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第15章
それからの日々④
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それから退職までの日々は順調に過ぎていった。
真鍋さんは秘書歴が長く、業務面では取り立てて心配なことは無い。
拓ちゃんの言葉を聞いていたので、社長を気遣ってほしいタイミングや気遣い方だけは、意識して伝えるようにした。
マニュアルに追記すべきか悩んだけど、個人の資質にまで立ち入るようなことを書き残すべきでもないと考えてやめた。
あとは社長とのコミュニケーションの中で、彼女なりに掴んでもらえばいいだろう。
真鍋さんの泊さんへの態度は、やはり特別違っているようには見えない。
ただ、ウキウキしているような様子は伝わってくる。
これが"社長秘書"という新しい仕事への期待感でないとしたら、恋愛感情が絡んでいるようにも受け取れる。
とはいえこのことも、ここを去る私がどうこう考えても仕方がないので、本人たちの良識に委ねることにした。
「優子さ~ん」
社長の外出を見送ってエレベータホールから戻ろうとしたら、通りかかった実華ちゃんに声を掛けられた。
「実華ちゃん」
「優子さん、明日までですよね? もうこうして会えなくなると思うと淋しい……」
「あはは、もともと会社ではほとんど話してないのに」
「でもこうして見かけることも、仕事帰りに待ち合わせることも無くなっちゃうじゃないですか~」
「そうだね、淋しくなるね……」
その時、実華ちゃんは突然私の手を取った。
そして驚く私を真剣な目で見つめながら、
「優子さん、退職しても絶対絶対会ってくださいね! 私絶対これまでどおり連絡しますから! 音信不通にしたら許しませんからね!」
それを聞いて、私は内心感動していた。
実華ちゃんは心から私を慕ってくれている。
そう感じられて、本当にありがたかった。
「うん、ありがとう。こちらこそ、よろしくね」
そう言うと、実華ちゃんはホッとしたように表情を緩めた。
「ところで、送別会しなくてホントに良かったんですか?」
実は、メールで連絡した後に、愛美ちゃんと三人で送別会をしようと言ってもらったんだけど、断った。
そのメンバーで会えば、必ず亮弥くんとのことを話す羽目になるだろうから、もうしばらく保留したいと考えたのだ。
「うん……、今はちょっと余裕がなくて、ごめんね。その代わり、少なくとも七月末までは私はのんびりしてるし、実華ちゃん達さえ良ければまたゆっくり、ね」
「そうですね……。ま、どうせプライベートな関係なんだから休日に会うこともできますもんね! 平日の夜にバタバタ会うよりその方がいいか」
心の中でごめんと謝りながら、私は頷いた。
「明日は何時に帰るんですか? 見送りに行きます」
「え~、いいよそんなの」
「良くないです! 見送りも断るなら、優子さんは私が嫌いなんだって思いますからね!」
「そんなわけないのに。まぁ……明日はもう、手続きと挨拶周りが済んだら帰るから、たぶん午前中には」
「それじゃ、帰る前に電話ください」
「わかった。ありがとうね」
約束すると、実華ちゃんは満足げに自分のフロアへ戻っていった。
そして最終出社日が訪れた。
六月の最初の金曜日。薄い曇り空の日だった。
うちの会社は、有給休暇の期間より前に最終出社日があって、その時に退職手続きを終えて会社から完全撤退する。
その後に有給期間を経て、書類上の退職日を迎える。
なので、これから七月末までの間、解放された気持ちで過ごせてありがたい。
本当ならこの期間を亮弥くんのためにも使うつもりだったことを、ふと思い出す。
でも、それも過ぎたこと。
もう三週間近く何も連絡はなく、私も諦めがついていた。
退職のことはほとんど秘書室外に漏らしていなかったので、各部署に泊さんと挨拶に回ったら、親しかった人たちが驚いてたくさん声を掛けてくれた。
日を改めて送別会をさせて、と行く先々で言われたので、実現するのかはわからないけど、泊さんに取り次ぎをしてもらうよう一応お願いしておいた。
「いやー、つかれた。片瀬ちゃん人気ありすぎ!」
「すみません……。社交辞令ですよ、皆さん優しいから」
「そんなことないでしょ。挨拶周りにこんなに時間かかることないって」
「ありがとうございます……」
「あいつら俺の退職の時何も言わなかったら絶対恨んでやろう」
「根性わるっ」
「俺、社長が辞めたら片瀬ちゃんに雇ってもらおうかな~」
「そんな高給払えませんよ」
実は、社長と泊さん、拓ちゃんで送別会をしてくれた時に、三人にはこれからのことを簡単に話した。
飲食関係で事業を興そうと思っていること。その方向性。そのためにまずは飲食店で働いて学ぶつもりでいること。など。
みんな驚いていたけど、今後が楽しみだと言ってくれた。
「どんなに素晴らしい思いを持っていてもね、万人には伝わらないし、批判の声に苦しむこともある。いろんな不条理にもぶち当たるし、理不尽なこととか、屈辱を感じることとか、保身の気持ちが生まれることもきっとあるだろうね。でも、片瀬さんはそんなことで自分を見失わないで、今のあなたのまま突き進んで社会に貢献してほしい」
という社長の言葉が、とても心強くて、ありがたくて、ちょっと泣いてしまったのだった。
秘書室に戻るとメールがたくさん届いていた。
泊さんが「片瀬は十一時以降メールの確認ができませんので、社長関連のメールは泊、真鍋までお願いします」という通知を出してくれたので、その時間以降はメールが来なくなって助かったけど、一つ一つ返信をしたら、あっという間にお昼前になった。
ようやく帰れると思い、実華ちゃんに電話を入れた後、最後に社長のところへ挨拶しに行った。
社長を心から尊敬していたことや、たくさん学ばせてもらったこと、社長の秘書ができて幸せだったことなど、自分の心にある社長への感謝の気持ちを、全部全部伝えた。
社長は私に「好みに合うかはわからないけど」と言って、自分が迷った時によく読んできたという経営に関する書籍をプレゼントしてくれた。
私はそれが嬉しくて、また泣いてしまった。
「がんばってね。僕の人脈で役に立てそうなことがあったらいつでも連絡して」
「ありがとうございます。そんなこと言ってもらえたら余計泣いちゃうじゃないですか」
「ハハハ、女性を泣かせちゃいけないね」
「本当にお世話になりました。わがまま言ってすみませんでした。ありがとうございました」
「こちらこそ長年ありがとう。元気で活躍してね」
「社長もどうか、お体にお気をつけて」
社長室を出て秘書室に戻ると、秘書たちが全員集まっていた。
泣き顔で戻ったのを見られて恥ずかしかったけど、皆から花束やプレゼントをもらって、結局また泣いてしまった。
笑顔で去りたかったのに、めちゃくちゃだ。
でも、秘書の子たちが一緒に泣いてくれたので、嬉しかった。
それから全員でぞろぞろと見送りについて来てくれた。
エレベーターホールには実華ちゃんが待っていて、
「優子さん、お疲れさまでした。これ、私と愛美から!」
そう言ってプレゼントの包みをくれた。
「ええ~、実華ちゃん達まで……ありがとう……」
また泣きそうになっていると、
「あれ、青山さんはまだですか?」
と隣で私の荷物を持ってくれている拓ちゃんが言った。
「連絡くれって言われてて、さっき電話したんですけど……」
「あ、青山さんはミーティング中で来れないみたいです。優子さんによろしくって言ってました」
「あ、そうですか。じゃ待たなくていいか」
一階に降りると、拓ちゃんは「タクシー停めときますね」と言って先に外へと走っていった。
「いやー、今日はホントに片瀬ちゃんの人気に嫉妬するな」
泊さんが言う。
「泊さん人気ないですもんね!」
真鍋さんの返しに私は笑ってしまった。
「俺の方が長く秘書やってるのになぁ」
「泊さんの退職の時も私達が盛大に送り出しますよ!」
「ホント? 花火とか上げてくれる?」
「お金出してくれたら!」
二人の会話を聞いて、なかなか良いコンビになりそうだと思った。
真鍋さんの元気の良さが、また新しい秘書室像を作っていってくれるだろう。
実華ちゃんは「淋しい~」と言いながら、私の腕にぎゅっと抱きついている。
いろいろあったけど、幸せな気持ちで今日を過ごすことができた。
私の生き方は間違ってなかったと、今は思えている。
外に出ると、拓ちゃんは無事にタクシーを捕まえたようだった。
私は皆の方へ振り返り、
「皆ここまで見送ってくれてありがとう。お昼ギリギリになってごめんね。泊さん、真鍋さん、後はよろしくお願いします。本当にお世話になりました」
とお辞儀をしてお礼を言った。すると、
「片瀬さん、お迎えが来てますよ」
後方から拓ちゃんが声を掛けたので、私は不思議に思ってそちらに顔を向けた。
「お迎え?」
拓ちゃんの隣にいる人の顔が目に飛び込む。
と同時に心臓が止まりそうになった。
心が毟られるように平常心をなくしていく。
この場に似つかわしくないくらい、目を見張るような美形の男の子。
キチンとスーツを着ているから余計に美しさが引き立つ。
「あ、亮弥」
実華ちゃんがつぶやく。
ドクドクと心拍数が上がっていく。
私は膨れ上がる感情を制御するのに必死で、どう反応することもできず、ただただ立ち尽くしてその姿を見つめていた。
真鍋さんは秘書歴が長く、業務面では取り立てて心配なことは無い。
拓ちゃんの言葉を聞いていたので、社長を気遣ってほしいタイミングや気遣い方だけは、意識して伝えるようにした。
マニュアルに追記すべきか悩んだけど、個人の資質にまで立ち入るようなことを書き残すべきでもないと考えてやめた。
あとは社長とのコミュニケーションの中で、彼女なりに掴んでもらえばいいだろう。
真鍋さんの泊さんへの態度は、やはり特別違っているようには見えない。
ただ、ウキウキしているような様子は伝わってくる。
これが"社長秘書"という新しい仕事への期待感でないとしたら、恋愛感情が絡んでいるようにも受け取れる。
とはいえこのことも、ここを去る私がどうこう考えても仕方がないので、本人たちの良識に委ねることにした。
「優子さ~ん」
社長の外出を見送ってエレベータホールから戻ろうとしたら、通りかかった実華ちゃんに声を掛けられた。
「実華ちゃん」
「優子さん、明日までですよね? もうこうして会えなくなると思うと淋しい……」
「あはは、もともと会社ではほとんど話してないのに」
「でもこうして見かけることも、仕事帰りに待ち合わせることも無くなっちゃうじゃないですか~」
「そうだね、淋しくなるね……」
その時、実華ちゃんは突然私の手を取った。
そして驚く私を真剣な目で見つめながら、
「優子さん、退職しても絶対絶対会ってくださいね! 私絶対これまでどおり連絡しますから! 音信不通にしたら許しませんからね!」
それを聞いて、私は内心感動していた。
実華ちゃんは心から私を慕ってくれている。
そう感じられて、本当にありがたかった。
「うん、ありがとう。こちらこそ、よろしくね」
そう言うと、実華ちゃんはホッとしたように表情を緩めた。
「ところで、送別会しなくてホントに良かったんですか?」
実は、メールで連絡した後に、愛美ちゃんと三人で送別会をしようと言ってもらったんだけど、断った。
そのメンバーで会えば、必ず亮弥くんとのことを話す羽目になるだろうから、もうしばらく保留したいと考えたのだ。
「うん……、今はちょっと余裕がなくて、ごめんね。その代わり、少なくとも七月末までは私はのんびりしてるし、実華ちゃん達さえ良ければまたゆっくり、ね」
「そうですね……。ま、どうせプライベートな関係なんだから休日に会うこともできますもんね! 平日の夜にバタバタ会うよりその方がいいか」
心の中でごめんと謝りながら、私は頷いた。
「明日は何時に帰るんですか? 見送りに行きます」
「え~、いいよそんなの」
「良くないです! 見送りも断るなら、優子さんは私が嫌いなんだって思いますからね!」
「そんなわけないのに。まぁ……明日はもう、手続きと挨拶周りが済んだら帰るから、たぶん午前中には」
「それじゃ、帰る前に電話ください」
「わかった。ありがとうね」
約束すると、実華ちゃんは満足げに自分のフロアへ戻っていった。
そして最終出社日が訪れた。
六月の最初の金曜日。薄い曇り空の日だった。
うちの会社は、有給休暇の期間より前に最終出社日があって、その時に退職手続きを終えて会社から完全撤退する。
その後に有給期間を経て、書類上の退職日を迎える。
なので、これから七月末までの間、解放された気持ちで過ごせてありがたい。
本当ならこの期間を亮弥くんのためにも使うつもりだったことを、ふと思い出す。
でも、それも過ぎたこと。
もう三週間近く何も連絡はなく、私も諦めがついていた。
退職のことはほとんど秘書室外に漏らしていなかったので、各部署に泊さんと挨拶に回ったら、親しかった人たちが驚いてたくさん声を掛けてくれた。
日を改めて送別会をさせて、と行く先々で言われたので、実現するのかはわからないけど、泊さんに取り次ぎをしてもらうよう一応お願いしておいた。
「いやー、つかれた。片瀬ちゃん人気ありすぎ!」
「すみません……。社交辞令ですよ、皆さん優しいから」
「そんなことないでしょ。挨拶周りにこんなに時間かかることないって」
「ありがとうございます……」
「あいつら俺の退職の時何も言わなかったら絶対恨んでやろう」
「根性わるっ」
「俺、社長が辞めたら片瀬ちゃんに雇ってもらおうかな~」
「そんな高給払えませんよ」
実は、社長と泊さん、拓ちゃんで送別会をしてくれた時に、三人にはこれからのことを簡単に話した。
飲食関係で事業を興そうと思っていること。その方向性。そのためにまずは飲食店で働いて学ぶつもりでいること。など。
みんな驚いていたけど、今後が楽しみだと言ってくれた。
「どんなに素晴らしい思いを持っていてもね、万人には伝わらないし、批判の声に苦しむこともある。いろんな不条理にもぶち当たるし、理不尽なこととか、屈辱を感じることとか、保身の気持ちが生まれることもきっとあるだろうね。でも、片瀬さんはそんなことで自分を見失わないで、今のあなたのまま突き進んで社会に貢献してほしい」
という社長の言葉が、とても心強くて、ありがたくて、ちょっと泣いてしまったのだった。
秘書室に戻るとメールがたくさん届いていた。
泊さんが「片瀬は十一時以降メールの確認ができませんので、社長関連のメールは泊、真鍋までお願いします」という通知を出してくれたので、その時間以降はメールが来なくなって助かったけど、一つ一つ返信をしたら、あっという間にお昼前になった。
ようやく帰れると思い、実華ちゃんに電話を入れた後、最後に社長のところへ挨拶しに行った。
社長を心から尊敬していたことや、たくさん学ばせてもらったこと、社長の秘書ができて幸せだったことなど、自分の心にある社長への感謝の気持ちを、全部全部伝えた。
社長は私に「好みに合うかはわからないけど」と言って、自分が迷った時によく読んできたという経営に関する書籍をプレゼントしてくれた。
私はそれが嬉しくて、また泣いてしまった。
「がんばってね。僕の人脈で役に立てそうなことがあったらいつでも連絡して」
「ありがとうございます。そんなこと言ってもらえたら余計泣いちゃうじゃないですか」
「ハハハ、女性を泣かせちゃいけないね」
「本当にお世話になりました。わがまま言ってすみませんでした。ありがとうございました」
「こちらこそ長年ありがとう。元気で活躍してね」
「社長もどうか、お体にお気をつけて」
社長室を出て秘書室に戻ると、秘書たちが全員集まっていた。
泣き顔で戻ったのを見られて恥ずかしかったけど、皆から花束やプレゼントをもらって、結局また泣いてしまった。
笑顔で去りたかったのに、めちゃくちゃだ。
でも、秘書の子たちが一緒に泣いてくれたので、嬉しかった。
それから全員でぞろぞろと見送りについて来てくれた。
エレベーターホールには実華ちゃんが待っていて、
「優子さん、お疲れさまでした。これ、私と愛美から!」
そう言ってプレゼントの包みをくれた。
「ええ~、実華ちゃん達まで……ありがとう……」
また泣きそうになっていると、
「あれ、青山さんはまだですか?」
と隣で私の荷物を持ってくれている拓ちゃんが言った。
「連絡くれって言われてて、さっき電話したんですけど……」
「あ、青山さんはミーティング中で来れないみたいです。優子さんによろしくって言ってました」
「あ、そうですか。じゃ待たなくていいか」
一階に降りると、拓ちゃんは「タクシー停めときますね」と言って先に外へと走っていった。
「いやー、今日はホントに片瀬ちゃんの人気に嫉妬するな」
泊さんが言う。
「泊さん人気ないですもんね!」
真鍋さんの返しに私は笑ってしまった。
「俺の方が長く秘書やってるのになぁ」
「泊さんの退職の時も私達が盛大に送り出しますよ!」
「ホント? 花火とか上げてくれる?」
「お金出してくれたら!」
二人の会話を聞いて、なかなか良いコンビになりそうだと思った。
真鍋さんの元気の良さが、また新しい秘書室像を作っていってくれるだろう。
実華ちゃんは「淋しい~」と言いながら、私の腕にぎゅっと抱きついている。
いろいろあったけど、幸せな気持ちで今日を過ごすことができた。
私の生き方は間違ってなかったと、今は思えている。
外に出ると、拓ちゃんは無事にタクシーを捕まえたようだった。
私は皆の方へ振り返り、
「皆ここまで見送ってくれてありがとう。お昼ギリギリになってごめんね。泊さん、真鍋さん、後はよろしくお願いします。本当にお世話になりました」
とお辞儀をしてお礼を言った。すると、
「片瀬さん、お迎えが来てますよ」
後方から拓ちゃんが声を掛けたので、私は不思議に思ってそちらに顔を向けた。
「お迎え?」
拓ちゃんの隣にいる人の顔が目に飛び込む。
と同時に心臓が止まりそうになった。
心が毟られるように平常心をなくしていく。
この場に似つかわしくないくらい、目を見張るような美形の男の子。
キチンとスーツを着ているから余計に美しさが引き立つ。
「あ、亮弥」
実華ちゃんがつぶやく。
ドクドクと心拍数が上がっていく。
私は膨れ上がる感情を制御するのに必死で、どう反応することもできず、ただただ立ち尽くしてその姿を見つめていた。
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