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番外編~エドモン

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 ドルレアク公爵家の庭は代々庭師が心血を注いで整えているため、見応えは王宮のそれに劣らない。公爵の手伝いが一段落した俺は窓下に広がる庭に出ることにした。柔い風が頬を撫で、木々が擦れる音が耳に心地いい。大きく深呼吸すると身体の中から強張りが解されていく気がした。

「エド様ぁ」

 甘ったるい声に呼び止められて振り返ると、妻が俺を追いかけてくるのが見えた。装飾の少ないディドレスを翻して歩く姿は今まで見たどの令嬢夫人よりも優美で洗練されていた。足を止めて手を差し出すと一層嬉しそうな笑顔を浮かべて近付いてきた。

 ラシェルは我が国でも一、二を争う大貴族ドルレアク公爵家の長女であり跡取りでもある。病弱な弟に代わり後継者として指名された彼女は学園でも常に首席にあり、彼女の学年では誰よりも目立つ存在だった。それは見た目もで、日差しを浴びて輝く銀の髪は遠くからでも目に付くし、大人っぽく涼しげな顔立ちでありながら出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいる、実に女性らしい身体つきをしていた。男子生徒の間では垂涎の的だった。

 そのラシェルがどうして俺を婿にと望んだのかは未だに謎だ。当主の能力も家格も低く、双子の妹は世間では面白おかしく吹聴される問題児。俺と姉上は必死に父や妹から逃げ出そうと足掻いてそれなりのものを手に入れてはいるけれど、あのドルレアク公爵家に釣り合うほどの物はない。

 だから最初に婿入りの話を聞いた時は、何の陰謀かと身構えたものだ。自分はラシェルの本命を隠すための囮なのか、取り敢えず婚約させたいから切り捨てやすい俺を選んだのか。利用されるなんて御免だからその場で断ったけれど、その後何度断ってもドルレアク公爵家からの使者はやって来た。余りのしつこさに恐怖して、死を覚悟したこともあった。権謀術数が蔓延る貴族社会、知られていないだけで謀殺など珍しくもなかったからだ。

「エド様、こちらだったのですね」
「うん、一段落ついてね。ずっと座りっぱなしだったから身体を動かしたくて」
「まぁ、じゃ私と同じですね」

 腕を絡めて嬉しそうに俺を見上げる薄緑の瞳は潤いと熱を宿していた。どうしてこんなにも好意を向けてくるのか、さっぱりわからない。その後も他愛もないことを話しながら庭を歩きながら、彼女の視線は殆ど俺から離れなかった。

 この居心地の悪さには中々慣れない。義父の公爵は諦めてやってくれと頭を下げてくるし、義母の公爵夫人はごめんなさいねと眉を下げながら笑った。義父の執事にはドルレアク公爵家の血がそうさせるのでどうか受け入れて差し上げて下さいと頭を下げられる始末だ。大丈夫なのかと心配になるほど、ラシェルも公爵夫妻も使用人たちも俺には甘かった。俺が王位に就きたいと言ったら本気で簒奪しかねない勢いなのだ。怖すぎて引く。

 一方で逃げるのは不可能だと早々に諦めた。そんなことをしたら姉上にどんな影響が出るかわからない。時々、姉上の夫のミオット侯爵が義父を訪ねてくるが、その時はさりげなく離されるのだ。義兄になるから同席してもいいだろうにと思うが、そんな機会は滅多にない。

「そう言えば、ミオット侯爵様がいらっしゃいましたわね」
「らしいね。だからこうしてラシェルとの時間が持てたよ」
「まぁ、そんな……」

 握る手に少し力を籠めると、ラシェルが顔を赤く染めた。押しかけ女房かと思うほどに押しに押してきたくせに、これくらいのことで赤くのが不思議だ。執着心が強いだけで音は初心なんだよな。閨では身体のこともあって虐め甲斐があるのは内緒だ。

「そう言えば、近々ルイ殿下が立太子されるそうですわ」
「ああ、王太子妃殿下は結局王子を生まれなかったからね」
「ええ。我が家としては僥倖ですわ」
「ドルレアク公爵家はルイ殿下を推していたからね」

 王太子妃の実家のフィルジュ公爵家は、日ごろから何かとドルレアク公爵家と目の敵にしている。嫡男が若くして亡くなった理由が理由なだけに王子の誕生を切望していただろうに。まさかその理由をこちら側が知っているとは思わないだろうな。

「ふふっ、ルイーゼ様が男児をお産みになったら王太子ご夫妻のお役目も終わりですわね」
「そうだね」

 さらっと言葉にしたけれど、それは王太子夫妻の終わりを示していた。多分ルイーゼ様が王子を産んで健やかに育てば、ドルレアク公爵は王太子妃の兄の所業を暴露して王太子を引きずり下ろすつもりなのだ。王太子も優秀だけど、性根は廃籍になったアラール様と同じだった。

「ルイ殿下こそ王としての資質をお持ちですわ。ルイーゼ様もです」
「そうだね。冷徹で物事を見極める力も、臣下の使い方も、ルイ殿下の方が上だ」
「ふふっ、エド様とのお子の代も我が家門は安泰ですわ」

 小犬のようにじゃれ付き睦言を交わしているけれど、内容はこの国の未来だなんて誰が想像するだろう。まぁ、姉上の事を思えばルイ殿下が即位された方がありがたい。姉上は気付いていないみたいだけど、ミオット侯爵は曲者だ。優しそうだし物腰も柔らかいけれど、目が笑っていないんだよな、あの人。姉上もヤバい男に捕まってしまった。まぁ、姉上のことは本気で惚れているみたいだし、ある意味守りとしては最高なんだろうけど。

 姉上は俺にとっては姉でもあり母親でもあり、唯一心を許せる存在だ。ラシェルに知られたら姉さんが危険だから絶対に悟らせないし、ラシェルには母親みたいなものだと言ってある。信じちゃいないだろうが納得してくれたからよしとしよう。姉上に何かあったら俺が怒り狂うと察しているはずだから手は出さないだろう。それに……あの義兄が守っている間は大丈夫だろう。

「そのルイ殿下なのですけれど……」
「どうかした?」
「ええ、実は、エド様に側近になる気はないかと……」
「俺が?」

 冗談だろう、俺が次期国王の側近? いやいや、幾らドルレアク公爵家の次期当主とはいえさすがにそれはないだろう?

「いや、俺はラシェルとこの家だけで手一杯なんだけど」
「え?」
「側近になんかなったら、ラシェルと過ごす時間が無くならないか?」

 そう言うとハッと表情を変えて頬に手を当てた。また頬が赤くなっているのが見えた。

「そ、そうですわね! やっぱり駄目ですわ! エド様との時間がなくなるなんて耐えられません! で、殿下には私からお断りしておきますわ」
「うん、頼むね」

 お任せくださいと胸を張ると、豊かな胸が一層強調された。頭がいいし切れ者なのに、俺が絡むと途端にポンコツになるのが可愛い。ラシェルの頭を撫でると嬉しそうに目を閉じた。周りには、親しいご令嬢たちですら一定の距離を置いているのに、この懐きようはなんだろう。人嫌いで気難しい子猫を飼っている気分だ。
 義父も義兄である侯爵も、毒とわかった上で皿ごと平気で食っちまう類いの人間だ。それがわかってしまう自分もそうなんだろうし、俺の横で表情を蕩けさせているラシェルもそう。
 あのクソ親父やミレーヌに少しでもこの要素があったら……と想像してやめた。性根が腐っている上に頭が回るなんて害度が増すだけだと気付いたからだ。

「エド様、大好きです。愛しています」
「俺も愛しているよ」

 さすがに庭では額に口を落とすのが精一杯だけど、それだけでまた嬉しそうに目を細めた。愛が何かなんてわからないけれど。心の一部が何故か穴が開いたように空虚だと感じることが消えることはないけれど。その穴の底があるのか自分でもわからないけれど。いつか君がこの穴を埋めてくれる日が来ると切に願う。そうしたら俺にも愛が理解出来るだろうか。



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