光のもとで1

葉野りるは

文字の大きさ
上 下
345 / 1,060
第八章 自己との対峙

10話

しおりを挟む
 この日の食事会は楓先生がいなくて、静さんは終わる間際に顔を出した。
 自分が慣れている人たちばかりなのに、どうしてかその空気に馴染みきれない私は、カウンターの中で須藤さんと唯兄とお料理の話をすることで気を紛らわせていた。
 須藤さんの白いコックコートはお医者様の白衣に通ずるものがあり、無条件に安心してしまう。
 そんな私は結構単純なのだろう。
 時折、司先輩からの視線を感じ、先輩もお料理の話に混ざりたいのかな、と思ったけれど、視線が合えばすぐ手元の本に目を落とすのだから、やっぱり体調を気遣われいてるだけだったのかもしれない。
「翠葉お嬢様は本当にパンがお好きなんですね」
「……え?」
「そうだね、ここ最近パンしか食べてないじゃん」
 唯兄にそう言われてはっとした。
「あ、の……そんなこともないです、ご飯も好きです」
 ただ、お箸やスプーンを手に持ちたくないだけ、とは言えなくて言葉を濁す形になってしまう。
「では、明日はリゾットかお雑炊もお作りいたしましょうか」
「あ、あのっ――」
 困った……。
「なんでしょう?」というような視線が返され、苦し紛れに「おにぎり」と答えた。
「おにぎり?」
 唯兄が復唱して首を傾げる。
「はい……あの、梅のおにぎりが食べたい、です……」
 おにぎりなら手で食べられる。
「梅のおにぎりがお好きなのですか? 鮭やおかか、昆布はいかがでしょう?」
「あ、えと……なんでも好きです」
 でも、須藤さんの手を見て想像してしまう。その大きな手が握るおにぎりとはどのくらいの大きさだろうか、と。
 じっとその手を見ていると、
「どうかなさいましたか?」
 再度不思議そうな表情で顔を覗き込まれもじもじしていると、
「須藤さんの手だとどのくらいの大きさのおにぎりが作られるのか……」
 今までの会話にはいなかった人の声が加わった。びっくりして声の主に視線を向けると、司先輩がカウンター向こうからこちらを見下ろしていた。
「違うか?」
 訊かれて、縦に首を振る。
「どうやら当たりのようですね。大丈夫ですよ。小さいものをご希望でしたら小さめに握りますから」
 須藤さんは初めて会った日のように優しく笑いかけてくれる。
「でも、須藤さんの言うとおり。梅よりは鮭やおかかのほうがいいと思う」
 依然見下ろされたまま、司先輩に言われた。
「どうして……?」
 カウンターの中から見上げると、
「今の翠の胃の状態を考えたらそうなる。鎮痛剤の使いすぎであまりいい状態じゃないだろ。それなら酸が強い梅干よりも鮭やおかかのほうがいい。昆布は消化に時間がかかるから鮭かおかかがベスト」
「さすが、司様ですね」
「当たり前でしょー? 何年私の弟やってると思ってんのよ」
 突如、酔っ払い気味の湊先生乱入。司先輩は湊先生を見るなりグラスを取り上げる。
「須藤さん、これ、下げてください」
 どうやら湊先生と静さん、蒼兄は海斗くんを肴にしてお酒を飲んでいたらしい。
「静さんがついていながらどうしてこんなになるまで飲ますかな……」
 司先輩が零すと、
「面白いからに決まっているだろう?」
 司先輩の背後から現れた静さんが笑って答えた。
「静さんなんてだああああい嫌いっ」
 ……これはこれは、いつもの湊先生からは想像もできない状態だ。
「湊ちゃんって面白いよね~? お酒飲むと幼児化」
 いじられ尽くしたであろう海斗くんが、げんなりした様子でこちらを見ていた。
「姉さん、帰るよ」
 司先輩が湊先生を支えると、
「それはこっちで預かろう。こんなのを連れ帰ったら、司は勉強させてもらえないだろ?」
 と、静さんが湊先生を抱えなおす。
「私は上に湊を運ぶから、ここは適当にお開きにしろよ」
 その言葉に、須藤さんが最後のオーダーを取り始める。
「皆様はコーヒー、翠葉お嬢様はハーブティーでよろしいでしょうか?」
「須藤さん、私はお風呂に入るのでいいです」

 洗面所の引き出しに入っているエッセンシャルオイルの小瓶を並べ、チョイスに悩む。
 お風呂から上がったら少し勉強するし……。
「ローズマリーかな」
 ローズマリーにレモングラス。それから、ゼラニウム……。
 今回の生理痛が少しでも軽く済みますように、と願いをこめて自分が苦手とするゼラニウムを手に取った。
 お風呂から上がると須藤さんが帰るところだった。
 海斗くんと司先輩は少し前に帰ったという。
「お嬢様は長風呂なのですねぇ……」
 まじまじと見下ろされ、私は苦笑いを返す。
「須藤さん、セクハラ~。オーナーにちくっちゃおうっ!」
「若槻っ」
 須藤さんは唯兄を怒鳴りつつ、こちらを気にして「そんなつもりはまったくなかったのですが」と頭を下げる。
「わ、あのっ、全然気にしていないのでっ。私、夏でも汗をかくことが少ないので、お風呂のときにしっかり汗をかくように半身浴してるんです」
「はぁ、そうでしたか……。私がこんなに長い時間お風呂に入っていたら、きっと中で死んでます……」
「俺も……」
 そんな軽い談笑をしてから須藤さんを見送り、私は自室で勉強を始めた。

 足元にはタオルケットをかけて、ベッドに背を預ける姿勢。しかも、ローテーブルをギリギリ自分の上体の部分まで持ってきているので、ベッドとローテーブルの間は三十センチもない。けれど、今日発見した一番楽な姿勢なのだ。
 その状態で勉強を始めてどのくらい経ったころだろうか――コツン、と額に衝撃を感じて顔を上げると、目の前にふたりの兄がいた。
「翠葉、なんて状態で勉強してるんだ?」
「リィ、実は狭いとこ大好き?」
「あ……えと、好きかも……」
 さっきもカウンターの隅で落ち着いてしまったし、今も十二分に狭いスペースに身を置いている。
「とはいえ、もう十二時だよ」
 言いながら、唯兄は透明のカップを差し出した。
 ほんのりと黄味がかった緑色の液体は香りがカモミール。
「お茶飲んだら寝な?」
 蒼兄に言われてコクリと頷く。
 カップが三つあることから一緒に飲もう、ということだろう。トレイにはクッキーも乗っていた。
「ウォーカーズのクッキー……」
「リィがお風呂に入ってるとき、秋斗さんから荷物が届いたんだ。その中に入ってた」
 秋斗さん――こんなふうにクッキーの差し入れをしてくれるのは二回目だった。
 秋斗さんは今、どこにいるのだろう……。
 そんな感情を抱えながら、十分ほど三人で過ごし、三人揃って洗面所で歯磨きをしては鏡に映る自分たちを見て笑った。
「おやすみなさい」の挨拶を交わして部屋に戻ると、そのままベッドに転がりタオルケットに包まって照明を落とした。

 テスト中だというのに、私はまた関係ないことを考えている。
 もう少ししたら秋斗さんが帰ってくるかもしれない。
 少し前は傷が治るまでは帰ってきてほしくないと思っていた。傷を知られるのが怖くて。傷つけてしまうんじゃないかと思って。
 でも、本当は違うのかもしれない。ただ、怖いから、なのかもしれない。
 秋斗さんを怖いと思っているから――だから傷のせいにして、傷つけちゃうかもしれないから帰ってこられる、と困ると理由をこじつけていたのかもしれない。
 本当は――ただ、自分が秋斗さんに会うことが怖くて、同じ空間にいるのが怖くて、どう接したらいいのかわからなくて何も話せなくなってしまうのが怖くて、帰ってきてほしくないと思っていたのかもしれない。
 いなければ気になるのに、いたら困るなんて……。まるで正反対の思いに戸惑う。
 でも、やっぱり秋斗さんのことを考えるとほかが疎かになってしまう気がする。秋斗さんのことだけでいっぱいいっぱいになってしまう。
 私がなんのためにここにいるのかといえば、恋愛をするためではなく、学校に通うためだ。極力身体に負担をかけないため。
 でも、そこに秋斗さんが加わるだけで気持ちのバランスが取れなくて体調にも影響が出てしまうみたい。
 秋斗さんが悪いわけではなく、すべてを許容できない自分のせい。精神的に未熟――それ以外の何ものでもない。
 少しの出来事でぐらぐらと揺れてしまう。きっとほかの人にはそよ風くらいにしか感じないようなことでも、私にはとっては強風で――嵐みたいにゴォゴォ音を立てて風が吹く。
 ――秋斗さん、やっぱり無理です……。
 今度こそ呆れられてしまうだろう。二度あることは三度あると言うし、三度目の正直という言葉もあるけれど、この件に限っては三度目はないと思う。
 私は、秋斗さんの恋人でいることはできない。自分が保てなくなってしまうから。
 次に会えるのはいつかわからないけれど、その日にきちんと伝えよう。ちゃんと、自分の言葉で伝えよう。
 その日は泣いてもいいことにしよう。その日だけは大泣きしてもいいことにしよう――
しおりを挟む
感想 24

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

幼馴染と話し合って恋人になってみた→夫婦になってみた

久野真一
青春
 最近の俺はちょっとした悩みを抱えている。クラスメート曰く、  幼馴染である百合(ゆり)と仲が良すぎるせいで付き合ってるか気になるらしい。  堀川百合(ほりかわゆり)。美人で成績優秀、運動完璧だけど朝が弱くてゲーム好きな天才肌の女の子。  猫みたいに気まぐれだけど優しい一面もあるそんな女の子。  百合とはゲームや面白いことが好きなところが馬が合って仲の良い関係を続けている。    そんな百合は今年は隣のクラス。俺と付き合ってるのかよく勘ぐられるらしい。  男女が仲良くしてるからすぐ付き合ってるだの何だの勘ぐってくるのは困る。  とはいえ。百合は異性としても魅力的なわけで付き合ってみたいという気持ちもある。  そんなことを悩んでいたある日の下校途中。百合から 「修二は私と恋人になりたい?」  なんて聞かれた。考えた末の言葉らしい。  百合としても満更じゃないのなら恋人になるのを躊躇する理由もない。 「なれたらいいと思ってる」    少し曖昧な返事とともに恋人になった俺たち。  食べさせあいをしたり、キスやその先もしてみたり。  恋人になった後は今までよりもっと楽しい毎日。  そんな俺達は大学に入る時に籍を入れて学生夫婦としての生活も開始。  夜一緒に寝たり、一緒に大学の講義を受けたり、新婚旅行に行ったりと  新婚生活も満喫中。  これは俺と百合が恋人としてイチャイチャしたり、  新婚生活を楽しんだりする、甘くてほのぼのとする日常のお話。

男子高校生の休み時間

こへへい
青春
休み時間は10分。僅かな時間であっても、授業という試練の間隙に繰り広げられる会話は、他愛もなければ生産性もない。ただの無価値な会話である。小耳に挟む程度がちょうどいい、どうでもいいお話です。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

家政婦さんは同級生のメイド女子高生

coche
青春
祖母から習った家事で主婦力抜群の女子高生、彩香(さいか)。高校入学と同時に小説家の家で家政婦のアルバイトを始めた。実はその家は・・・彩香たちの成長を描く青春ラブコメです。

お兄ちゃんはお兄ちゃんだけど、お兄ちゃんなのにお兄ちゃんじゃない!?

すずなり。
恋愛
幼いころ、母に施設に預けられた鈴(すず)。 お母さん「病気を治して迎えにくるから待ってて?」 その母は・・迎えにくることは無かった。 代わりに迎えに来た『父』と『兄』。 私の引き取り先は『本当の家』だった。 お父さん「鈴の家だよ?」 鈴「私・・一緒に暮らしていいんでしょうか・・。」 新しい家で始まる生活。 でも私は・・・お母さんの病気の遺伝子を受け継いでる・・・。 鈴「うぁ・・・・。」 兄「鈴!?」 倒れることが多くなっていく日々・・・。 そんな中でも『恋』は私の都合なんて考えてくれない。 『もう・・妹にみれない・・・。』 『お兄ちゃん・・・。』 「お前のこと、施設にいたころから好きだった・・・!」 「ーーーーっ!」 ※本編には病名や治療法、薬などいろいろ出てきますが、全て想像の世界のお話です。現実世界とは一切関係ありません。 ※コメントや感想などは受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 ※孤児、脱字などチェックはしてますが漏れもあります。ご容赦ください。 ※表現不足なども重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけたら幸いです。(それはもう『へぇー・・』ぐらいに。)

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

処理中です...