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蛍降る駅
浄化されるは心の澱
しおりを挟む川沿いの国道に出ると、あとは一本道だった。彼はまっすぐ私の家に向かい、そして、止まった。
「じゃぁ、気が向いたら連絡をくれ。いつでもいいよ」
「うん、判った。留守電かなんか?」
「携帯だからな」
「こんな山奥で使えるんだ」
「なんとかな。そこら辺りまでは、文明化しているよ」
「ふふふふ」
「あはははは、じゃぁな」
軽い排気音を残し、軽トラが、もと来た道を走り去っていった。
母が、その音を聞きつけて、家から出てきた。
「なんね、将ちゃんきとったんね。上がってもらえばよかったのに」
「ホントね。ぼぅっとしてた」
「あんたって子は!」
母が軽く睨みながら私をこずいた。 まるで、小学生に戻った気分だった。
「お風呂わいとるから。 はいりな。 ご飯はもうちっとかかるから」
「うん、ありがとう。」
村に帰ってから、素直に ” ありがとう ” の、言葉が私の口から出るようになった。 自分でも驚きだった。
子供の頃は薪で焚いていたお風呂も、今ではガス風呂になっている。 しかし、湯船は昔のままだった。きっと、父がそうしたのだとおもう。 父の自慢は、この風呂だったし、湯船はその中でも、一番の自慢だった。檜の香りのするお風呂を作りたくて、貧しい生活費を切り詰め、手に入れた、彼だけの宝物だったもの。
この歳になって、なぜ父がそこまで、このお風呂に思い入れがあるのか、ちょっとだけ理解できた。 湯気が充満する風呂場は、檜の香りが立ち込め、開いた窓から、川風が草の香りを届ける。 風呂場の柔らかな電燈の光は、全てのものをセピア色に塗り替えていた。
湯船に身体を浸し、思う存分その雰囲気を楽しんだ。
お風呂から上がり、ぬれた髪をバスタオルで包み、化粧水でパッティングしてから、母のもとに行った。 スエットのズボンと、洗いざらしのティーシャツ姿で、台所から続く居間にある、年代を感じさせるダイニングテーブルと言うにはお粗末なテーブルについた。 食卓の上には、私にとって凄いご馳走が並んでいた。
「帰るって聞いてから、直ぐに用意したんだよ。 あんまり上手くできんかった」
そう言いながら、母はお味噌汁を置いた。 食卓の上には私の好物が並んでいる。 岩魚の甘露煮。 山独活の胡麻味噌和え。 蕎麦団子の葛餡かけ。 どれをとっても、何かのお祝いの時にしか食卓に並んだことが無いようなものだった。
「大変だったんじゃない? ……こんなに」
「めったに帰ってこんじゃないか。 たまだからするんよ。 たまだからね」
そう言ってから、彼女は茶目っ気たっぷりに私に聞いた。
「お父さんも居らんから、一杯飲もうか?」
「そうね、やっちゃいましょうか。」
母は嬉々として、冷蔵庫から、ビールとグラスを持ち出してきた。 栓を抜き先ずは自分のグラスに注ぐ母。 そして、私のグラスにも。 カチンとグラスを合わせ、一口飲み込んだ。
「おいしぃなぁ」
「そうね、今日も暑かったらからね」
「娘が帰って来て、一緒に飲むとはおもわなんだよ。 さぁ、おあがり」
「いただきます」
箸を上げ、母の心づくしの料理に舌鼓を打った。 本当に懐かしい味がした。 母もお茶碗にご飯をよそってから、食卓に着いた。 ご飯の温かく甘い香りが、食欲を呼び覚ました。
あらかた、食卓の上が片付き、お腹も大きくなった私は過去そうであったように、母に、
「ご馳走様でした」
と、声を掛けた。
「よろしゅうおあがり。 ……まだ、ちゃんと挨拶できるんね」
「親の教育が良かったから」
「そんじゃ、良かった教育の成果を見るために、後片付けを頼もうかね」
「はいはい」
私はなんだか嬉しくなって、食卓の上のものを、台所に運び、洗い始めた。 母は、その間、納戸の奥に何かを取りにいたらしく、居間の方から人気が消えていた。
「母さん、終わったよ……」
「ん、ありがと。 ちょっと、座敷においで」
「うん」
私は、居間を通り抜け、座敷に向かった。 衣紋掛けに薄い水色に、桔梗が染め抜かれた浴衣がかかっていた。 見覚えのある浴衣だった。 この村を出る前に、母に一度で良いから着せてくれと駄々をこねた、思い出の浴衣だった。
「あんた、佐和子の年と同い年になったんよね。 着てみるかい?」
「いいの?」
「あん子の供養にもなるよ。 佐和子はあんたの事大好きだったもんね」
佐和子叔母さん。 母の妹。 幼い時から体が弱く、今の私と同い年の時に、儚くも逝ってしまった人だった。 抜けるような白い肌と、光る長い黒髪、濡れたように光る黒目がちの眼を持つ大変綺麗な叔母さんだった。 駅二つ向こうの母の実家に遊びに行くと、彼女は、いつも、奥の部屋で寝ていた。 ただ、私が訪ねていくと、大変喜んでくれ、可愛がってもらった。 その叔母が唯一持っていた、よそ行きの浴衣が今私の目の前にある 『 これ 』 だった。
「あん子も、これを着て一度だけお祭りにいったんよ。 親も諦めとったんだろうね。 それから暫くしてから逝ってしもうた。 そん時のこと覚えとるか? あんたも一緒にいったんよ」
「ええ…… もちろんよ。 私が我侭を言って、佐和子叔母さんに手を引いてもらって、鎮守様のお祭りに行ったんだもんね」
そう、一緒に行くんだと、駄々をこねたのは事実。 佐和子叔母さんは、
「じゃぁ行こう、私もこんな所にずっと居たくないし、涼ちゃんと一緒なら大丈夫よ」
そう言ってくれた。 一緒に踊れなかったし、花火も途中までしか居なかったけど、彼女との想い出は、私の中の大切な宝物の記憶として綺麗なまま残っている。
「あん子、逝ってしまう前に、その時の事ばかり言っていたんよ。 楽しい想い出はあんたと行ったお祭りだけだったといわんばかりにね。 本当にそうだったんね。 病院に入って、逝ってしまう前、あん子、お前のことばかり気にしとったよ。 ” 感の強い子だから、大丈夫かしら ” ってね」
母はそう言って、そっと涙を拭った。
「ああ、湿っぽくなったね、やだね。 どうだい、鎮守様のお祭りあるんよ。 隣村でな。行かんかね?」
「ええ? わたし?」
「他に誰がおろうか? この浴衣着てな、いってこ」
「……だって、わたし友達も少なかったし、それに、一人じゃね……」
「だったら、将ちゃんと一緒に行けばいいよ。 あん子も、一人もんで、ずっと畑の世話ばかりしとるから、たまには息ぬかんと、いかんでな。」
私は、心のどこかで、そうなればいいなと思っていたのか、黙ってしまった。 ただ、あの浴衣が着たかっただけかもしれないけれども。
田舎の夜は早い。 お風呂も入ったし、ご飯も食べた。 もう、他にすることも無い。 母が、まだ家に居た頃、私が使っていた小さい方の座敷に、布団を敷き、蚊帳を釣ってくれた。懐かしい柄の布団だった。
この布団の上で、どれだけの夢を見たことだろう、そして、幾つの挫折を噛み締めたことだろう。 電気を消すと、部屋は暗闇に沈み、月明かりに照らし出された、広縁の向こう側の庭が、蒼く浮かび上がった。
微かに香る、蚊取り線香の香り、古びた畳の匂い、何もかもが、涙が出るほど懐かしかった。
ふと、将一の言葉が、思い出された。
《夢は叶ったのか?》
背筋が冷たくなった。
この村を出て行くときに、将一に行った言葉。
『私は、夢を実現するまで、此処には戻ってこない!』
その言葉に対する批判だったのだろうか?やはり、彼は私の事を怒っていたのだろうか。
答えは見つからず、意識は、深い沼に潜り込むように消えていった。
^^^^^
浮かび上がる意識、柔らかな蒼さが瞼をこじあけた。 日の出前の静けさだけが、私の周りを取り囲んでいた。 ぼんやりと天井を見ていた。
何をしよう。
私は、ここに帰ってきてから、自分の行動に自信が持てなくなっていた。
蒼い静かな時間だけが、淡々と流れていた。
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