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第四章

37.離籍に向けて先ずは一人目

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 ニールと対面するのは途轍もなく怖い。ニールが到着してこの部屋にやって来た時、平静を保つ自信がないエレーナは、気を逸らす為に部屋にいる人達に意識を集中した。

(怖くても逃げられない時は、その時が来るまで考えないのが一番。来る可能性があるって知ってさえいれば大丈夫)

 ループ前から馴染んでいるこの方法は、エレーナの心をいつも守ってくれた。

 授業が終わるまでは王宮で会う予定の人達の事は考えない。予習や復習の時間を減らす為に授業に集中し、王宮でやるべき仕事だけを頭に思い浮かべる。


 人を傷付けるのは、人にしかできない。


 それに気付いてからは『誰の仕事か』ではなく『どの部署の仕事か』だけを考えるようになり、心はかなり楽になった。個人を思い浮かべない、仕事や役職に特定の誰かのイメージを載せない⋯⋯それができれば怖さは格段に減ってくれて、仕事に集中できる。そのお陰で、より多くの仕事を短時間でこなせるようになっていった。

 会う可能性があると思っても、会うまでは心に浮かべずにいるのが一番いい。そして会った時に『ああ、やっぱりね』と思う心の準備だけをしておけばいい。

 ループ前のエレーナの周りには、傷つける時しかこちらを向かない人ばかりだったから。



(モートンさんはエリオット様と同じくらいのご年齢だけど、ジョーンズの隣の男性はもっと若いみたい⋯⋯ここにいるのだから法律に詳しいとか? それなら法務大臣かその補佐官って感じね。侯爵家の元使用人ならどんな仕事を⋯⋯)

「ニールとエレーナが仲が良いねえ。誰が何を言ったのか詳しくは知らないが、エレーナには聞いたのか?」

 ソファの背にもたれ腕を組んだエリオットは、目を眇めてジョーンズを見遣り口を歪めた。

「エレーナ様は⋯⋯先日エレーナ様からお話を伺いましたが、まだ幼く状況をご理解されていないと判断しました。ルーナ様からその時のお話を耳にされ、このような⋯⋯離籍などと言うお話をしておられるのだと承知しておりますが、僅か5歳の幼女の言葉を鵜呑みにするのは、些か問題があると言わざるを得ません」

「幼女の戯言ねえ。エレーナは随分と明確な説明をしていたと聞いているが?」

「先程ご挨拶をされた時にも、年齢にそぐわない立派なご様子でしたわ。見た目の年齢に誤魔化され、目が曇っているとしか思えないわね」

「大人ばかりの中で育っておられ、家庭教師も侯爵家令嬢に相応しい教育をしておりますので、大人びて見えるのでしょう。報告書にあるかなり不快な内容を踏まえて考えますと、エレーナ様の言葉通りに受け取るのは危険だと思われます」

「幼少期の貴族の令嬢が大人の中で暮らすなどごく普通の事ですわ。どなたの報告を信じて判断しているのか⋯⋯ジョーンズに報告している者の言葉が信じられる根拠はあるのかしら? まさか、『大人だから』などとは言わないわよね」

 ニールの名前を出した頃から少し落ち着いた様子だったジョーンズの顔が真っ青になってきた。恐らく『報告書』を書いたのが誰だったのか、思い出したのだろう。

(今更思い出したなんて⋯⋯宰相がこの有様では、この国は本当に危ないのではないかしら)



「ジョーンズがブラッツの報告書を鵜呑みにしているのは知っています。ジョーンズにはそれ以外の情報源がないらしいと言う事も。ブラッツが家政婦長の権限を利用し、長年に渡り侯爵家の予算を着服していた事実を掴み、多数の証拠を押さえてあります。
証拠品の数々はジョーンズの甥で侯爵家現執事のジェイクの確認済みであり、彼に預け保管させております。ジェイクには別件で仕事の指示をしておりますが、わたくしの言葉を疑うのであれば早急に呼び戻しましょう」

「ジェイクには執事としての大切な仕事があるのです。私に一言もなく、勝手に仕事を頼まれたと仰るのですか!?」

「わたくしは今はまだビルワーツ侯爵家令嬢です。侯爵家にとって必要だと考え、使用人に仕事の指示を出すのに問題があるとは思えません。しかも、元執事にお伺いを立てろと言い募るなど、愚かにも程があります」

「しかし、ジェイクはまだ執事としての経験が浅「控えなさい! そのジェイクに執事という役職を与えたのはアメリア様です。そしてジョーンズはその決定に対し、異を唱えなかったとも聞いています。ジェイクを半人前だと蔑むのならば、彼を執事に任命したアメリア様を蔑む事になります」

 ニールが何を言い出すのか想像もつかないが、彼の味方を潰しておくのは役に立つはず。

「ジョーンズはこの数年の間に、何度ニール様と会ったのですか? その時、わたくしの話が出ましたか? わたくしとは一面識もないのは間違いないと断言できます。もし会ったり話をしたと言うのなら、どんな話をしたのか言いなさい。その時わたくしがどんな服を着てどんな様子だったのか、エリオット様達の前で話しなさい」

 エレーナの記憶にある限り、ジョーンズに会ったのは今日が2回目。アメリアは月に1回ないし2回帰って来ているようだったが、ジョーンズが帰って来たと聞いた事はない。

(ジョーンズは忙しくて宮殿に篭っているとジェイクが言っていたしね)

「わたくしは部屋と図書室以外に行った事はなく、ジョーンズがわたくしと会ったと言うならば、そのどちらかしかあり得ません」

「確かに⋯⋯お会いした事はなかったように思いますが」

「ブラッツの話はアメリア様やジョーンズにとっては、都合が良かったのでしょう? 侯爵家に産まれたのが、役に立たないどころか危険の火種になりかねない『女の子』でしたから。
我儘で癇癪持ちなら部屋に閉じ込めていても、誰にも文句は言われない。都合が悪くなれば『ブラッツを信じていた、騙された』と言える。そう考えて放置してきたからこそ、ブラッツが牢に収容されても、言葉を信じていると言い続けるしかない。
ニール様がわたくしと仲が良かったと言い続ければ誤魔化せるとでも? 父親が見守っていたのだから、放置していたわけではないと言えるから?
戦さを恐れて逃げ出した挙句、愛人と庶子を作りアメリア様に権利の全てを奪われたニール様が、愛人や庶子と過ごす時間を削ってわたくしに会いに来ると、本気で思っているのですか?
今もまだニール様を探しているのなら、愛人の家に行けば見つかるでしょう。1日の殆どをそこで過ごしておられると使用人達が話していましたから。
目の前に数人の子供を並べたら、ニール様にはどの子がエレーナか分からないと断言します。急いで似た年頃の子供を集めて来なさい。会ったことがないと言うわたくしの言葉が信用できなくとも、どれが我が子か分からないと言われれば信じるしかありませんから」



 ループ前、ニールに初めて会った時に言われた言葉を覚えている。

『こいつがエレーナ? 貧相なガキだな』

(だから、ニール様はわたくしの顔が分からないはず。わたくしもループ前の記憶がなければ分からないもの)



「そこまで断言されるのですか。同じ敷地内に住んでおられるのに⋯⋯ニール様とお会いした事がないなんて。血の繋がった親子なのに⋯⋯」

「先日も言いましたが、アメリア様とも会ったことがありません。
使用人達がわざわざ教えに来てくれましたから、お帰りになられた時のご様子だけはいくつか知っています。とても楽しそうにしておられたとか、優しいお言葉をかけていただいたとか。アクセサリーや小物をいただいたとか。
その時必ず使用人達が言うのです⋯⋯私達にはこんなに優しい方なのにねえ。エレーナ様の事なんてカケラも気にしておられなかったもの。あのご様子では、エレーナ様なんて生きてても死んでても、気にされないんじゃないかしら。産まれてすぐから『ガッカリ』だなんて言われたんですものねえ。
屋敷に戻られたアメリア様のお声をお聞きした事は一度しかありません」

 心を閉ざしておけば何も響かないから『わたしはいし』だと心の中で言い続けていた。

「一度だけアメリア様のお声をお聞きした時、はっきり仰っておられました⋯⋯わたくしが死んだら『やっと家族に会えたね、良かったね』って言って笑顔で見送ってと。それ以外にも、『わたくしの家族はお父様とお母様だけ』だとも仰っておられました。
お屋敷に戻って来られた時でさえ、一度も顔を見ようと思われなかったアメリア様や、愛人宅に入り浸るニール様が、わたくしに対してほんの少しでも関心があったなど誰も信じませんし、勿論わたくしも信じていません」

 ジョーンズの顔が青から白に変わっていき、隣に座る男は目を見開いたまま、瞬きすら忘れている。

「お二人がそのような言動をしておられるのですから、使用人達はそれに相応しい対応をしてきたのです。わたくしの予算を全て使い込み、ありもしないわたくしの粗相で破損した物とやらの費用を請求し、ごくたまに野菜のかけらが浮かんでいるスープに虫やゴミを入れ、カビだらけのパンをご丁寧に踏み潰す。食事を運び忘れても『まだ生きてた』と言い、部屋から出たのを見られたら、怒鳴り声が響き渡り僅かな食事さえ届かなくなる。
家庭教師は平然と鞭を振い、血を流しても熱が出ていても誰もが見て見ないふりをする。クローゼットやドレッサーには高価なドレスや貴金属が並び、わたくしを嘲りながら使用人達が品定めに来る。わたくしが触って良いものは数枚の薄汚れたチュニックだけ。破れれば繕い、擦り切れたシーツを使って当て布にする。
週に一度の部屋の掃除さえ、死んでくれれば仕事が減るのにと言われ、食事を作り忘れた調理人は死んでも別に構わないと言っていたそうです。
使用人達をそのように増長させたのは、紛れもなく当主ご夫妻です。アメリア様とニール様の言動が原因でないと言うならば、誰にも罪はない。虐待ではなくビルワーツ侯爵家の流儀なだけならば、それを甘んじて受け入れようとしないわたくしに非があります」

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