深川あやかし屋敷奇譚

笹目いく子

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たたり振袖(七)

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「昨日、須田町の油屋までおいでになったと聞きまして、ああ、これはもういけないなと。そう踏ん切りがつきました」

 茶の間で仙一郎と向かい合った藤吉は、そう言ってどこかさっぱりとした、しかし侘しげな笑みを浮かべた。お凛はさすがに遠慮しようと思ったが、仙一郎に引き止められて、居心地悪い気分で部屋の隅に小さくなっていた。話を聞きたいような、聞きたくないような、どうにもいたたまれない心地がする。
 しかし、藤吉はすっかり腹を決めた様子で、誰に話を聞かれようと意に介する様子もなかった。

「手前がどうして店を離れたのか、お聞きになられましたか」
「ええ……まぁ」

 茶を一口含んでから、仙一郎が気負いなく頷いた。

「店で聞きまわったわけじゃありませんよ。ほら、実家が料理茶屋なもんですから、油はあの辺りから仕入れていまして。で、親や料理人らに当たってみたら、藤吉さんが奉公なすっていた店がわかりましてね。
料理人が噂を耳にしていて、何があったのかも話してくれました。それを確認するために、少々お店の旦那さんに話を伺っただけで。ーーいや、人の口には戸は立てられないって奴ですねぇ。怖いもんです」

 そう軽口を叩き、無邪気な丸い瞳でじっと手代を見つめる。

「藤吉さん、あなた、つくづく忠義な人なんですね。小僧さんが危うく火を出しかけたのを、責任を取って店を辞めたというじゃないですか」

 お凛は思わず身を乗り出した。火。ここでも火が出た。

「……どういう風に火を出したのかも、お聞きになったんですね?」

 藤吉の笑みに苦いものが混じる。
 ええ、と主はごく気楽な調子で応じた。

「十になる小僧さんが店の油を零したのを隠そうとして、手ぬぐいを何本も使って拭いた上に、ろくに洗わずに火の近くで干したところ、燃え上がったんだそうですね」
「その通りです」

 暗い目で藤吉が頷いた。

「油は少々洗った程度では落ちない。落ちたように見えても染み込んでいて、わずかな火でも容易に燃え上がるのだと、教えたつもりでおりました。しかし、行き届いておりませんでした。
油屋が火を出すなど、他の商家以上にあってはならないことです。油がどれほど危険であるのかを教え込んでおりませんでした、手前の責任です」

 小僧は、夜中にこっそり火鉢の火を掻き立てて乾かそうとしたらしい。
 炎はあっという間に畳に燃え移り、奉公人たちが飛び起きて駆けつけた頃には、火鉢の置かれた部屋の唐紙にも燃え広がっていた。

「死に物狂いで水をかけつづけ、どうにか消し止めました。小僧も無事でした。まったく、部屋を丸々一つ焼いただけで済んだのが、不幸中の幸いでございました」

 お凛は息をするのも忘れ、藤吉の横顔を凝視した。
 炎を今、目の前に見ているかのように焦点の合わぬ目をしていた手代は、やがてふうっと息を吐いた。

「失火の罰で、旦那様は謹慎となりました。小僧は幼いことから旦那様が罰を受けることで赦されましたが、店から出されることは避けられませんでした。しかし、元々愚かな子供ではなかったし、性根が悪いわけでもなかったのです。ただ、動転してしまった。手前が、助けを求めるのに足る手代ではなかった、そういうことなのです。
ですから、どうかその小僧を店に置いていただけないかと、旦那様や番頭にお願いしました。こんなしくじりをしたら、もう他の店で雇ってもらうことはできないだろうと思いましたので」
「……代わりに、あなたが店を去ったわけですか」
「元から、手前の責任でしたので」

 藤吉は目を伏せ、何か重いものがまとわりついているかのように肩を下げた。   

……だけど。

 お凛は内心で首を傾げた。藤吉が店を去った経緯はわかったが、それとこの振袖とどういう関係があるのだろうか。

「……そのことを」

 仙一郎が、のっぺりとした口調で言った。

「お菊さんにも、話しましたね」

 すっと部屋の空気が冷えた。お凛はどきんとして二人を見比べた。どうしてお菊様の名が出るのだろう。それを話したから、どうだというのか。話しましたか?ではなく、話しましたね。……なぜ、仙一郎はそうと確信している様子なのだろう? 表情の消えた藤吉の目が、かえってその問いの不穏さを肯定しているようで、お凛は正体のわからない不安に息を詰めた。

「──いいえ」

 奇妙なほど明瞭な口調で、男が答えた。

「お話ししたことはございません」

 挑むように仙一郎の目を見返すと、仙一郎はやわらかくそれを受けとめ、手に持った『伊場屋』の歌川豊国の派手な団扇をゆっくりと扇いだ。
 と、藤吉は沈黙を破るように背筋を伸ばし、部屋の入り口近くに置かれた赤い振袖にすっと視線を送った。

「手前が、火を付けました。小上がりにあった振袖に小火を出したのも、お嬢様にお怪我を負わせた火を出したのも、手前でございます」
「……油と布を、使ったんですね?」

 はた、と団扇で肩を叩き、仙一郎が呟くように言った。

「その通りです」男があっさりと頷いた。「油を染み込ませた布を袖と裾に詰め込み、火の気を近づけました。ざっと水にくぐらせて乾かしておいたので、匂いもしませんでしたし、人が袖を通すこともないから、誰に気づかれることもございませんでした。
そこにわずかな火種を放り込んでおけば、あっという間に燃え上がります。傍目はためには突如火が出たように見えますでしょうね。小上がりの時は、あれは元から衣桁だけを狙ったので、着物には油は仕込んでおりませんでした。少し騒ぎを起こしてやればそれでよかったので。
しかし、油屋での出来事が知れれば、手前に疑いがかかるかと不安になりまして……万が一何かの証拠が残っていたらまずいと思い、昨夜お屋敷に忍び込んで振袖を焼こうとしたのです」

「……どうして、ですか?」

 思わずお凛の唇から落ちた言葉が、ぽとりと座敷に落ちる音が聞こえた気がした。
 藤吉がちらとこちらを見て、うっすらと笑った。

「不可解な小火を出してから、振袖を焼く。そうすれば、嫌でも皆梅乃の振袖のことを思い出しますでしょう? この店は不吉だ。祟られている。そういう噂が出回れば……」
「お菊さんの縁談を壊せる、と考えたんですね」

 さして驚いた風もなく、仙一郎はまた茶を啜った。藤吉は薄い唇を歪め、つるりと片手で顔を擦った。
 手の下から現れた顔に、ぞっとするような暗い微笑を浮かんでいる。突如豹変した手代の面差しに、お凛は総身を強張らせた。

「ええそうです。あんなどら息子に、お嬢様を渡すなぞ冗談ではありません。鼻持ちならない、金で人を動かすことにしか関心のない若造ですよ。それならいっそ、傷をつけて手元に置いてやろうと思ったんです。手前はいつまでもお仕えします。ええ、いつまでもお仕えしますとも。手前ほどお嬢様を思っている忠義者はおりません。……だが、離れようとするなら許さない」

 醜く割れ、妄執に満ちた声に、お凛は知らず身を引こうとして、壁に背中を押し付けた。
 団扇がゆるく空を斬り、仙一郎の頬にぱたりと当たって動かなくなる。
 団扇の縁から目を覗かせ、主は沈黙したまま手代を眺めていた。
──不意に、庭で雀がちゅんちゅんと鳴きながら飛び立った。ぎくりとして庭を見たお凛が藤吉に目を戻すと、男の顔は先ほどまでの、抑制のきいた、湖面のように静かな表情を浮かべていた。

「……とまぁ、立場もわきまえず、お嬢様に横恋慕した上に、こんな馬鹿げたことを思いつきましたわけです。前の奉公先でもしくじったくらいですから、手前はこういう救いようのない男なんでございます。どうぞ、自身番に突き出してくださいまし」

 畳に両手をつくと、手代は深々と頭を下げた。
……茶の間にちりちりと風鈴の音が淡く響く。
 眩い日差しが強い陰影を刻む部屋で、誰もが影になったように動かなかった。
 何を考えたらいいのかもわからず、お凛は手のひらに汗をかきながら、ただ藤吉の姿を呆然と見つめていた。

(──そんな。藤吉さんが。まさか。でも。どうして)

 頭の中が煮えたように熱く、ぐるぐると切れ切れの言葉が渦を巻いている。その中に、不意にお菊を見つめる藤吉のやわらかな眼差しがよぎった。

……好きなんだ。本当に、お菊様のことが好きなんだ。

 喉がぎゅっと詰まり、お凛は奥歯を噛み締めた。
 それが、どうしてこんな。こんなことに。

「……まぁ、気に入っていた振袖を燃やそうとしたのは、噴飯物ふんぱんものですけどねぇ」

 突然、間延びした声で主が言った。手元の団扇をくるくる回し、一緒に回る美人画を眺めている。

「いや、さらに野趣あふれる風情になったから、むしろよかったのか。なんてことは置いておいて。……その程度でお上に突き出そうとは思わないから、気にしなくていいですよ」

 へ? と藤吉とお凛が間の抜けた声を発した。

「え、いえ、あの、それだけじゃないんで。お嬢様にお怪我をさせたのは、重罪です」

 にじりよりながら手代が言うのを、何だか遠い瞳で仙一郎は眺めていた。

「ねぇ、藤吉さん。あなたの心意気はそりゃあ立派だけど、また人の罪を被ろうとするのはやめた方がいいですよ。それじゃあお菊さんが気の毒ってもんでしょう」

 穏やかな声を聞きながら、藤吉の顔がみるみる青ざめた。
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