんか?」
ぼそぼそと話しかけてみるが、もちろん答えは返ってこない。
「すえ吉のお嬢様なんて、縁談が壊れたし、危うく命を落とすところだったんですよ。お御足にも傷が残っただなんて、お気の毒だとは思わないんですか? ものには限度ってものがあるでしょう」
言いながら、段々むらむらと腹が立ってきた。
「第一、無関係の人を巻き込んで、恨みを晴らそうっていう根性がどうかと思うんですけど。そういうのって、よくないですよ、本当に。もてませんよ、絶対。いや、うちの変わり者の主にはもてるでしょうけど、嬉しいですか?」
畳に濃い影を落とし、はたはたと翻るばかりの振袖は、聞いているのかいないのか。
(……こういう時には、やっぱり、あれだろうか)
ふと思いつき、お凛は小さく咳払いした。
「えっと……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。成仏してください。ええっと、般若波羅蜜多……だっけ? 後は何があったかな。ぎゃーてーぎゃーてーはらぎゃーてー。いやこっちかな。祓いたまえー清めたまえー……」
眉間に力を込めて、洗濯物を抱えたままぶつぶつやっていると、
「ぶはっ!」
と背後で盛大に吹き出す声が聞こえてきた。
「あははははは、はっははは! し、死ぬ、あははは!」
陸に揚げられた鮪か何かのように、仙一郎が廊下でのたうちまわっている。
「……の、呪いも祟りも私を避けて通るっておっしゃったのは、ご自分じゃないですか」
耳朶がかっかと熱くなるのを感じながら絞り出す。洗濯物を抱えていなかったら、縁側から蹴落としてやるのにと歯噛みした。
待った、待った、息が詰まる、と首筋まで真っ赤になってばたばたすると、主は涙を拭いながらようよう廊下に座り込んだ。
「お前、噺家になったらいいんじゃないか」
などと言い、呪い殺しそうな目をしているお凛を見て口を噤む。
「ま、それはそうと。せっかくの努力だけど、お祓いは必要ないよ。なにしろ、こいつは怪異じゃないとはっきりしたからさ」
「えっ?」
お凛は寸の間唖然とすると、「残念だなぁ」と振袖を眺めている仙一郎に詰め寄った。
「ど、どうしてですか? だって、火が出たじゃありませんか。祟りだって、その、はっきりしたんじゃ……」
「お前、祟りも呪いも信じないんじゃなかったのかい」
「それは、まぁ、その。だって、あんなにはっきりと……」
もごもごと口ごもると、仙一郎が白い歯を零した。
「昨日の夜は、たぶんああなるだろうと思ったんだよ。だから浅草まで出向いて、遅くなる前に帰ってきたわけだ。待ち構えていたから寝不足になっちまったし、練りきりは一つしか食べられなかったし。散々だ」
目を白黒させているお凛をよそに、あーあ、と子供のように足を投げ出す。
「待ち構えていたって……」
まさか霊魂やあやかしを待っていたわけでもなかろう。
「昨日隠れて見張っていたら、こっそり庭から忍び込んだ奴がいたよ。着物を庭に持ち出して火をつけたんで、出て行ったら慌てて逃げて行ったけどね」
「……見たんですか。誰なんですか? 火付けなら捕まえないと。お奉行所に……」
洗濯物を放り出しそうな勢いで言い募ると、仙一郎はちょっと手を上げてお凛を制し、庭を向いて眩しげに目を細めた。
「──焦るこたないよ。昨日私があちこち嗅ぎ回ったのに気づいたんだろうから、観念してもうすぐやってくるさ」
「……もうすぐ?やってくるって、犯人がですか?」
青年は何だか妙に寂しげな顔をしたまま答えない。その横顔を戸惑いながら見下ろしていると、熱気を孕んだ風が吹いて風鈴がちりちりと歌った。それから少し遅れて、背後にある振袖が、音もなく揺れる気配がした。
***
仙一郎の奇妙な予言の通り、中食の後片付けをしていると、屋敷を訪ねてきた人があった。
「……え。えっ……?」
表庭に出て行ったお凛は、どういう顔をしたらいいのかわからず、赤くなったり青くなったりしながら阿呆のように口をぱくぱくさせた。
「──昨夜は、まことに、申し訳ございませんでした」
膝を折らんばかりにしてそう詫びの言葉を口にしたのは、すえ吉の手代、藤吉だった。
まさか、藤吉が火付けの犯人だというのだろうか。
けれど、どうして藤吉が屋敷に忍び込んで、あの振袖に火をつけるのだ。わけがわからない。
混乱して立ち尽くしていると、仙一郎が背後から声を投げかけてきた。
「藤吉さん、早かったですねぇ。どうぞどうぞ、入ってください」
太平楽な調子で言うのを聞いて、藤吉の強張った顔がかすかに動いた。
ひどく悲しげな目をしている、とお凛はぼんやりと思った。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
76
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる