Sub専門風俗店「キャバレー・ヴォルテール」

アル中お燗

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9.ヴァルプルギスの夜に会いましょう

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 Aは道路に飛び出すとタクシーを捕まえ、有無を言わさずヴェルナーを押し込んだ。胸ポケットに紙幣を何枚か突っ込むのも忘れない。

「レッドライト地区から出してくれ」

 お決まりの手合いなのだろう。運転手は頷いてタクシーを出す。
 タクシーの尻を見送る間もなく、Aはヴォルテールに向かって駆け出した。
 二十三時。レッドライト地区が本格的に賑やかになる時間帯だ。観光客はとっくに相手を決めて遊んでいるだろう。うろついているのは、地元民だけだ。
 煌々と赤やピンク、紫といったライトが流れていく。

「おいA、遊んでいけよ」

 顔見知りの客引きが声をかけてきたが、構っていられない。
 背後で客引きが自分の相方と「文無しらしいぜ」と嗤ったのが遠ざかる。

 むしょうに共同経営者に会いたい。それだけがAを逸らせた。
 今、会わなければいけなかった。
 彼と会ったのは、一番最初のパプ、それからヴォルテールのプレオープンだけだ。それからはずっと会っていない。

 共同経営者に指名が入った時、彼は必ずレッドライト地区から離れた、移民が少ない治安の良い地区のホテルへ出向く。共同経営者を指名できるのはごく限られている。上客をレッドライト地区にはこさせられないという理由だ。
 といっても、車を出すレスターやヴィクトルがそう言っているだけで、真実かどうかは分からない。

 Aは息を切らせながら、ヴォルテールの裏口から二階に上がった。
 一度も使われていないプレイルームのドアの前に立つ。人がいる気配はなかった。きっと共同経営者はいない。
 けれど、数日前、ここにいた名残りがあるかもしれない。
 ささやかな期待が、Aにドアノブを回させた。

 ──キィ。

「はっ、はっ、はっ、」

 走ってきたせいか、緊張のためか、あるいはその両方。息が上がる。
 Aは刮目して部屋を見回した。

 従業員控室の延長のような設えだ。
 立派な造りの椅子が一脚、部屋の中央に置かれていた。それこそ、おとぎ話で王様が座っていそうな、重厚な造りだ。黒い木材のひじ掛けの先に獅子の彫刻が施されている。背凭れは長く、座ったとき頭の位置に光背が差しているようなデザインになっている。

「……はぁ、……はぁ、」

 ただ、座るべき人がいなかった。
 人が使用した気配すらなく、室内は店頭のディスプレイの匂いをさせている。

 Aはとてつもない喪失感に襲われた。
 思わず膝をついた。
 服の上から胸を探ると、内ポケットでヴェルナーから巻き上げた紙幣の手触りがあった。

「…………っく、」

 パブで自分の人生が変わると思った。
 ヴォルテールを始めたとき、第一歩を踏み出せたと思った。
 なのに、何も変わっていない。

 また彼に会って、変われるはずだと信じさせて欲しいのに。
 Aは上着を脱ぐと逆さに振った。毛長の絨毯の上に紙幣が散らばる。まるで我が身から出た垢のようだった。

「A、何をしているんですか」

 レスターだ。眉を吊り上げている。
 咎められてるのは分かっているが、声を発する気力すら湧いてこない。

「応接間に来てください。売春組合のヴァイオレット様とロベリア様がお待ちです。
 例のサロンの件で。
 ああ、着替えてくださいね」

 売春組合という単語に、Aはやっと顔を上げる。侮蔑的なレスターの視線を真正面から受けてしまった。
 体中が汗まみれだし、ヴェルナーのせいで上着にはポテトの脂がしみ込んでいる。おまけに労働階級向けのパブの床でかき集めた金。レスターの目付きは当然だった。
 Aだって十数分前まで、同じ目付きでヴェルナーを見ていたのだ。

「何があったか知りませんが、これからビジネスの話です。しっかりして貰わないと困ります。
 腑抜けたままなら、ぶちますよ」

 Aはぐっと奥歯を噛むと、レスターに顔を差し出した。

「頼む」

 予想外だったのだろう。レスターが僅かに眼を見開いた。アルビノめいた赤い光彩が締まった。が、すぐに口の端を僅かに持ち上げる。Aの頬に左手を添え、逃げられないよう固定する。

「いきますよ」

 レスターはビビらせるように、黒革の手袋を嵌めた右手をAに見せ付けてから振り上げる。天井のライトが遮られ、Aの顔に影が落ちる。
 ──乾いた音が、プレイルームに残響した。

「っ……、」

 絶対に痛いと言ってやるものかと決めていたが、やはり息が漏れてしまった。Aは渋面になり頬をさする。ぶたれた瞬間は鋭い衝撃だけを感じたが、時間差を置いてじわじわと熱を帯びてくる。

「もう一発いかがです?」
「……いや、おかげで目が覚めた」

 Aは立ち上がると上着と紙幣を拾い、プレイルームを後にした。
 事務所にある、自分用のロッカーで着替えを済ませる。
 乱れた髪にブラシを入れながら、Aは今しがたのレスターを思い返していた。

 頬を張る寸前のレスターの言葉尻に、僅かに色気が滲んでいた。手を振り下ろした後には、興奮の温度すら感じられた。あれはAに必要だからというより、彼自身がぶちたかったから提案してきたのだ。
 相手の反応を能動的に引き出す。
 そうか。あれがいつもここヴォルテールで行われている行為なのか。

 Aは彼らと客のプレイを見たことがなかった。プライバシーにかかわる。なによりも、他人の下半身事情は見飽きるを通り越して、食傷気味ですらあるからだ。
 しかし妙に新鮮な気分だった。

 Aはロッカーのドアについている鏡で自分の姿を確認すると、応接間へと向かった。
 ドアノブを握り、深呼吸する。

「…………ふぅ」

 売春組合の婆さんたちは、Aが生まれるよりずっと前からレッドライト地区を牛耳ってる、魔女と恐れられているほどのやり手だ。
 ここ売春街で生まれ育ったAは、ずっと頭を撫でられてきた。だがもう撫でられて喜ぶ歳はとうに過ぎている。対等な大人同士の交渉をしなくてはならない。

 サロンの話が頓挫してしまったら、EとNはヴォルテールを去ってしまう。
 Nの客は精神的に弱っている者が多い。Nという避難場所を失えば自殺を図りかねない。Eの客もマズい。Eの代替品を求めて、未熟なDomとのプレイで事故死したらどうする。
 責任の一端が、Aにもあるのではないか?

 Aは腹を決めて、ドアを開けた。

「ずいぶんと待ったわよ、子ネズミちゃん」
「肉のパイをいかが、子ネズミちゃん」

 応接間には、二人の魔女がAを待ち構えていた。
 Aが来るまでの間、二人の相手をしていたのだろう、ヴィクトルもいた。ちらりと視線が合う。下手を打つな、とヴィクトルの眼が念を押してくる。

「こんばんは。ヴァイオレット様、ロベリア様。
 ご足労頂き、まことにありがとうございます。おふたりとも、お変わりなくお綺麗でいらっしゃる」

 Aは笑顔を作った。

「まあ、聞いた? ロベリア。子ネズミちゃんも立派になったわねえ」
「もちろんよヴァイオレット。これなら、話もスムーズに進みそうね。良いことだわ」

 老婆たちは、酒焼けした笑い声をあげる。

 ソファの上で両腕を組み、ふんぞり返っているのがヴァイオレット。細身で若い頃はかなりの美人だったのが想像できる。スタイリッシュなデザインのドレスが人目を引く。

 Aに向かって手製のパイを差して出してくるのがロベリア。いかにもおっとりした温和そうな「おばあちゃん」だが、ヴァイオレットに伴侶として選ばれたからには、何かしらあるのだろう。エプロンドレスのポケットに何が入っているのやら、分かったものではない。

 この二人、どちらも偽名であることには違いないが、どちらとも「貞潔」が花言葉なのだ。

「子ネズミちゃん、高級サロンを開きたいのですって。ちょうど良い物件があるのよ」
「私たちにとっても、思い出深い館なの。
 使わせてあげるには保証人が必要ね。貴族がいいわ」

 ヴァイオレットとロベリアは、戦時中に高級将校を相手に今の地位を築いた。娼婦としてだけではなく、諜報員としても軍から至便されたらしい。そう母から聞いている。Aが生まれる半世紀以上も前の話だ。今は娼婦を管理する側に立って、財を成している。
 ふたりとも辛い経験をしてきた者らしく、女には・・点が甘い。

「半年待ってあげる。それ以上はあたしたちの寿命も保障できないからね」
「楽しみだわあ。ドキドキするわねえ」

 ヴァイオレットとロベリアは互いに手を握り合っている。イチャつくようにマニキュアを施した指がすり合った。

 ……舐められてる。
 まだAがゴミ漁りでしか、腹を満たせないガキだと思っている。

 発作的にAはパイにナイフを突き立てた。

 ガチャン! とテーブルが震え、その場の全員の紅茶が零れんばかりに波打つ。
 突然のAの暴挙に、三人の視線が集まる。

「三か月で構いません。
 ヴァルプルギスの夜にご報告に上がりますよ」

 ニッコリと特上の笑みで魔女たちを威嚇する。
 売春組合のトップは、目玉が飛び出さんばかりに見開き、口を丸く開けている。

 どうだ。
 なけなしの威勢を絞り切って、かましてやった。

 ヴィクトルが額を押さえているのが視界の隅に入ったが、知ったことではなかった。
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