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03. 上司の秘密

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 ……うわー。分かってはいたけど、部屋のド真ん中にダブルベットだ! 主張がすごいなぁ……。

今夜泊まる部屋に一歩足を踏み入れると、まず目に飛び込んできたのは大きなベッドだった。

木の温もりとベージュの絨毯を基調とした部屋はこざっぱりしているが、一般的なビジネスホテルのため部屋自体はさほど広くない。

ベッドの前には薄型のテレビ、窓側にはちょっとしたソファーとテーブル、そして入り口手前にあるドアから続くのはユニットバスだ。

「神崎はもう終業していいよ。俺はちょっと仕事したいから、悪いけどあそこのソファーとテーブル使わせてもらっていい?」

「あ、はい。どうぞ」

速水さんが窓側のソファーのところでパソコンを開きながら、スマホを取り出してどこかに電話をかけ始める。

もしかして奥様への連絡かなと思い、邪魔にならないよう静かに口をつぐむ。

手持ち無沙汰になりつつ、私はとりあえず入り口側のベッドの端に腰を下ろした。

入り口から死角になって見えなかったけど、こっち側にもごく小さなテーブルがあって、ホテル案内やアメニティなどが置かれていた。

「あ、中津なかつ? お疲れ。そっち台風大丈夫? ああ、帰宅命令出たのか、良かった。じゃあ1課は全員帰宅できたんだな?」

聞こえてきたのは、奥様宛ではなく、1課1係リーダーの中津さん宛の電話だった。

中津さんは私が新入社員の頃からお世話になっている直属の先輩社員だ。

どうやら速水さんはまず部下の状況確認をしているようだった。

「こっちはさすがに車での移動は危ないって判断して都内に戻るのは見合わせた。ああ、神崎も一緒。まあそうせざるを得ない状況だからな。……いや、部屋は別。当たり前だろう?」

話しながらチラリと私を見た速水さんと目が合う。

内容的にこちらのことを聞かれたのだろうが、最後に事実を誤魔化しているあたり、速水さんにとってもこの状況が不本意なことが伝わってきた。

中津さんとの通話を終えると、速水さんは続いて部長にも報告を入れていて、その後パソコンに目を向けたタイミングを見計らい私は声を掛ける。

「あの、速水さん。私ちょっと買い出しに行ってきます。確かホテルの隣にコンビニがあったので」

「一人で大丈夫か?」

窓の外を確認するように眺めた速水さんが眉を寄せる。

でもコンビニはすぐ隣だし、まだ関東に台風上陸前のこのタイミングならギリギリ大丈夫だと思った私は力強く頷いて見せた。

本音を言うと、このままじっとしているのも居心地が悪かった。

「ついでに何か一緒に買ってきますけど、必要なものありますか?」

「ブラックのコーヒーがあれば嬉しいけど、無理はしなくていいから」

「分かりました!」

フロントで傘を貸してもらえたので、財布を片手に私は外へゆっくりと一歩を踏み出す。

雨はひどいが、風はたまに強く吹く程度でまだ歩行には問題なさそうだった。

すぐ隣にあったコンビニは幸いにもまだ営業していたため、私は手早く買い物を済ませる。

予定外の宿泊だったから、1泊分のスキンケアセットや履き替え用のショーツ、キャミソールなどが手に入ったのは助かった。

その他に飲み物や食べ物、お菓子などを適当に見繕って購入する。

台風に備えてみんなが予め買い込んだのか食べ物コーナーはもうほとんどモノがなくなっていて空き棚が目立っていた。

店員さんによると、このコンビニもあと15分もすれば臨時休業に入る予定らしい。

私は運良くギリギリのタイミングでの買い出しに成功したようだった。

買い物を終えた私は、片手にビニール袋と財布、そしてもう片手に傘をさしてコンビニからホテルへの道のりを急ぐ。

もう目前にエントランスが迫っていた、その時だ。

ブォーっという轟音とともに一際ひときわ強い風が吹き抜けた。

その拍子に傘が裏返り、横殴りの雨風が一気に私の体を殴りつける。

一瞬のことだったのですぐにエントランスに滑り込みホテルの中に避難できたのだが、最悪なことに全身びしょ濡れになってしまった。

今日は取引先へ訪問するにあたりクリーニングに出したばかりのパンツスーツでビシッと決めていたけどすっかり台無しだ。

傘も壊れてしまったがもともと廃棄予定だったものの一つだそうで、特にホテルから弁償などは求められなかったことにはホッとする。

ホテルスタッフの方は濡れた私の姿を見て親切なことにすぐにタオルも手渡してくれた。

不注意な自分のせいなのに、ホテルの対応にはなにからなにまで感謝だ。

私はその場で軽く水滴を拭い、濡れて体に張り付く衣服に気持ち悪さを感じながら、もうこの後は部屋で大人しくしておこうと心に誓ってすごすごと部屋へ帰った。

「神崎、おかえり。てか、びしょ濡れだな……」

部屋のドアを開けると、さっきと同じところでパソコンに向かっていた速水さんがこちらに顔を向ける。

そして私を見るなり顔を顰めて困ったような表情を浮かべた。

なんていうか憐れまれている感じがする。

「あ、これペットボトルですけど、ブラックのコーヒーです」

「ああ、悪い。ありがとう」

窓側へ歩み寄り、ビニール袋から取り出したペットボトルを手渡す。

速水さんは受け取りながら、ポケットから財布を取り出してお金を払おうとしてくれる。

ずっと運転してもらっていたし、ここのホテルもとりあえず払うと言って出してもらっていたので、私は丁重にお断りした。

これくらいは日頃お世話になっている身としては安いくらいだ。

「あと適当に食べ物やお菓子も買って来たので、良かったらどうぞ」

「そういえば小腹減ってきたな。……もう6時過ぎか。それより神崎、まず風呂入れば? そのままだと風邪ひくだろうから」

「お風呂ですか……」

正直気持ち悪いから入りたいものの、同じ部屋に速水さんがいるのに入りづらい。

 ……別に速水さんが変なことをしてくると疑っているわけじゃないんだけど、なんとなく気が咎めるというか、ね……。

じっと立ちすぐんでいるとクーラーの冷風が肌を撫で、体がぶるっと震えた。

同時に小さなクシャミが出てしまう。

すると見かねたように突然その場を立ち上がった速水さんは、そのままユニットバスの方へ行き、なにやら作業をし始めた。

ほどなくして蛇口から水が出るような音が耳に飛び込んでくる。

直後、ユニットバスの方から出て来た速水さんは私を見て言った。

「風呂にお湯ためてるから、たまったら入って。これ上司命令ね。風邪ひかれたら仕事にも影響でるし。分かった?」

「……分かりました」

そう言われてしまうと、なんとなく気が咎めるとも言っていられない。

大人しく首を縦に振り、お湯がたまったタイミングで私は先にお風呂に入らせてもらうことにした。

ユニットバスだから肩まで浸かれるくらいのお湯を張ると溢れ出してしまうため、家で入る時より少なめのお湯だ。

それでも濡れた服を脱ぎ捨てて、お湯に浸かると体が温まり心がほぐれていく。

とはいえ、このさほど広くない同じ部屋の中に速水さんもいるのだと思うと変な気分だ。

 ……まさかお昼に会社を出た時はこんな展開になるなんて想像もしてなかったなぁ。ていうか、致し方ないとはいえ、本当に速水さんの奥様に申し訳ないよ。たぶん私が買い出しに行ってる間に電話したんだろうけど大丈夫だったのかな? 仲の良いお二人の関係に波風立てたくないんだけど……。

私に弁明する術はなく、もはや祈るばかりだ。

世の不倫をしている人たちは、よく平気でいられるなとつい思ってしまった。

しばらくお湯に浸かって体の芯から温まった私は、お風呂から上がって手狭な洗面スペースで着替えをする。

手に取ったのは、先程コンビニで買っておいたショーツとキャミソールだ。

さっきまで身に付けていたものは濡れて一式ダメになってしまったから、コンビニで購入しておいたのは本当に英断だった。

その上にホテル備え付けのガウンタイプのパジャマを着用する。

 ……いつもながらに目立つなぁ……。

着替え終わって自分の体を見下ろすと、思わずはぁとため息が出た。

何が目立つかって、それは私の大きな胸だ。

ガウンは前開きの服を紐で結んで留めるもののため、どうしても谷間が覗いてしまう。

それに胸元がはだけやすいのも気になった。

よく同性からは「胸が大きくて羨ましい」と言われるけど、実際のところ今まで得したことなんてない。

むしろ私にとってはコンプレックスだった。

肩が凝るし、服のシルエットがおかしくなるし、男性にいやらしい目で見られるし、体目的の人が集まってきやすいし。

そのうえ、私は童顔で背も低めだから、大学生の頃は”ロリ巨乳”と陰で男性に呼ばれていたらしい。

一定数そういう趣味の人がいるから、痴漢にも遭いやすかった。

 ……普段は矯正下着付けて、できるだけ隠すようにしてるけど、濡れちゃって乾くまで着れないし、しょうがないよね。速水さんは胸を見てくる人じゃないから、きっと大丈夫!

自分を励ますようにウンウンと頷くと、そのまま洗面スペースで髪を乾かす。

最後に身支度を鏡で確認してから、私はユニットバスから部屋の方へ出た。

速水さんは仕事がひと段落したのかパソコンを閉じていて、代わりにテレビが付いている。

ソファーのところに座ったまま、台風情報を見ているようだった。

いつの間にかスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイも外されていてシャツ姿だ。

完全にオフモードという雰囲気が漂っていて、なんだか見てはいけないものを目にしている気がしてくる。

「た、台風、どうですか?」

気まずさを感じ、私は慌てて、場の空気を和ませるように速水さんに声を掛けた。

が、その声は上擦っていて、緊張しているのが丸分かりだ。

「今夜中には通り過ぎるみたいだから、明日の午前中には車で帰れそうだ」

「そ、そうですか。良かったです」

ふぅと安堵の息を吐き出す私に、テレビから視線を移した速水さんはそこでなぜか妙に真剣な顔でこちらを見てくる。

そして改めてという感じでおもむろに口を開いた。

「あのさ、神崎が男苦手でこの状況に困ってるのは理解してるけど、本当に俺のことは気にしなくていいから」

「えっ、あの……」

「絶対間違いは起きないって保証する。そういうこと警戒してるんだろう?」

「それは確かに警戒してないって言ったら嘘になりますけど……」

「それなら安心して。俺、勃たないから」

「えっ……?」

サラリと放たれたその言葉は、一瞬何のことを言っているのか分からなかった。

 ……タタナイ? 立たない? 断たない?

聞いた音を脳内で様々な書き方で変換する。

ようやく速水さんが口にしたのがなのだと理解が及んだ時、今度はその事実にビックリした。

つまりそれが意味するところは、男性器が勃起せず性行為が行えない状態、いわゆるEDだということだ。

 ……え、でも奥様とはどうしてるの? 愛妻家ですっごく仲良いはずだよね。セックスなしでも良好な関係を築けるってこと?

その話を聞いて咄嗟に速水さんの奥様のことが思い浮かんだ。

同時に私はセックスが怖くてしたくないから彼氏を作ることを諦めているのに、なしでも夫婦関係を築いている人もいるのかと僅かな希望が湧いてくる。

「これで安心した? 勃たないから物理的にできないし、男ではあるけどある意味めちゃくちゃ安全ってわけ。……こんなこと人に言ったことなかったけど、あんまりにも神崎の肩に力が入ってるからつい口走ってた。できれば他の人には隠しておいて欲しいんだけど。言いふらされたくはないし」

どうやら本当に当初は言うつもりはなかったらしい。

速水さんは困ったような顔をして頭を掻いた。

「あの、一つ質問していいですか?」

「え、質問? 勃たない件で?」

自分の参考になるかもと思って私がそう切り出すと、質問されるとは予想をしていなかったらしい速水さんが目を瞬いた。

構わず私は言葉を続ける。

「それに関連して、という感じです」

「関連? ……とりあえず聞こうか。なに?」

「えっと、速水さんがその状態になったのって、奥様とご結婚される前、ですか?」

「ああ、そのことね」

私の質問を耳にすると、速水さんは早々に興味を失ったようだ。

そしてなんてことないように、ごくアッサリと驚きの一言を口にした。

「俺、独身で結婚なんてしてないから」

前提をひっくり返されるような、先程以上のビックリする事実に私は目を見開く。

 ……え、速水さんが独身⁉︎ でも、じゃああの指輪は⁉︎

思わず左手の薬指に光る指輪に目を走らせた。

それに気づいたのか、速水さんは「ああ」とつぶやきながら指輪に触れる。

「これ? これはただの指輪。たまたま左手の薬指にしてるだけ。まあ、分かりやすく言えば女避け」

「お、女避け、ですか。でも長年付き合った彼女さんとご結婚されたっていうあの噂は……?」

「それはたぶん数年前に付き合ってた元カノのことかな。別れた後くらいから面倒になって指輪付け出したから。そしたら周囲が勝手に勘違いしたみたいで、俺もそれを積極的に否定しなかったんだ。都合良かったしね」

速水さんから飛び出す言葉はどれも想像もしていなかった事実ばかりだ。

この事実が速水さん周辺の社内外の人たちに知れたらひと騒動起きそうである。

「あ、これも流れで思わず話してしまったから、悪いけど神崎には黙っておいて欲しい」

釘を刺すように言われ、ちょうど起こりうる騒動を頭で思い描いていた私は、勢いよく頷いた。

今、指輪効果で諦めている女性たちが一斉に速水さんに群がると、大変なことになりそうなのは容易に想像できた。

「逆に俺からも神崎に聞くけど、なんで勃たなくなったのが結婚前かどうかなんて知りたかったの?」

「それは……もしそうだったら、どうやってそういう行為なしで恋人関係を維持して結婚まで行けたのかなぁって参考までに伺ってみたくて」

「やけに具体的だな。もしかして神崎の好きな男が俺みたいに勃たない男だとか?」

「いえ、そうではなく。その、私がしたくなくって……!」

速水さんから問いかけられたことに、私は言葉を絞り出すようにして答える。

その時だった。

自分が言葉を発したその瞬間、同時に天啓のように私の脳裏にはある素晴らしいアイディアが閃いた。

まさに電撃が走るように突然ビビッと降ってきたのだ。

それは考えれば考えるほど、とても良いアイディアのように思えてならない。

あまりにも天才的でナイスな思いつきに、にわかに私の心は浮き足立つ。

 ……待って、待って! 焦っちゃダメ! まずは諸々確認しなきゃ!

突然降って湧いてきたアイディアに気持ちは急速に高揚し、はやる気持ちを抑えつつ私は改めて速水さんを見つめた。

「あの、確認ですけど、速水さんって、既婚者じゃなく独身で、性的に不能なんですよね?」

「? そうだけど?」

「それは特定の人にだけ反応しないんですか? それとも誰に対してもですか?」

「誰に対してもだけど?」

「ちなみに彼女はいらっしゃるんですか?」

「いないよ」

「欲しいとか思われます?」

「こんな指輪するくらいだから、それの意味するところくらい神崎も分かるんじゃない?」

突然詰め寄るように立て続けに質問をし出した私に、その意図が見えない速水さんは不可解そうに眉を寄せる。

だが、私はそんな様子にはお構いなしで、自分に芽生えたアイディアに内心興奮していた。

 ……いた! いた! いたっ! 速水さんこそ、私が探していた理想の人にピッタリだ!

高ぶる気持ちを抑えきれず、勢いのまま速水さんに近寄り、私は彼の手を思わずギュッと両手で握り締めた。


「速水さん! それならぜひ、ハフレとソフレになってくれませんか⁉︎」

「…………は?」


強い雨風が窓ガラスを叩きつける中、室内ではテレビから流れる台風情報のニュースの音、私の嬉々とした弾む声、そして速水さんの呆気に取られたような声だけがその場に響き渡った。
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