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☆29.リベンジ・セッション

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※この回はスパンキングのみではありますが、A×レスターなので、お嫌いな方は飛ばしてお読みください。




 翌日、Aは目を覚ますや寝ぐせもそのままに、枕元で紅茶を淹れていたレスターを見た。
 彼は、寝起きに相応しくない意思の籠った視線に、カップを差し出そうとする手を一度止めた。無言のまま、理由を問うてくる。

「昨日のは良くなかった」

 Aは顔中に不満をまぶして断言した。

「Eに鞭で打たれたときは、もっと達成感みたいなのがあった。
 昨日のは全然ダメだった。俺はムカついただけだし、お前だって打たれ甲斐がなかっただろ」

 レスターの頬はいつも通り白かった。化粧で誤魔化しているのだろう。あれだけの力で打ったのだから、痣くらい出来ているに決まっている。

「だから今夜、店を閉めて帰ってきたら、改めてお前を打つ」
「A、」

 レスターはカップをサイドテーブルに置いた。
 いつものように窘めにかかってくるときの彼の声音だ。Aは人差し指を立てて、彼に口を閉じさせる。レスターと同じ土俵に上がったら負けるに決まっている。
 従者を演じる彼は、渋々それに従った。

「お前も俺に打たれると思って、夜を待ってろ。
 俺には知識も経験も足りてないし、共同経営者みたいなDomでもない。
 でも、だから、せめて心だけは込める。
 協力しろ。ふたりで満足するためには、お前の協力が必要だ」
「…………、は」

 レスターは逡巡していたようだった。それから指先で中指で眼鏡のブリッジを押した。何故、こんなにAがやる気を出すのか測りかねたが、結局答えには至らなかったようだった。

「まあ、いいでしょう。私が焚きつけたことですし。
 責任を取ります」

 その返答で、ようやくいつもの朝に戻った。
 Aは少しだけ温くなった紅茶を飲み、昨日テーラーから受け取ったスーツに袖を通した。本命のフルオーダーではなくパターンオーダーだったが、いつものに比べると段違いに着心地が良い。レスターとしては、いよいよ明日に迫った会食に向けて、Aに緊張感を持たせたかったのだろう。

 けれど、Aは今夜のことしか考えていなかった。
 レスターの飼い主への対抗意識というより、彼を満足させられなかったことがAを奮起させていた。
 昨日のAの一撃は、レスターにもう二度と手に入らないものを意識させただけだった。それではダメだ。ベッドに倒れ伏した彼の身体からは、解消のしようがない情欲と共に寂しさが漂っていた。

 そういう寂しさをほんの一時、忘れさせるためにレッドライト売春地区という受け皿があるのであり、Aはそこで生まれ育ったのだ。
 やらないわけにはいかない。金銭を抜きにしても残る、習い性だ。



 その日、Aは一日中落ち着かなかった。注意力が散漫になり、一脚で三日分の給料に相当するようなグラスを割りそうになってしまった。
 本当に一日中、レスターのことだけを考えていた。

 一緒にカウンターバーに入ったクレハドールは、Aの不手際に呆れた様子だったが、先日のこともあり、面と向かって文句を言ってこなかった。

 それ以外は特にトラブルもなく、深夜、無事に閉店を迎えた。
 Aは事務所へレスターを呼びに行った。一緒のホテルに帰るので、送迎の車には相乗りすることにしていたからだ。

 事務所のドアを開けると、彼はまだ何か作業をしているようで、古いパソコンを叩いている。いつもこの時間帯には、さっさと帰り支度を済ませているのに珍しい。

「まだかかりそうか?」
「……いえ、もう終わります」

 レスターはちょっと顔を上げて、眼鏡のブリッジを押した。不機嫌そうだ。いや、不機嫌というよりは何かを押し殺している感じがする。

「もしかして」

 Aは事務椅子を引いて、彼の隣に腰を下ろした。レスターの横顔が冷たいのはいつもと変わらないが、今日はいつも以上に、目に見えないバリアが張られている気がする。

「緊張してる?」
「自分の都合の良いように解釈しないで下さい」
「俺はしてる」
「昨日、失敗しましたからね」

 こちらを見ないままタイピングを続けているレスターの手に触れた。手袋を嵌めていない、素肌はきめ細やかで少しの傷もなかった。

「……だから、今日はちゃんとしたい」

 取り付く島もない返事を物ともせず、Aは率直に答える。
 彼は眉をひそめてAに顔を向けた。何か言いたげに口を開いたのに、一度、それを閉じてしまった。ちら、と視線だけ他所へ向け、またAを見た。
 目線の落ち着かなさが、彼の動揺を物語っている。

「そんな目で見るの、止めて貰えませんか」

 そっと手を振り払われる。
 今度はAが狼狽える番だった。緊張も興奮も、約束の時間が近づくにつれて高まってきている。貞操帯の中でペニスが窮屈になって、否応なく意識させられてしまう。

 だから、自分がそんな目をしているのは自覚があった。
 けれどそれを受けて、レスターまで恥じらいを感じたらしいのは全くの予想外だった。

 どのくらいの期間、彼がこういった職業をしてきたのか、Aには知るべくもない。けれど、少なくとも劣情を含んだ視線を向けられることには慣れ切ってしまっていると思っていた。当然のように視線を浴びて、思うが儘に操っている筈だと。

 目の前のレスターは、Aの思い描いていた姿とは違った。彼の手管手練に騙されているのかもしれなかったが、それでも良かった。
 少なくとも、今の否定の形をした誘い文句を、可愛いと思ったAの心は本物だからだ。

「…………、」

 長い沈黙だった。
 事務所にキーボードの打鍵音だけが響く。
 いつもはリズミカルなそれが時折乱れると、Aの興奮も呼応した。打鍵音を通して、レスターの緊張を聞いているような気になってくる。
 Aは椅子の上で両膝を擦り合わせた。ひどく落ち着かない。黙っていれば黙っているだけ、事務所に劣情が充満していく。

 とうとうAは振り払われた手を、もう一度握り込んだ。今度は振り払われないくらいに、強く。

「もういいだろ」

 声が掠れた声が出た。
 それが何を示しているのか、分からないレスターではない。

 彼の手を握ったまま送迎の車に乗り込む。さすがの売春地区も寝静まる寸前で人通りは少なかった。あまりにもスルスルと一等区へ向かって車が進んでしまうので、返って焦ってしまう。
 車内でも会話はなかった。

 これから彼と行うのは、セックスではなくスパンキングなのに、沈黙の気まずさから逃げるために向けた車窓の外で、「LOVE」や「HUNG」のネオンサインが流れていけば、意識せざるを得ない。

 ふと、レスターの方からAの手を握り返してきた。
 Aもより強く手に力を込めて答えた。
 合わさった手のひらが互いの熱を交換し合い、鼓動がリズムを合わせていくような気がした。これから一緒に気持ち良くなるためのことをするのだ、という連帯感が高揚を倍増させる。

 ホテルにつき、Aはレスターを伴ったまま自室へ戻った。マナー違反の早歩きだったが、気が急いて周囲の眼など気にする余裕がなかった。

 自室のドアを乱暴に閉め、レスターをベッドに投げ出すように押しやる。
 レスターはAを睨み上げた。
 いや、彼もまたAと同じように興奮し、挑発してきている。自分から眼鏡を外すと、くっと頸を持ち上げた。いつもは視界に入らない喉仏がシャツの襟の合間から覗いた。食べたものが透けそうなほどに白い。
 Aはポケットから細い鎖を出すと、間も惜しいとばかりにジャケットを脱ぎ捨てる。

「今日、どうやってレスターを打とうか、ずっと考えてた」

 声が唸るように低くなる。
 募らせた情欲の分だけ、男の声は低くなる。
 彼の目の前に鎖を垂らして見せた。それはネックレスチェーンだった。男の手なら引き千切れるくらいの華奢な造りだ。
 ネックレスチェーンの端を彼の頬に落し、感触を確かめさせる。

「舌を出して」

 レスターは訝しんだ様子を見せたが、今さら興奮の抑えは効かないらしい。綺麗に並んだ白い歯列の合間から、桃色の舌とピアスが現れた。

「ッ、」

 彼が息を飲んだ。信じられない、とばかりに眼が見開かれる。瞳孔が猫のように縦長に狭まる。
 Aがチェーンの留め金を外して一本の紐状にした上で、舌のリングピアスに改めてネックレスの留め金を掛けたからだ。

「お前の、こうやって使うんだろ?」

 Aは犬のリードを引っ張るように、チェーンをピンと張った。
 首輪を引っ張られたレスターは、本能的に恐れ、頭を引っ張られる方へ押し出した。
 張り詰めていたチェーンに弛みが出来る。

「ダメだ。元の位置まで下がれ」

 Aに軽く額を押され、彼は瞳を潤ませた。涙の膜が眼球を覆い、今にも目尻から零れ落ちそうになった。

「は、ひゃ、って、」

 待って、と訴えたいだろうに、まともに発音も出来ていない。
 共同経営者はこうやって、レスターの高い知性に基づく指摘や批判を封じたのだろう。

「下がって」

 真っ直ぐに見つめたまま言ってやると、彼はさらに呼吸を乱した。ハッ、ハッ、と犬のように吐き出される呼気が、チェーンを持つAの手を湿らせた。
 泣きそうになりながら、レスターは弛みが無くなる位置まで下がった。彼の視線はピアスと留め具に縫い付けられたままだ。緊張もそこ一転に集中しているだろう。

「強く叩きすぎて、舌が裂けたらごめんな?」

 レスターが一番恐怖しているだろうことを、わざと言ってやると、彼は嗚咽を漏らし始めた。あれほど理知的な彼が、幼児のように洟を垂らさんばかりだ。
 熟練の調教師なら加減ができる。
 Aにはできない。
 レスターの頭の中は混乱でいっぱいだろう。
 ……それでも、従順に舌を閉じることを我慢している。打たれることを期待しているのだ。
 頬を張られて、首が動き、繋がれた舌が裂ける。そういう恐怖と裏返しに在るスリルへの期待だ。

「かわいい、」

 サービスしてやってもいい。
 Aは思わず舌なめずりした。今まで感じたことのないものが、唾液になって溢れ出したのだ。これが支配する側の高揚感なのだろうか。全身が熱く漲っている。
 とりわけペニスはその比ではなかった。レスターの舌を引き裂けるチェーンを持つ手より、ずっと熱い。窮屈で痛い。

 これでいい、と思った。
 舌が裂けるかもしれないという緊張を、張り詰めた痛みを、共に味わってこそだ。

 Aは利き手を振り上げた。
 レスターの白い面が、Aの手の形に陰る。
 ヒステリックな打擲音が反響して暖炉の炎を揺らした。
 声にならない絶叫と影が部屋に踊った。
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