光のもとで1

葉野りるは

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47~48 Side 空太 02話

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 さっきまで俺の真横にいた兄ちゃんの声が、ドアの向こうで少しくぐもって聞こえた。
「おふたりさん、おはよ。……ごめんね、出るに出られなくて……。翠葉ちゃん、とりあえず顔を拭こうか」
「す、すみません……」
「でね、翠葉ちゃん。司様との会話も粗方聞こえちゃったわけなんだけど、彼は翠葉ちゃんに対して虫唾が走るって言ったんじゃないよ? もう一度言われたことを思い出してごらん?」
 兄ちゃんの言ったことを自分も考える。
 藤宮先輩が言ったこと――
 すごく辛辣な言葉だと思ったけど、あの人は普段からきっつい人だ。
 でも、ほかの人に対するそれと翠葉ちゃんへ対する態度は明らかに違う人だとわかる。
 そんな人があんなことを言った理由――
「司様は翠葉ちゃんの体調を優先するって言ってたし、それで翠葉ちゃんが葛藤しても悩んでも止めるって言ってたよね? それはさ、翠葉ちゃんをひとり置いていくつもりはないってことでしょう?」
 あぁ、そうか……。
 実はすごく簡単なことで、あの人は「不愉快だ」って言いたかったんだ。
 別に翠葉ちゃんを責めるとかそういうことじゃなくて、「すごく悔しい」って言いたかったんだ。
 俺、言われた側の翠葉ちゃんに同調してたかも……。
 でも、同調しきれなかったのは、彼女が「怖い」と言った学校の人間に自分も含まれていたからで……。
「逆にそこで悩んじゃうほうが司様は怒りそうだけど? わかった? 侮るなっていうのは、自分たちは中学の人間たちとは違うんだから、要らぬことで悩むな、葛藤するな、ってことじゃない? ま、究極の思考翻訳だけどさ」
 兄ちゃんの苦笑がここまで届く。俺もつられて苦笑い。
 俺もそろそろ離脱しなくちゃ――っていうか、参戦、かな。
 タオルを廊下に置き、玄関のドアを開けた。
 ずっと暗いところにいたからちょっと眩しい。
 ポーチから顔を出し、
「そろそろ出てもいいでしょうか?」
 三人がいる方に声をかける。
 翠葉ちゃんを視界に認めると、彼女はお兄さんの影に隠れた。
 うは、何これ。超ショック……。でも、とりあえずはカミングアウト。
「ごめんね……俺も話を聞いちゃったんだ。ちょうど家を出ようと玄関で靴を履いた直後だったから……」
 入学したてのころに逆戻りチック。
 彼女の視線が、表情が、「どうしよう」って言ってる。
 兄ちゃん――確かに言わないでいることもできたかもしれないし、そうしたほうが今の彼女には良かったのかもしれない。でもさ、これで学校休まれたらたまんない。それこそ、俺、見て見ぬ振りしたことになる。
 だからたぶん、今俺が取っている行動は間違いじゃない。
 翠葉ちゃんの不安に揺れる目を見て思い出す。芝生広場での盛大なる内緒話こと、立ち聞き大会を。
 彼女は言っていた。「大切なものが増えると困る」と。目に涙をいっぱい溜めてそう言った。
 ――「自分が何を返せるのか、やっぱりわからない。もし何も返せなくて、大好きだと思った人たちが周りからいなくなってしまったら? そのときこそ、絶対に耐えられない――」。
 忘れたくても忘れられない言葉。
 友達関係でこんなことを考えている人がいるなんて知らなかったから。
 でも、つまるところ、目の前の彼女はその局面にいるんじゃないだろうか。
 全然そんなことないのに、絶対そんなことあり得ないのに、どうしてか彼女は勘違いをしている。
 ちょっと藤宮先輩の気持ちがわかったし、この誤解は絶対に解きたいと思う。解かなくちゃだめだ。
 じゃないと俺も苦しいし、翠葉ちゃんだって苦しいじゃん。
 単なる勘違いなのに、こんなに怯えて泣いててさ。そんなの、良くないよ……。
 泣かせたいわけじゃないんだけど、俺もちょっと藤宮先輩風味を入れていいだろうか。
 だって、ショックだったから。
 あんなに仲のいいクラスなのに、その気持ちが一方通行なんておかしいでしょ?
 翠葉ちゃんだってうちのクラスを好きだよね? それは俺の勘違いじゃないよね?
 だったら、うちのクラスは翠葉ちゃんと両思いなんだよ。なのに、こんなのおかしいでしょ。
「そのさ……話を聞いちゃって申し訳ないとは思うんだけど、そのうえで俺の意見を言わせてもらってもいい? ――俺、結構ショック。翠葉ちゃんが中学のときにどれだけ嫌な思いをしてきたのかは知らないけど、少なくともうちのクラスには翠葉ちゃんを仲間はずれにするような人間はいないし、誰もが翠葉ちゃんを好きだと思ってると思う。その気持ちが届いていないのは正直悔しいよ」
 藤宮先輩……高崎空太、勝手に加勢させていただきますっ!
「……だから基本姿勢は藤宮先輩と一緒。俺も戦線布告――そんなことが理由で翠葉ちゃんが必要以上にがんばるんだったら、俺も止める。止めても翠葉ちゃんをひとりにするつもりはないから」
 翠葉ちゃんは、戦線離脱した人間は後方部隊で人の手当をできるって知らないかな。
 知らないなら教えてあげたい。
 すっごく勇気がいったけど、彼女の前に手を差し出した。まだ怯えてお兄さんの後ろに隠れている彼女に手を差し出した。
 きっと、この手は取ってもらえない。今、こんな状況だからなおさら。
 そんなのわかっててやってる。
 でも、これが俺の意思表示一発目っ!
 気分的にはターゲットロックオン。打倒、御園生翠葉。ミッション、姫の篭城を陥落せよっ。
「学校へ行こう」
 彼女に伸ばした手をそのままに言う。
 返事はないし、当然手も伸びてこない。
「蒼樹、悪い。空太も一緒に車乗せてやって」
 兄ちゃんの言葉に、はっとする。
 今何時っ!?
「あ、やばっっっ。翠葉急ぐぞっ」
「きゃっ――」
 彼女はお兄さんに軽々と抱えられた。
 そして、じたばたする間もなく移動が始まる。
「空太くん、こっち」
 声をかけられその姿を追う。
 思わず、ピュ~、と口笛。
「さっすがもとスプリンター。すっげー瞬発力っ」
 その隣を並走する兄ちゃんだって、元陸上部でハイジャンの選手だった。ふたりともインターハイ経験者。
 なんだか世界が違うなぁ……。
 やっば……そんなこと考えてないで俺も急がなくちゃ。

 ロータリーに停まっていた車に乗り込み学校へと急ぐ。とはいっても、急いでいるのは運転しているお兄さんで、走っているのは車。
 車の中は終始無言。居心地悪いけど、一番居心地悪くて動揺しているのは助手席に座る彼女だろう。
 学校の駐車場が大学側だったらどうしようかと思ったけど、高等部よりの第二駐車場だった。
 彼女は車から降りたものの、足取りは重い。
 大学へ行く分岐点まで、お兄さんが必死に宥めすかしていた。
「司とは帰ってきたらまた話してみな? あいつは時々言葉足らずだから」
 藤宮先輩を擁護するお兄さんには全体像が見えてるんだろうな。でも、彼女は「怖い」と答えるだけだった。
 確か、お兄さんの名前は蒼樹さん。
「蒼樹さん、ここからは自分一緒ですから」
「悪いけどお願いね」
 ものすごく心配そうな顔で言われた。
 ずっと前に兄ちゃんから聞いていた。
 ――「親友があり得ないほどシスコンなんだよね。でも、その妹に会ってみたら本当にかわいい子でさ。それにしてもやばいくらいのシスコンで……」。
 何度聞いただろう。
 ――「空太よりも一学年上っていってたけど、女の子らしくてちんまくてかわいかったよ」。
 弟より妹が欲しかった兄ちゃんは何度も俺に言って聞かせた。
 そのときは「弟で悪かったな!」って思っていたけど、あのとき話していた子が翠葉ちゃんで、そのシスコン兄貴はこの人だったんだ。
 こんなに不安がってる妹に学校へ行くように諭して、結構痛いこと言われた妹を甘やかすでもなく藤宮先輩の擁護して……。最後は「悪いけどお願いね」って……。
 本当は自分がついていたいって顔だった。落ち着くまで待ってあげたい、って顔。
 でも、そうしないのは、きっとそれが翠葉ちゃんのためにならないからだ。
 ……俺には何ができるかな。
 言葉は気休めにしかならない。
 それでも俺は言う。「大丈夫だよ」って。
 翠葉ちゃんは歩く足を止めて俺の顔を見ては、また下を向く。
 時計は二十五分を指していた。あと五分で教室にたどり着かなくてはいけない。
 ふと自分のクラスを見上げれば、ちょうどいい人間たちが窓際に集まっていた。
 君たち、ナイスタイミング!
「だって、あそこ見てみて?」
 彼女がどこを見ればいいのかをわかるように指で指し示す。
 彼女が顔を上げたとき、飛鳥の大声が降ってきた。
「翠葉も空太もおっそーいっ!」
 身を乗り出す飛鳥を海斗が押さえにかかっている。その左隣で七倉が、「早く早く」と手を振っていた。桃は時計を指してタイムリミットが近づいていることを示唆する。
 みんなぐっじょぶでしょうっ! 
「ね? もし仮に翠葉ちゃんがそう思っていることに気づいたとしても、あそこにいるクラスメイトたちは変わらないと思わない?」
 学年全体はわからない。でも、うちのクラスには自信があるんだよね。
「時間が必要なら時間をかけてもいいからわかってよ。そうだな……たとえば、翠葉ちゃんが二十位脱落して生徒会から除名されたとしても、うちのクラスの出席番号二十八番は翠葉ちゃんで、その代わりになる人はいないんだよ」
 言葉は気休めにしからない。もしくは、気休めにもならない。
 でも、言わないよりは言ったほうがいいんだ。
 彼女の真っ直ぐな視線が俺を捉える。
 視線は真っ直ぐだけど、瞳が揺らぐ。「泳ぐ」よりも、「揺らぐ」。
「空太くん、ありがとう……。わかってるの、わかってるんだよ……?」
 そうだよね……。
 きっと俺たちの気持ちは届いているんだ。それでも、彼女の中には彼女にしかわからない確執がある。
「うん……わかってても踏ん切れないことってあるよね。だからさ、時間かけていいんだ」
 安心してほしくてにこりと笑ったのに、彼女の目からは涙が零れた。
「わわわっっっ、泣かないでっ!? 翠葉ちゃん泣かせたら俺がみんなに殺されるっ」
 真面目に焦る。
「――それでも、ツカサは……ツカサは怒っていたよね?」
 そこか――
 翠葉ちゃんにとって、藤宮先輩ってやっぱ特別な存在なんだろうな。でもって、藤宮先輩にとっても翠葉ちゃんは特別な存在だとは思うけど、呼び出しに応じる彼女を見ていると、何やら険しい道のりを察するわけで……。
「ん~……あの人は色々と複雑なんだと思うけどね」
 意識せずとも苦笑が漏れる。
「複雑……?」
 彼女は、涙に濡れた目できょとんとしていた。
 これまたかわいいけど、ちょっと困る。どうやって説明したらいいのさ、俺……。
「だって、翠葉ちゃんのかなり近くにいるじゃん。翠葉ちゃんは藤宮先輩をすごく頼りにしているでしょ?」
 すっごく遠まわしに言って回避……。
 翠葉ちゃんはコクリと頷いてその先を聞きたそうにしている。
 ちょっと、雛にエサをちょうだいってねだられている気分。
 藤宮先輩、加勢ついでにちょっとだけおせっかい追加しておきます。
「なのにさ……信じてくれているはずなのに、ひとり置いていかれるのが怖いとか、誰とも話せなくなるのが怖いとか、そんなふうに思われてたらショックじゃん。自分はそんなつもりないわけだからさ。……翠葉ちゃんが思っていることは、翠葉ちゃんにより近い場所にいる人がすごくショックを受けることだと思うよ」
 彼女は「ショック」と声にならない声で復唱した。
「うちのクラスなら海斗や佐野。桃や飛鳥。……でも、ショックを受けたとして、そのままでいる連中じゃないっしょ? 知った時点では怒るかもしれない。でも、そのあとに取る行動は藤宮先輩と同じ。猛反撃に出るよ」
 加勢しておせっかいまでしたつもりだったけど、最後は海斗たちと並列にしてしまった……。
 藤宮先輩すんません――

 なんとか促しまくって教室の前までは来た。けど、彼女は教室のドアから五歩くらい下がった場所で立ち止まる。
 ちょうど、階段とドアの中間地点。
「翠葉ちゃんはさ、クラスに入るときまず何を見る?」
 翠葉ちゃんはちょっと目を見開いた。
 まるで、訊かれると思っていなかったことを訊かれて驚いているふう。
 こういう仕草ひとつひとつがなんだかかわいい子。でも、返ってくる答えは予想もつかないものばかりだったりする。
「……ひとつも欠けることなくきれいに並んでる机」
 その意味を少しだけ考えて、すぐにやめた。
 彼女に同調したらだめだ。
「俺は真っ先に翠葉ちゃんの席を見るよ」
「……どうして?」
 驚いた顔が俺を見上げる。
「いつも一番のりでしょ? で、誰かが入ってくるたびに目をやってはおはよって笑ってくれる。だから、まず翠葉ちゃんの席を見る。たぶん、みんな同じ。で、いないとあれ? ってなって、情報を持ってそうな桃に訊く」
「嘘……」
「嘘じゃないよ」
 こんなことで嘘なんてつかない。嘘をつくならもうちょっと楽しいトラップを仕掛けるときだけ。
 彼女の数歩先でドアに手をかける。
「最初の一歩、その勇気だけはご自分でご用意を」
 ドアを開き、彼女を中へ促した。でも、まだ彼女の足は動こうとしない。
「ほら、勇気総動員かけて右足出して!」
 彼女は小さな歩幅で少しずつ教室へ近づく。
 もう、教室の中の人間はほとんどの人がこっちを見ている。でも、彼女が教室に入るまでは何も言わない。
 ただ、入ってきてくれるのを待っている。
 うちのクラスはさ、引っ張り込むのも得意なんだけど、待つことだってできるんだよ。
 やっと彼女が教室に足を踏み入れたとき、
「珍しく遅いからどうしたのかと思ったよ」
 圭太が一番に口を開いた。
「ね?」と戸惑っている翠葉ちゃんに声をかけると、涙がポロリ、と零れる。
「空太、何泣かせてんのよっ」
 久我から鉄拳が飛んできた。
 マジ痛ぇ~……。
 腰をかばいつつ翠葉ちゃんに視線を戻すと、まだ朝なのに、すでにじっとりと濡れているハンカチで目元を押さえていた。
「翠葉ちゃん、焦る必要ないけどさ、川岸先生来たから席までは急ごう」
 そう言って、彼女の背中を押した。
 これが初めて、俺が彼女に触れた瞬間――
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