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最終章 その日の空は蒼かった
葛藤の行く末。 蒼穹に祈る、エスカリーナの帰還。
しおりを挟む石化したエスカリーナを前に、祈り続けるシルフィー。 無事の帰還を祈り続けるシルフィーは、既に忘我の領域に達している。
それを見詰めるのは、ラムソン。
第十三号棟で出逢い、長い時を一緒に暮らした、エスカリーナ。 彼女との暮らしの中での一齣一齣が脳裏に流れる。 このまま彼女を失ってしまうのではないかと云う危惧が、胸の中に押し寄せ、どうしようもない憔悴感を覚えていた。
” 止めるべきであった ”
今となっては、遅すぎるその判断。 天空が黄金の光に満たされ、カーテンのような特徴的なエスカリーナの魔法が幕となって、このパエシア一族の揺籃の聖域を過ぎ去り、そこここに有った穢れを、一瞬の内に浄化していった時は、心に歓喜が這い上がっていた。
そう、あの規模の魔法陣ならば、我らが故郷である大森林ジュノーの跡地を全て浄化しきれるかもしれないと、本能が、魂がそう、叫んでいたからだった。
しかし……
続く巨大な揺れと、揺れ動く空間の気持ち悪さ。 そんな中でも、シルフィーは一心に石化したエスカリーナの傍に侍り、帰還を祈る跪拝の姿を崩そうとはしなかった。
そんな彼女とエスカリーナを護るべく、周囲に気を張り巡らせていた為であろうか、本来ならば感知出来ないような微小な揺れにまでラムソンの感覚は捉えてしまった為であろうか、それに続く現象が、彼の鋭い感覚を掻き混ぜたのかもしれない。
内臓がひっくり返るようなそんな悍ましい感覚がラムソンを貫く。 余りにも、あの『大召喚魔法陣』に近い場所が、より大きく彼を揺すぶったのか。
その気持ち悪さの中、彼は聞こえた。 彼の耳は空間の狭間に、エスカリーナの声が届いた。 いや、そう思っただけかもしれない。 切れ切れに、誰かと会話するエスカリーナの声。 最初は、何かの間違いかと、自分の耳を疑った。
しかし、その声は確かにエスカリーナの声音。 聞き間違う筈は無い。 凛と張った、心に届くその声は、まさしくエスカリーナ…… 薬師錬金術師リーナのモノであったと、そうラムソンは信じている。
切れ切れに…… そう、全てが聞こえた訳では無い。 揺らぐ空間が、細切れに繋ぐ本当に微々たるエスカリーナの声。 その声が告げるのだ。
” 私は…… 私に…… 何が起こったのですか? それに、此処は? ”
” なにか…… 悪い事が ”
” ……皆は…… 皆は無事 ”
” ……刻が進んだ…… ”
” わたくしは…… これから…… ”
” 現界に…… 現界に私として還る事は出来ないと? そう…… ”
” ……約束を果たしたい ”
” ……皆の元に還りたい ”
” 待ちます!!! ”
その言葉が本当に彼女の口から出た『言葉』ならば、彼女はもう彼女自身の力では、自分たちの前には……
―――― 戻ってこれない。
心を埋め尽くす黒々とした想い。 第十三氏族の生き残りとして、最後まで『伝説の魔術師』に付き従う『守命』為に受けた、この命。 それを手放して、見送ってしまった、己の力不足…… 心の底から悔いた。 もっと…… もっと『力』が有れば…… 同道で来たのにと。
―――― 周囲の刻が急速に進む。
エスカリーナの使う『闇魔法の禁呪』とは違う、何か別の力が働いている。 術式ならば、その痕跡が追える。 しかし、そんなものは何処にも無く、途切れてしまった彼女の声が何処から聞こえてきたのかも定かでは無い。
無力感が、脱力と成って、彼を襲う。 巨木に成長した、リーナ秘蔵の『魔法の杖』 樹人 パエシア族の姫、シュトカーナ様の依り代たる『その枝』は、今や巨木と成り、石化したエスカリーナをその根の元に包み込むように聳え立つ。
洞の裂け目の様な細い亀裂が、辛うじて外に通じ、光を差し込んできている。 よって、漆黒の闇とはなってはいない。 一筋の光は石化したエスカリーナに差し込み、動かぬ彼女の姿を美しく浮かび上がらせるばかり。
刻の進みは、生きとし生けるモノには作用しないのか、自身の体にはなんら影響は無かった。しかし、石化し、仮死状態のエスカリーナは、『生きてはいない』。 つまりは、石化したリーナは途轍もない刻をその身に受けてしまったと云う事。 繊細な彫刻のような彼女の姿。 しかし、その姿は膨大な時間を経た彫像の様に、端々が欠け 微細な|罅【ひび】が、全身に走ってしまっていた。
もし…… 我らが望むように、彼女の魂が此処に帰還できても、あの体では持たない…… 石化が解け、生体に戻れたとしても、その身は刻が進んだ傷跡を受けてしまっている。 帰還できなくとも、たとえ帰還しようとも…… 自分たちがエスカリーナを失ってしまう事が……
――― ラムソンには、理解できてしまった。
泣きたかった。 慟哭上げ、拳を大地に叩きつけ、己の無力を呪い、献身に身を投じたエスカリーナを救えなかった精霊様方や、大森林ジュノーの守護者たるシュトカーナを罵り、恨み、呪いたかった。
しかし…… それは、出来なかった。
目の前で、【|保全魔法「プリザーブ」】を掛け続けるシルフィーの姿を視界に収めたからだった。 刻の暴走に抗う様に、少ない体内保有魔力を投げ出し、薬師錬金術師リーナから教えを受けた、シルフィーにとっては不得手な『魔法』を必死に紡ぎ出し、なんとか、崩壊を押し止めようと……
ラムソンは、シルフィーの瞳に『狂気』を見る。 なりふり構わぬ、彼女の魔法に『狂信』を見る。 エスカリーナ帰還無くして、シルフィーの心も戻ってこない。 彼女の心は、今もエスカリーナと共に居るのだと…… そう理解した。
自信の拙い魔法を、シルフィーのそれに合わせる。 【保全魔法】は、知らない。 しかし、【防御魔法】ならば、知っている。 だから、全身全霊を魔法に込める。 ちらりとシルフィーの視線がラムソンを捕らえた。 冥く、感情に乏しい瞳だった。 それでも尚、一縷の希望を抱いて、シルフィーは魔法を行使し続ける……
どのくらいの時間が経ったのか……
強烈な揺れは収まり、当たりが静寂に包みこまれた。 目の前に有るのは唯、朽ち石化したエスカリーナの姿。 洞の外から差し込む弱弱しい光が、その姿をぼんやりと照らし出しているばかり。
膝から崩れ落ちた二人は、その前に跪拝し…… ただ、ただ…… エスカリーナの魂の平穏を祈るばかり…… 昏い、光の無くなった目で、静かに…… 沈黙を守りつつ…… 祈る相手は誰でも無い……
エスカリーナにのみ…… 捧げられる、祈りであった。
――― § ―――
感覚が無くなりそうなラムソンの耳に、草を踏む音が聞こえた。 彼等の背後から差し込む、外の光は一度も遮られた事は無く、その足音は洞の奥からのモノだった。
密やかに、確かめるような足音。
やがて、漆黒の闇に包まれていた、洞の奥から仄暗い石化したエスカリーナの所へとその足音が届く。 ぼんやりとした輪郭が、ラムソンとシルフィーの目に浮かぶ。 シルフィーの方が暗闇を見通せる瞳を持つ。 そんな彼女の目は、昏く沈んだものから、驚愕へと変化する。
「お、お前は…… 誰だッ!! リーナ様の形を写した妖魔かッ!!」
闇に沈む洞の中に響き渡る、シルフィーの鋭い叱責の様な誰何の声。 ラムソンの目にも、洞の奥からやって来たモノの姿がようやく瞳に映る。
シルフィーの云う通り、美しい相貌はまさしく、エスカリーナそのもの。 長く流れる髪は、銀灰色。 その上、弱弱しい光を反射する瞳は…… 群青色。 しかしラムソンには、途轍もない違和感があった。 彼の知るエスカリーナの様な、常に浮かべている筈の微笑みは一片もその相貌に浮かび上がる事は無く、慈愛に満ちた視線は、冷たく周囲を睥睨するのみ。
ラムソンにもシルフィーにも一切の興味を示さず、ただ、石化したエスカリーナを視界の中心に捉え、凝視している。 シルフィーの誰何にも、なにも答えないその者……
長いローブの様な服を着こんだその者の姿にも、違和感を覚えるラムソン。
背が高すぎる……
何より、自分よりも強固な体躯をそのローブの下に隠していると、そう看破する。 それに、醸す雰囲気は女性のモノでは無い。 いくら、シルフィーが力を秘めた暗殺者であっても、その醸す雰囲気までは変えられるモノでは無い。 つまり、この不審な者は……
―――― 男?
エスカリーナの外見を持つ、不審な男はようやっと、ラムソン達に視線を向ける。
「エスカリーナの『魂の器』か?」
「誰だッ!!」
「何故…… 石に成っている。 どう見ても、生体では無い。 石化の魔法…… か…… 成程な。 そうやって、仮死化し、魂を肉体から分離したと云うのか。 無茶な事を……」
一人心地に呟く男に、シルフィーが激昂する。
「何者だッ! リーナ様に近づくなッ!! 御帰還が出来なくなるッ!!」
ふむ、と頷くその男。 その男も又、今のエスカリーナ様が、非常に脆い状態なのを『理解』している様子が手に取るように判った。 さて、どうしようかと云う様な、表情を浮かべる男の背後から『尊き方』の気配が流れ来る。
強烈な精霊の息吹が盛り上がり、辺りを圧し、息が詰まるような神聖さが洞の中に広がり、そして『皆』を包み込む。 樹勢を増し、内包する『力』を大きく増大せしめたパエシアが姫、シュトカーナ様が、その姿を現したからだった。
足元には、妖精族の五人。 走り出した彼らは、石化したリーナの元に近寄り、【保全魔法】を展開し始める。 これ以上、決して何も失うまいと…… そう、祈りを込めて……
「ラムソン。 シルフィー。 手を放してしまった。 エスカリーナはまだ、幽界に囚われている。 彼女自身の力で帰還する事は叶わない。 エスカリーナは、帰還の道を…… 失ってしまった」
「あの場所から…… 脱せなかったのか?」
男が鬱そりと、言葉を紡ぐ。 申し訳なさそうな表情を浮かべたシュトカーナは、後悔に満ち満ちた声音で、その問いに応える。
「ええ、そうです。 カイト殿。 わたくしの力及ばず…… ですが、最後に見た時には、あの刻の暴風の中で、次元の裂け目に飲み込まれ、幽界に押し込まれ、囚われたたと…… そう見えました」
「そうか…… 狭間の地に飲み込まれたか…… しかし、アノ時は、それしか彼女の魂を保全する方策は無かったのだろうな。 次元震の最中では、小さな魂など吹き飛ばしてしまう。 きっと、精霊様方が持てる権能の内側で出来るだけの事をしたと云う事だ。 シュトカーナ。 囚われたのではない。 消滅の危機を回避する為、彼女の『意思』を定める為に誘われたのだよ。 きっとな…… あの場所は辛き場所だ。 自身が誰か…… 自身で存在を定義できなければ、容易に魂は、霧散する。 あの場所に於いては、待避所が必要だ。 魔人には、『書斎』があった。 しかしなぁ…… なにか…… エスカリーナには、そんな物が有るのだろうか? 精霊様方が、彼女を幽界に保護したと云う事は、何かしら……」
難しい顔をするシュトカーナ。 幽界の情報など、人族や獣人族の間に有る訳が無い。 どんなところなのかも定かでは無い。 唯一長き時を生きる樹人族の過去の記憶に小さくあるだけ…… そんな、心もとない情報の中に、待避所などと云う物は存在していない。 ……深く、悔恨の表情を浮かべるシュトカーナ。
「魔人が何か残していればよいが…… いや、アイツは全てを持ち帰ると云っていた…… 早急に迎えに行かねば、魂が磨滅し消滅するぞ」
「判ってはいるのです。 しかし、エスカリーナは心強き者。 そう易々とは……」
「判っていないのだな。 あの場は…… 狭間の地は、そんな容易い場所では無い。 魔人からも聞いている。 アレも、アレの家ごと召喚されて居なければ、持たなかったと、そう零していた。 時は限りなく…… 短い」
ラムソンは目の前の光が消えていくような気がした。 高位の…… 準精霊とも云うべき樹人パエシア一族が姫が、難しいと云う事柄。 何より、幽界という世界を全く知らぬ彼にとっては、なにをどう対処すべきかも定かでは無い。
時は刻々と刻まれて行く。
そして、その進む時間は、敬愛するエスカリーナを無間の闇に徐々に亡失させて行く。 絶望が彼の全身から力を抜く。 崩れ落ち蹲るラムソン。
同様にシルフィーも、その身を慟哭に任せ、魔力枯渇による体力低下で暗い草原に横たわっている。 口にするのは、『リーナ様、リーナ様……』との、彼女の名のみ。
「異界の魔人から何か受け取ったかって? なんかあったぞ? せやろ、レディッシュ」
「せやね。 たしか、こんくらいの、大きさの『箱』やったかしら? この兄さんに逢う前に、廊下で魔人さんに渡され取ったね」
彫像の様なエスカリーナに魔法をかけ続けている妖精族の二人が、そんな事をこそこそと話し始めた。 カイトがそんな二人に感情が無い視線を向け、問い掛ける。
「箱? 十二面体の箱か?」
「せやね。 よう知らんけど、直ぐにリーナの中に入ったんよ。 アレは、魂に刻み込まれる類のもの遣ったんちゃうかな?」
「……一面に扉があったなら、その扉に魔力を注いでいたなら、まだ可能性はある」
「ほえぇ? 何のこっちゃ?」
「十二面体の箱は魔人の『仮想書院』だ。 長い時を『狭間の地』で過ごすアイツは、その時間さえ有益に使った。 己の知識と知恵を全て書籍化し、『仮想書院』に収めていた。 思索を深化させ、世界の理を見る。 次元の狭間と云う特異な場所に於いて、観測できる両方の世界の事象を、調べ、比較し、考察し、記録した。 あぁ、そうか…… アレを彼女に渡したのか…… 魔人とって、あの頸木から解き放ってくれた彼女に対する、最大の『御礼』の品という訳か。 よくやった! 魔人よ、よくやったぞ!! アレなら、アレならば、彼女は大丈夫だ。 あの中に居る限り、彼女は彼女であり続けられる」
突然、無表情だった男が破顔した。 最も懸念される、エスカリーナの魂の亡失。 それに対し、可能性の光を見たと、カイトは云う。 シュトカーナも驚きに目を見開く。 突然の言葉の数々に、良く理解できては居ないようだった。
「『仮想書院』の中には、それこそ膨大な量の書籍が収蔵されている。 一冊読むにしても、それを理解するには相当な時間を要する。 何もない白い空間である「狭間の地」に於いて、自分を定義する事は難しいが、アレの中に入れば彼女の事だ、きっと、精読に努めるさ。 それだけの知識があそこには収蔵されている。 何より、あそこなら、私は知っている。 何度も魔人と同道しては行った事もある。 狭間の地に入りさえすれば、その位置は容易に特定できる。 ……問題は、どうやって狭間の地に向かうかだけだ」
「えっ、判るのですか? エスカリーナの居る場所が」
「あぁ、断言する。 彼女の手に『仮想書院』が有るのならばな」
深く、頷くカイト。 確かな手段を手に入れたと云う様な、そんな力強さすら感じる彼の表情に、シュトカーナは思わず笑みを浮かべる。 しかし、懸念事項はエスカリーナの魂だけでは無い。 その魂の器たる、彼女の石化した肉体の継時劣化も無視する事は出来ない。 その事に思い至った時、シュトカーナの表情は曇る。
「リーナの…… 魂の器は、時の流れを受け、大きく傷を受けています。 たとえ魂が戻っても……」
「そんな事か。 シュトカーナ。 私が入っていた、『揺り籠』を此処に持ってこれるか?」
「ええ、まぁ…… どうしますの?」
「『石』では無理だが、どうにか、生体に戻せば、アレの中に入れる。 アレはいうなれば、肉体の再構築の為の培養槽だ。 私の体はエスカリーナの遺伝情報を元に作り上げられている。 ならば、オリジナルの彼女だ。 問題は何処にも見当たらない。 欠損していようとも、機能停止していようとも、再構築するのだからな。 問題は、彼女の『石化』をどうするかだけだ」
「カイト殿…… それは、誠ですかッ! この地は「闇の魔力」が大変に濃い場所。 肉体の生成は、強く「聖なる魔力」に依存します。 魔力の相対消滅が起こってしまうッ!」
「魔力の相対消滅? いや、それは無い。 あの『揺り籠』は、魔人がこの世界の理を以て紡ぎ出した部品を元に、純然たる私が居た世界の知識にて組み上げている。 魔力の介在は無い。 時間は掛かるが、この場所に余計な魔力を持ち込む事は無い」
「そ、それはッ!!」
「あぁ、そうだ。 魔力では無く、知識と知恵の産物。 そして、それを稼働できるのは、この世界では私だけだ。 エスカリーナ以外に使うつもりは無い」
次々と明かされる事実。 打ちひしがれていたラムソンとシルフィーは、項垂れていた顔を上げ、カイトを見詰める。 希望の光を灯したランタンを手に持つ、優れた『隠者』の様な…… そんなカイトを、見詰め続けていた。
「整理しよう。 まずは、彼女の魂。 エスカリーナの魂は、「狭間の地」に有る。 彼女は魔人から『仮想書院』を貰っている。 アレの使い方は、魂に刻み込まれたと考えられる。 なにせ、魔人の事だから、その辺りは抜かりないだろう。 ならば、彼女の魂は、『仮想書院』と共にある。 私が「狭間の地」にさえ行ければ、その位置を私は知る事が出来る。 次に彼女の肉体。 エスカリーナの魂の器は、時の流れを経て、大きく傷んでいる。 が、此処には、私と魔人とで作り組み上げた、『揺り籠』がある。 遺伝情報を含む一切は、私の体を作り出すモノではあるが、そのオリジナルはエスカリーナのモノ。 変更点は私が知っている。 運用方法も魂に刻み込まれている。 よって、彼女の魂の器は、石化が解け生体に成れば、、『揺り籠』にて復活出来る」
指を折り、数える様に希望を綴るカイト。 その場に居た者達の、昏く沈んだ瞳に、光が灯る。
「問題点は二つ。 一つ目はどうやって彼女の『石化』を解くかだ。 私が持つ彼女の記憶には、その情報は有るが、私には魔術の素養は無い。 魔法を行使する事は、今現在出来ない。 簡単な、『モノの生成』は、魔人に手ほどきを受けたが、『魔法』は無理だ。 元居た世界には、魔法が無かったからな。 リーナの記憶に照らし合わせてみれば、私など初級魔法すらおぼつかぬよ。 二つ目。 私は「狭間の地」に向かう方法を知らない。 あの地は特異な場所でもある為に、この世界にはその情報すら限られていると云える。 エスカリーナが渡してくれた、この世界の『常識』とやらにも、『狭間の地』の事に付いては、ほんの断片的な事柄のみだった。 ……私の方が良く知っているくらいだ。 そして、渡る方法は、その概念のみが、記録されている。 『 生命を保持したまま、魂が肉体を離れる時、その地に至る 』 とな。 エスカリーナが無茶をしたのも、その概念を具現化した結果に過ぎない。 誰か、もっと良い方法を知る者が居れば良いのだが…… シュトカーナ。 石化に付いては、如何にかできないか?」
カイトの言葉。 安堵と不安。 希望と絶望の狭間。 微かな希望の光を向こうに、黒々とした障害がその前に横たわるのを感じている、その場のモノ達。 一様に深く考え込んだ。 シュトカーナは口を開く。
「エスカリーナの行使するのは、高度な「魔法」 わたくし達『森の者』は「魔法」には明るくありませぬ。 精霊様の息吹を感じ、精霊様方の使命を遂行する為に、助力嘆願し奇跡を成す『精霊魔法』が強く受け継がれおります故…… 見る事は出来ますが、行使するのも解除するのも、不安が有ります。 また、エスカリーナの魔法には、色々な誓約事もかけられております故、精霊様方の奇跡すら良く通りませぬ。 エスカリーナの研鑽はそれ程の深度に達しております」
紡ぐ言葉に、悔恨が滲む。 「精霊の愛し子」たるエスカリーナ。 まして、人族から『原初の人』と成ってしまった彼女に、常識は通用しない。 深く溜息を付くシュトカーナ。 沈黙がその場を占め、天秤が『絶望』が傾きつつあるその時、ラムソンの口が開く。
「この状況に…… 障害を取り除く事が出来る人物が一人…… 思い浮かぶ。 リーナの石化を解き、「狭間の地」へ向かう為の術式を編める者。 強い意思の持ち主にして、リーナを姉妹と呼ぶ…… 『光の魔力』保持者と云うのが、少々気にかかるが、アイツの事だから、どんな濃い「闇の魔力」の空間にも、飛びこんで来る事は出来よう。 しかし……」
「ダメよ、ラムソン!! アレは、アレだけはいけない。 ニトルベインの魔女を呼び出すなんて、正気の沙汰では無いわ!! 色々とあったけど、アイツはリーナを、リーナを都合よく利用しただけよッ! 何を考えているか、判ったものじゃないわッ!!」
二人の森猫族の男女の言葉に、興味を示すカイト。 そんな興味深げな視線を受け、ラムソンは続ける。
「あの魔女は、この森を焼いた人族の賢女の愛弟子でもあるな。 リーナも又あの賢女の弟子でもある。 シルフィーが云う事は、よく判る。 それに…… カイト…… だったな。 あんたの事も信用できない。 あんたの云う事は、いちいち尤もな事だが、その証拠が何処にある? 全ては言葉でしかない。 今もこの瞬間に、リーナが自力で戻ってくるかもしれないんだぞ?」
ニヤリと顔に笑みを浮かべるカイト。 その言葉を聞いて尚、心地よさげに彼らを見詰めている。 ゆっくりと、吐き出すように言葉を紡ぐ。
「そうだな、『言葉』だけだ。 その考え方、悪くない。 あぁ、悪くないな。 全てを疑い、エスカリーナを護ろうとしているのが、良く判った。 自力……か。 エスカリーナにその力が有れば良いのだが、そうも云ってはいられないんだよ、ラムソンとやら。 「狭間の地」は、甘くない。 一旦途切れてしまった、帰還の道は、二度とは戻す事が出来ないのだよ。 良く聞けラムソン。 あの地に存在できるのは、『 生命を保持したまま、魂が肉体を離れる時、その地に至る 』者だけなのだ。 魂と肉体の繋がりを失った者は、三つの道を選ばざるを得ない。 一つ、遠き時の輪の接する処に向かう。 一つ、霊体としてこの世界に舞い戻る。 一つ、自身の魂の亡失を賭け、『狭間の地』に留まり救出を待つ。 自分が自分として、この世界に舞い戻るには、三つ目を選ばざるを得ない。 強く…… そう、強くこの世界に帰りたいと願うならば、それしか道は無い。 ラムソン、エスカリーナの誓いは、軽い物なのか?」
言葉に詰まるラムソン。 何より、誰よりも、エスカリーナの「為人」を知る彼は、皆と結んだ「約束」を、必死に守ろうとするエスカリーナの心情が手に取るように理解できる。 理解できてしまう程、彼は近くに居た。
その事をカイトに指摘され、悔しく、ただ、ただ、唇を噛みしめるラムソン。
「でもッ!! あの女に、助力を乞うなんてッ!!」
悲痛な叫びの様なシルフィーの声。 しかし、ラムソンは静かに言葉を吐き出した。
「葛藤は俺にも有る。 シュトカーナ様もカイトの言葉に何も云わない所を見ると、それが事実なんだ。 シルフィー、カイトの云う事が本当なら、もう縋る相手はアイツしかいない。 忌まわしの賢女の弟子、小賢女ティカ。 こちらの要請に応えてくれるかどうかも判らない。 このまま見棄てらるかもしれない。 なにせ、「人族」だからな。 しかし…… しかし…… 俺には、アイツしか思い浮かばない」
「ラムソン……」
涙を浮かべながら、憤りを隠しもせずラムソンを見詰めるシルフィー。 最後の最後に来て…… 森が…… 大森林ジュノーが再生され…… 世界の崩壊すら押し止められた、この時に於いて…… 誰よりも頼りたくない相手に、敬愛する主人の命を託さねば成らない…… その想いが、彼女をして、怒りを覚えさせていた。
自身の力不足をまざまざと見せつけられる思いが、シルフィーの心を埋め尽くす。
シルフィーの目には、行き場の無い『怒り』が浮かび上がり、その視線はカイトへと…… 向かう。 そんな強烈な嫌悪を害意を含んだ視線を、涼やかに受けるカイトは、若干目を細めながら、シルフィーを見る。 視線は上から下へと。
何かを探るような、そんな視線。
今にも暴発しそうな、シルフィー。 手が震え、爪が出そうになっている。
「シルフィー=ブレストン。 首筋の機能を果たしていない「隷属の印呪」は、エスカリーナへの忠誠の証か? そんなものを背負うお前を、エスカリーナは良く許していたな」
「何ッ!! 何故、我が名を! それに、忠誠の証って!!」
「あぁ、そうか。 その徴を付け続けていなければ、ファンダリアではリーナの傍に居れなかったと云う事か。 ラムソンもそうなのか…… なんとも、云えないな。 そうだ、ラムソン。 お前、私の言葉に信用が置けぬと云っていたな」
「あぁ…… そうだ」
「ならば、その信用を得るために、二人に私の業の一つを成そうか。 帰還が叶ったエスカリーナも喜ぶからな」
そう云うと、カイトは手に錬金魔法陣を浮かべる。 周囲を見回し、『時の暴虐』に耐えかね、崩れ落ちたエスカリーナの『馬車』の在った場所へと足を向ける。 ボロボロに朽ちたキャリッジの後ろ側。 荷台に有った箱型の特別な場所。
今は、薬草が伸び放題に成長し、魔石が散乱したそんな場所。 カイトは無造作に一掻き、一掬い、それらのモノを手に取り、錬金魔法陣に投入する。 軽やかな音が、洞の中に広がる。 ぽとりと魔法陣から落ちるモノ。 手に取り、じっくりと見詰めて一つ頷くカイト。 どうやら、【完全鑑定】を為していると、ラムソンは思う。
「さて、ラムソン。 お前の血を一滴貰う」
「何をする」
「その首筋の証を、昇華する。 深くに根付いたモノだが、先程云った、『再生』を使って、取り去るよ。 その為には、元と成る遺伝情報が必要なんだ。 血を一滴、この皿に」
そう云うと、目の前に小さな皿が差し出される。 皿と、カイトを交互に見詰め、やがて溜息と共に「爪」を少し出し、掌を小さく傷つけ血を一滴……
皿の上に様々な文様が刻まれ、血が薄まり、盛り上がり、やがて水のようなモノに変化する。 カイトは面白げも無く、まじめな表情でそれを小さな容器に吸取る。 先に針が付いていたのをラムソンは確認している。
「シリンジ…… 注射器と云えばいいか。 まぁ、この液体をお前の隷属紋に注入する。 チクッとするが気にするな」
「なッ!」
「いいから…… その方が、エスカリーナは喜ぶ」
有無を言わせず、ラムソンを背後に回って、首筋の隷属紋に注射器を打ち込むカイト。 ゆっくりと中の液がラムソンに注入される。 じわじわと広がる黒々とした影。 饐えた匂いが辺りに漂い、隷属紋が打ち込まれた周辺の皮膚が腐れ堕ちる。
桃色の肉芽が中心部に発生し、黒々とした影を駆逐していく。 表面がピンと張り、体毛が薄っすらと生え、やがて周囲と同化する様に生え揃う。
「よし。 まぁ、こんなものだ。 あぁ、今までの様には『爪』は使えない」
「……奴隷紋が発していた電撃が切れたと云う事か」
「そうだな。 お前の『力』ならば、そんなものが無くとも、十分に強いのだから、必要はあるまい?」
真顔をそういうカイトに、ラムソンは複雑な想いを抱く。 十分に強いのならば、リーナと同道していた筈なんだが…… 疑問に心内が騒めく。 そんなラムソンにカイトは云う。
「シルフィーも又、同じようなモノか。 あぁ、あっちは、お前よりさらに酷いな。 ちょっと、時間が掛りそうだ。 シルフィー、見ていただろう。 お前を血を差し出せ。 エスカリーナへの忠誠は胸に…… 魂に刻んでいればいいんだから」
「な、なッ!」
「早くしろ。 ラムソンの方が聞き分けがいいのは、それだけ、ラムソンの方がエスカリーナに忠誠を捧げていると云う事か?」
「ば、馬鹿なッ! こ、これでいいのかッ!」
差し出される、皿にシルフィーも又『血』を一滴落とす。 同様の事が、起こる。 注射器に液を吸い込み、ラムソン同様にシルフィーの首筋に薬液を注入するカイト。 無表情なのが、なんとも云えぬ恐ろしさを醸していると、ラムソンは思う。
―――― ヒギィィィィ
薄暗がりの中、シルフィーの悲鳴が切り裂いた。 悲鳴と共に、彼女の体は崩れ落ち、芝の上に横たわる彼女の体がピクピクと痙攣を始める。 その様子を何事も無いように見つめるカイト。 慌てるラムソン。
「ど、どう云う事だッ!」
「好転反応だ。 少々激烈に発生したが、まぁ、想定内。 見ろ」
促されるままに、ラムソンは倒れたシルフィーを見詰める。 無かった片方の耳が、桃色の肉芽の成長と共に『生えて』来た。 うっすらとした産毛がそれを覆う。 まるで、生まれたばかりの子供の様に…… 短く捩じれた尻尾も又、徐々に長く……
「こ、これは……」
「再生医療と云う。 医学の結実の一つだ。 どうだ、シュトカーナ。 『聖なる魔力』は、感じたか?」
「いいえ…… 全く。 あの、『揺り籠』の中で、同じような事が?」
「もっと大規模に。 もっと、精緻に。 だな。 エスカリーナの魂の器は、相当にヤラレテいる。 だから、細心の注意の元復元せねば成らない。 とは云っては、まずは生体にしなくては、なにも出来ないがな」
ラムソンは、葛藤を胸に刻んだまま、心を決める。 昏い未来に灯る僅かな光に達するならばと、心を決める。
「シュトカーナ様。 風の精霊様に、乞い願い奉ります。 ―― 我ラムソン。 第十三氏族が末裔。 我が主、エスカリーナ様の帰還の為に、人族が魔女、ロマンスティカ=エラード=ニトルベインの助力嘆願す、と」
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