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36.幽霊付き事故物件
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両開きのドアを押し開けると、煌びやかな空間が広がった。
立ちすくむAの一歩後ろから、売春組合のヴァイオレットが自慢げに鼻を鳴らした。
「悪くないでしょう。古いけれど手入れは怠っていなくてよ」
「ええ、想像以上です」
本心だった。
サロンに提供してやっても良いと案内された館は、一等区のぴかぴかした建物と比べたらそれなりに古いが、その古さが返って歴史を証明していた。
Aは首を逸らせてエントランスの天井を見上げる。
吹き抜けの天井から吊り下げられたシャンデリアが蓄えた、大粒のクリスタルがきらきらと輝いている。まるで花火の火の粉を浴びるがごとき迫力だ。この輝きを白い頬に落としている誰かが、ひとり佇んでいたなら声を掛けずにはいられないだろう。
エントランスの中央には二階へ続く、深紅の階段が架けてある。紳士が淑女の手を取り、社交の場へエスコートする様が見えてくるようだ。
「ネオクラシック様式ですね」
「マダム、客室はいくつあるんです?」
床を舐めるほど裾の長いドレスを着たヴァイオレットの後から、レスターとセラフィムがエントランスに入ってきた。
彼らは先に庭園を見てきたらしい。
「十部屋よ、可愛い坊や」
ヴァイオレットがセラフィムを振り返って答えた。彼女が動くたびに優雅な衣擦れの音がする。
「二階を見てきても構いませんか」
彼女が頷いたので、レスターとセラフィムは階段を登っていく。
彼らが半ばまで登ったとき、Aは気になっていたことを尋ねた。
「何故こんなに立派な場所を遊ばせていたんです?」
「出るのよ」
彼女は丸めたティッシュを放り投げる調子で言った。
セラフィムが歩みを止める。
「娼館って工作員の隠れ蓑にちょうど良いんでしょうねえ。戦時中、何人も暗殺されたわ。
女の幽霊なら売り文句になるけれど、男じゃあね」
ヴァイオレットは勿体ないと言わんばかりだ。彼女にとって血なまぐさい殺人現場は、数多く経験した修羅場のひとつにしか過ぎないらしい。
顎に添えた指先のマニキュアが赤くぬらぬらと滑り、今の話も相まって不穏だ。
Aは幽霊の類を信じない。信じていない上で、そういうエンターテイメントとして消費する程度だ。恐さで言えば宇宙人の方がよほど恐い。
だが、セラフィムは違うらしかった。
一目散に階段を降りてくると、ヴァイオレットの目の前につんのめるようにして駆けてきた。顔が真っ青になっている。
もともと長身でかつハイヒールを履いているヴァイオレットの隣に小柄なセラフィムが並ぶと、頭ひとつ半ほどの身長差がいっそう明確になった。
セラフィムは震える声で確認する。
「マダムは幽霊に会ったこと、おありなんですか」
「私はないけれど、ロベリアは何度か会ったらしいわね。
まあまあ、そんなに怯えて」
ヴァイオレットに頭を撫でられながら、セラフィムは「いいえ、嬉しいんです」とぎくしゃくとはにかんだ。
こんなに顔色が悪いのに?
Aとヴァイオレットは互いに顔を見合せる。
彼女とこれほどフランクに接したのは初めてだった。
「ねえ、マダム。僕、今夜からここに泊まりたい。だめですか?」
セラフィムはヴァイオレットの手を両手で包み、子供のように身体を左右に揺らして見せた。上目遣いのエメラルドの瞳を潤ませている。さっきまで蒼褪めていた頬はバラ色に上気していた。
普段は椅子の上にふんぞり返って、ツンと顎を持ち上げているとは信じがたいような、歴戦錬磨の猫の被りようだ。彼ほどの使い手ともなると、血行の上下すら自在にこなしてしまうらしい。
やる方もやる方なら、やられる方もやられる方だった。
若い男に「良いでしょう、良いでしょう」と秋波を送られて、ヴァイオレットも満更ではなさそうにしている。現役は当の昔に引退したとはいえ、高級娼婦の自尊心が疼くのだろう。
見てられないな。
興味を失ったAはそっとふたりから離れ、レスターを追って二階へと上がった。
彼は、内装が深紅で統一されたエントランスとは一転、白と紺の壁紙を巡らせた客室にいた。
換気のために開け放たれた窓から、庭園を眺めることができる。当然、草木は投影機を使って映しているだけだ。フェイクグリーンですらないし、一等区のレストランのように緑の香りもしない。
だがこれだけの規模のとなれば、三等区の中では最上等、二等区でだって上等の部類だろう。
「どう?」
Aはレスターに声を掛けた。
「立地的にも良さそうですね。二等区との境ですし。
しかし、一番の問題は椅子です」
「椅子」
思わずオウム返しになってしまった。きっと自分は怪訝な顔をしてしまっているだろうとAは思った。
Domたちが自分の椅子に拘る性質は知っている。しかし、これほどの建築物を前にしても、まだそれは優先順位の一番を張るほどなのだろうか。
納得いっていないのが見て取れたのだろう、レスターは少しだけ不満そうに眉根を寄せた。
「あなたもそろそろ自分の椅子を見つけるべきです」
「適当でいいよ。俺はUsualだし、拘りがない」
Aは映画俳優のように芝居がかった動きで、大きく両手を広げて見せた。
「この館はあなたの国であり、あなたは王です。有り合わせの玉座に座る王がいますか」
茶化すAを、レスターは大真面目に窘めてくる。話が随分と大袈裟だ。
けれど意地を張って拒否するほどの拘りも、またない。
そういえば自分は今までどんな椅子に座ってきただろう。
行きますよ、と声を掛けられ、レスターの後に付いて歩きながら、Aはそんなことを考えた。
ヴォルテールでは座っている間もなく雑用をやっていたし、事務所では今にもキャスターが外れそうな事務椅子。寝泊りしていた備品置き場は椅子を置くスペースなんてなかったし、行きつけのパブは立ち飲みだ。従業員控え室は比較的、長椅子を使った方ではあるが、あれはどちらかというとNのを間借りした感じに近い。ホテルの椅子だって似たようなものだ。
「…………」
言われてみれば、腰を落ち着ける椅子を持ったことがない。
「その椅子って、経費で落ちるの?」
「まさか」
レスターの返事はなんとも手厳しかった。こちらを振り返しもしないで、客室のチェックを続けている。
「全員、自分の持ち出しですよ。Aだけ特別というわけにはいきません。給料の前借りという形でなら都合して差し上げますが」
給料前借りの玉座はダサいな。
そんなことを思って、手慰みに客室にあるシャワールームを覗く。
別の部屋から、レスターが声を掛けてきた。
「ところで、ゴミの回収がされていないとシェフが困っていました」
「そうだろうな」
「前に、ゴミ回収の利権は第三エリアのマフィアが握っていると、そうお話してくださいましたよね。
そういうことと思っても良いのですか」
大声でする話ではない。Aはバスルームから出てレスターに近づいた。
「うーん、まあ、そう。
でも、第一エリアで銃ぶっ放したりはしないから大丈夫。資金源から客を逃がすような真似はしないだろ」
いつもヴァイオレットと一緒にいる筈のロベリアがいないのだから、間違いない。クレハドールの素行不良を密告する手紙にも、忙しくなりそうだと書いてあった。今頃、彼女は第三エリアの男たちを相手に、上手く交渉していることだろう。こういう時の売春組合だ。
レスターは両腕を組んだ。何か腑に落ちない様子だ。
そういうふうに判断しかねているレスターを見るのは初めてで、Aもまた彼を見つめ返す。彼が何に引っ掛かっているのか、計りかねたのだ。
「Eが出てこないのも、そういうことですよね」
「……それは……うやむやにしといた方が身のためだと思う。下手に情報持っちゃうと、さ?」
Aは右下に視線を逸らして言葉を濁す。返事が先細りになっていき、最後の方は殆ど独り言の音量だった。
実際、Aも詳しいことは知らされていない。知りませんでした、で押し通した方が被害が少なくて済む。
いよいよレスターが難しい顔になった。指先で額を抑えている。
確かに頭の痛いことだろう。自分の監視下にあるクレハドールが、いわゆるマフィアの女にちょっかいを出したのだから。
けれど次に彼が口にした言葉は、完全にAの不意を突いた。
「なぜ、EはあれほどNに執着するのです?
彼が反社会的勢力であると仮定するなら、風俗店で働く筈がありませんよね。Nがいない限りは」
深い疑念に満ちた視線だった。
NがSwitchであるという答えの半歩手前にまで、彼は来ているのではないか。
Aは言葉に詰まり、身体を硬直させた。
立ちすくむAの一歩後ろから、売春組合のヴァイオレットが自慢げに鼻を鳴らした。
「悪くないでしょう。古いけれど手入れは怠っていなくてよ」
「ええ、想像以上です」
本心だった。
サロンに提供してやっても良いと案内された館は、一等区のぴかぴかした建物と比べたらそれなりに古いが、その古さが返って歴史を証明していた。
Aは首を逸らせてエントランスの天井を見上げる。
吹き抜けの天井から吊り下げられたシャンデリアが蓄えた、大粒のクリスタルがきらきらと輝いている。まるで花火の火の粉を浴びるがごとき迫力だ。この輝きを白い頬に落としている誰かが、ひとり佇んでいたなら声を掛けずにはいられないだろう。
エントランスの中央には二階へ続く、深紅の階段が架けてある。紳士が淑女の手を取り、社交の場へエスコートする様が見えてくるようだ。
「ネオクラシック様式ですね」
「マダム、客室はいくつあるんです?」
床を舐めるほど裾の長いドレスを着たヴァイオレットの後から、レスターとセラフィムがエントランスに入ってきた。
彼らは先に庭園を見てきたらしい。
「十部屋よ、可愛い坊や」
ヴァイオレットがセラフィムを振り返って答えた。彼女が動くたびに優雅な衣擦れの音がする。
「二階を見てきても構いませんか」
彼女が頷いたので、レスターとセラフィムは階段を登っていく。
彼らが半ばまで登ったとき、Aは気になっていたことを尋ねた。
「何故こんなに立派な場所を遊ばせていたんです?」
「出るのよ」
彼女は丸めたティッシュを放り投げる調子で言った。
セラフィムが歩みを止める。
「娼館って工作員の隠れ蓑にちょうど良いんでしょうねえ。戦時中、何人も暗殺されたわ。
女の幽霊なら売り文句になるけれど、男じゃあね」
ヴァイオレットは勿体ないと言わんばかりだ。彼女にとって血なまぐさい殺人現場は、数多く経験した修羅場のひとつにしか過ぎないらしい。
顎に添えた指先のマニキュアが赤くぬらぬらと滑り、今の話も相まって不穏だ。
Aは幽霊の類を信じない。信じていない上で、そういうエンターテイメントとして消費する程度だ。恐さで言えば宇宙人の方がよほど恐い。
だが、セラフィムは違うらしかった。
一目散に階段を降りてくると、ヴァイオレットの目の前につんのめるようにして駆けてきた。顔が真っ青になっている。
もともと長身でかつハイヒールを履いているヴァイオレットの隣に小柄なセラフィムが並ぶと、頭ひとつ半ほどの身長差がいっそう明確になった。
セラフィムは震える声で確認する。
「マダムは幽霊に会ったこと、おありなんですか」
「私はないけれど、ロベリアは何度か会ったらしいわね。
まあまあ、そんなに怯えて」
ヴァイオレットに頭を撫でられながら、セラフィムは「いいえ、嬉しいんです」とぎくしゃくとはにかんだ。
こんなに顔色が悪いのに?
Aとヴァイオレットは互いに顔を見合せる。
彼女とこれほどフランクに接したのは初めてだった。
「ねえ、マダム。僕、今夜からここに泊まりたい。だめですか?」
セラフィムはヴァイオレットの手を両手で包み、子供のように身体を左右に揺らして見せた。上目遣いのエメラルドの瞳を潤ませている。さっきまで蒼褪めていた頬はバラ色に上気していた。
普段は椅子の上にふんぞり返って、ツンと顎を持ち上げているとは信じがたいような、歴戦錬磨の猫の被りようだ。彼ほどの使い手ともなると、血行の上下すら自在にこなしてしまうらしい。
やる方もやる方なら、やられる方もやられる方だった。
若い男に「良いでしょう、良いでしょう」と秋波を送られて、ヴァイオレットも満更ではなさそうにしている。現役は当の昔に引退したとはいえ、高級娼婦の自尊心が疼くのだろう。
見てられないな。
興味を失ったAはそっとふたりから離れ、レスターを追って二階へと上がった。
彼は、内装が深紅で統一されたエントランスとは一転、白と紺の壁紙を巡らせた客室にいた。
換気のために開け放たれた窓から、庭園を眺めることができる。当然、草木は投影機を使って映しているだけだ。フェイクグリーンですらないし、一等区のレストランのように緑の香りもしない。
だがこれだけの規模のとなれば、三等区の中では最上等、二等区でだって上等の部類だろう。
「どう?」
Aはレスターに声を掛けた。
「立地的にも良さそうですね。二等区との境ですし。
しかし、一番の問題は椅子です」
「椅子」
思わずオウム返しになってしまった。きっと自分は怪訝な顔をしてしまっているだろうとAは思った。
Domたちが自分の椅子に拘る性質は知っている。しかし、これほどの建築物を前にしても、まだそれは優先順位の一番を張るほどなのだろうか。
納得いっていないのが見て取れたのだろう、レスターは少しだけ不満そうに眉根を寄せた。
「あなたもそろそろ自分の椅子を見つけるべきです」
「適当でいいよ。俺はUsualだし、拘りがない」
Aは映画俳優のように芝居がかった動きで、大きく両手を広げて見せた。
「この館はあなたの国であり、あなたは王です。有り合わせの玉座に座る王がいますか」
茶化すAを、レスターは大真面目に窘めてくる。話が随分と大袈裟だ。
けれど意地を張って拒否するほどの拘りも、またない。
そういえば自分は今までどんな椅子に座ってきただろう。
行きますよ、と声を掛けられ、レスターの後に付いて歩きながら、Aはそんなことを考えた。
ヴォルテールでは座っている間もなく雑用をやっていたし、事務所では今にもキャスターが外れそうな事務椅子。寝泊りしていた備品置き場は椅子を置くスペースなんてなかったし、行きつけのパブは立ち飲みだ。従業員控え室は比較的、長椅子を使った方ではあるが、あれはどちらかというとNのを間借りした感じに近い。ホテルの椅子だって似たようなものだ。
「…………」
言われてみれば、腰を落ち着ける椅子を持ったことがない。
「その椅子って、経費で落ちるの?」
「まさか」
レスターの返事はなんとも手厳しかった。こちらを振り返しもしないで、客室のチェックを続けている。
「全員、自分の持ち出しですよ。Aだけ特別というわけにはいきません。給料の前借りという形でなら都合して差し上げますが」
給料前借りの玉座はダサいな。
そんなことを思って、手慰みに客室にあるシャワールームを覗く。
別の部屋から、レスターが声を掛けてきた。
「ところで、ゴミの回収がされていないとシェフが困っていました」
「そうだろうな」
「前に、ゴミ回収の利権は第三エリアのマフィアが握っていると、そうお話してくださいましたよね。
そういうことと思っても良いのですか」
大声でする話ではない。Aはバスルームから出てレスターに近づいた。
「うーん、まあ、そう。
でも、第一エリアで銃ぶっ放したりはしないから大丈夫。資金源から客を逃がすような真似はしないだろ」
いつもヴァイオレットと一緒にいる筈のロベリアがいないのだから、間違いない。クレハドールの素行不良を密告する手紙にも、忙しくなりそうだと書いてあった。今頃、彼女は第三エリアの男たちを相手に、上手く交渉していることだろう。こういう時の売春組合だ。
レスターは両腕を組んだ。何か腑に落ちない様子だ。
そういうふうに判断しかねているレスターを見るのは初めてで、Aもまた彼を見つめ返す。彼が何に引っ掛かっているのか、計りかねたのだ。
「Eが出てこないのも、そういうことですよね」
「……それは……うやむやにしといた方が身のためだと思う。下手に情報持っちゃうと、さ?」
Aは右下に視線を逸らして言葉を濁す。返事が先細りになっていき、最後の方は殆ど独り言の音量だった。
実際、Aも詳しいことは知らされていない。知りませんでした、で押し通した方が被害が少なくて済む。
いよいよレスターが難しい顔になった。指先で額を抑えている。
確かに頭の痛いことだろう。自分の監視下にあるクレハドールが、いわゆるマフィアの女にちょっかいを出したのだから。
けれど次に彼が口にした言葉は、完全にAの不意を突いた。
「なぜ、EはあれほどNに執着するのです?
彼が反社会的勢力であると仮定するなら、風俗店で働く筈がありませんよね。Nがいない限りは」
深い疑念に満ちた視線だった。
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