蒸汽帝国~真鍮の乙女~

万卜人

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記憶

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 地面にへばりつくみじめな生き物。
 それがヘロヘロの持つ、もっとも古い記憶である。
 かたちもなく、ただどろどろとしたかたまり。
 だが生きている。
 目も鼻もなく、耳もない。
 あるのはただひとつの目的。
 飢え。
 飢えだけがその生き物のすべてだった。
 食べ物を求め、生き物はそのどろどろとした身体を伸ばし、ゆっくりと移動した。そしてすこしでも消化できるものに行き当たると、全身の細胞を使ってがつがつと消化する。
 もしそこに生物学者がいれば、その生き物の正体を「これは粘菌と呼ばれる生き物である」と、分類したに違いない。粘菌は不思議な生き物だ。植物とも動物ともつかず、群体で生き、胞子を飛ばし繁殖する。
 ただその生き物は胞子を作らず、ずるずると身体を動かして餌を探すだけだった。もしかしたら突然変異体なのかもしれなかった。
 そんな日々をすごすその生き物に、ある変化が生じた。
 それは枝に張られた蜘蛛の巣に、一匹の蝿が捕まった瞬間だった。
 ねばねばした蜘蛛の巣の粘液に蝿が捕まり、羽根を必死に震わせた瞬間、蝿のはなつ原初的な恐怖の信号が、生き物の深部にあるなにかを揺り動かしたのである。
 やがてほどなく蝿の震えを感知した蜘蛛がするすると糸をたどって近づき、その生命を絶ったとき、生き物はある絶頂を感じた。
 蝿がそのわずかな生命力を放出させたその瞬間、生き物はそれまで感じたことのない満足感を感じたのである。
 生き物は本能的に悟っていた。
 これだ! これこそじぶんが求めていたものだ!
 まとまった思考としてはないものの、生き物はなんとかおなじ体験をするため試行錯誤を繰り返した。
 そして最初のおおきな一歩を踏み出したのである。
 生き物は自分の細胞を自由に組み合わせることが出来た。
 身体の表面に透明な細胞を集めると、それがレンズになった。
 はじめての光を感じ、生き物はあわててそれをひっこめた。
 そろそろともう一度レンズをつくり、焦点を結んだ。
 !
 生き物は初めて自分の目で世界を認識した。
 それは森の片隅であったが、生き物にとっては最初の眺望であった。どっしりとした巨木が天をささえんばかりに枝葉を茂らせ、葉の間からは日の光が幾本もの光の筋となって降り注いでいる。
 その光景に、生き物はしばし呆然となっていた。
 やがて生き物は学んだ。
 耳を、そして鼻を作った。
 五感を生き物は手に入れていた。
 最初に感じた他の生き物である蜘蛛の姿をそれは真似した。
 八本の脚を伸ばし、よたよたとその生き物は移動した。そしてさらなる試行錯誤を繰り返し、生き物は最初の殺しを経験したのである。
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