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2.共同経営者

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 Aが初めて共同経営者と会ったのは、レッドライト売春地区にある安いパブだった。売春街にある酒場は宵の口から日の出前まで営業している、勤勉な店が多い。

 その頃、AはDom用の店で雇われ店長をやっていた。
 酷い店だった。個室すらない、フロアを仕切っただけの格安店だ。
 従業員のSubたちは、客のDomにいつも酷い目に合わされていた。客は支配欲を満たすための消耗品として、Subを疲弊させていく。もちろんアフターケアなどされないままだから、サブドロップに陥って不安から失神したりする。

 Aには正義感などない。売春街をねぐらにしているのだ。性格だってスレる。しかしそれでも、Subの扱いには反吐が出そうだった。
 過食する者もいた。自傷に走る者もいた。薬物で夢の世界に逃げる者、セックスにのめり込む者。ろくなやつがいなかったのだ。

 そういうやつらと一緒に仕事をしていれば、当然、気が滅入る。
 開店する前、Subの腕に興奮剤を注射する時の気分の悪さは言い表せない。薬は当たり前みたいに違法だし、安物だからマフィアが混ぜ物をしている。
 Aも従業員たちと変わらず、酒に逃げる日々だった。毎日そうだったし、これからもそうなる筈だった。

 ──三本足のシェパードが、カウベルを鳴らしてパブに入ってくるまでは。

 その日、Aは従業員のマットというSubと一緒だった。マットは典型的なアル中だった。アル中になるしかなかった、という方がより正確だ。

「店辞めたい」

 いつもの繰り言だった。辞めれば居場所がなくなると分かっているのに、口に出さないと気が済まないのだ。Aにもその気持ちが痛いほど分かる。

「オレって、そんなにダメかな。
 優しくして貰えないくらい、ダメなSub?」

 こう絡まれ方が一番、Aを困らせた。ダメじゃないと言ってやりたいが、Usualでは証明のしようがないからだ。
 きっとそのうち良いDomが現れるさ。これもいけない。彼が欲しいのは「いつか」「そのうち」ではなく、今なのだ。

 Aは返答しかねたまま酒を煽った。酔ってるときくらい陽気にやりたいのに、それすら許されない。ひとりでくれば良かった。
 後悔したが、断ったらそれはそれでマットを傷つけただろう。一緒に酒を飲んで愚痴に付き合って貰えるくらいの優しさすら与えられない、ダメな存在なのだと。

 古びたジュークボックスから流れるシャンソンを、カウベルが遮った。
 早朝から不健康な。Aは自分を棚に上げて、来店した客を内心で見下した。
 カッ、カッ、カッ。
 不思議な音が近づいてきた。
 何だろうと脇に首をひねる。

「ひゃっ、」

 マットが片手を跳ね上げた。今までの酔いも醒めるような勢いだ。
 音の正体は犬だった。
 どうやら手の甲を舐められたらしい。

 二本足で立ち上がれば、小柄な成人ほどもありそうなジャーマンシェパードだった。大きさからしてオスだろう。豊かな毛並みの合間から、チラチラと銀色の光が見える。ドッグタグだろうか。

「びっくりした~。どこから来たんだお前。
 おい、やめろって、ふは、ふふ、」

 シェパードはやたらと人懐こかった。マットの太ももに一本だけの前足を乗せ、鼻をスピスピ鳴らせて彼を笑わせた。顔を舐めないのは、訓練が行き届いているせいだろう。

 じゃれ合うマットとシェパードを横目に、Aは安堵と少しの嫉妬を感じた。あれだけ宥めるのに苦心していたのに、動物が相手なら単純なものだ。子供と動物には勝てない。
 その時だった。

「O!」

 突然の呼声に、シェパードが機敏に反応した。鼻先をドアに向ける。
 反応したのは犬だけではなかった。
 Aもマットも、パブの親父やまばらな客たちも、全員がそちらを見た。ハっとした動きで、パブに充満していた酒精の澱みなど霧散していた。

 その声には人を従わせる力があった。
 特別な周波数、ゆらぎのようなものが、その正体なのではないか。今思い返して分析するとそう考えられる。雑踏の中に、妙に印象に残る声が耳に入ってくるのと同じように。

 だが、その時は不思議な引力にただただ圧倒された。心臓が激しく鼓動している。手汗が滲んだ。
 Aは何かに期待していた。何なのかは分からないのに、期待に高揚し始めていた。この声のせいだ。
 声の主が政治家なら、政策など分からなくても支持してしまうに違いない。
 放心状態のAをよそ目に、シェパードはドア目掛けて弾丸のように駆けた。

「勝手にいなくなるなんて、悪い子だ。
 お前がいてくれなければ、私は生きてはいられないというのに」

 Aの隣に座るマットが、ぶるりと身震いした。
 …………ご主人様。
 唇の動きだけで彼はそう呟いた。その表情にはさっきまでの鬱積した陰りが見当たらない。瞬きもせずに恍惚とした笑みを浮かべてその男を見つめ、椅子から降りようとしている。お座りがしたいのだ。あのシェパードのように。

 Aは息を飲んだ。
 今、このSubはどんなGlareを感じているのだろう。
 Domなら毎日店で見ているが、こんなDomは初めてだ。

 時刻は日の出の頃になっていた。愛犬を抱き留めるために膝を折った飼い主らしき人物の姿は、逆光で黒く塗りつぶされている。
 そしてその背後に、四人の男たちが彼を取り囲むようにして立っていた。

 Aは開け放たれたままのドアから差し込む朝日の眩しさに、思わず眼を細めた。
 Domを従え、三本足のシェパードを偏愛する男。

 思わずAは席を立っていた。自分がバカバカしいことを言おうとしているのは分かっている。一笑に付されるだけならともかく、ふざけるなと殴られるかもしれないのも、理性では解かっていた。
 けれどAは興奮していたのだ。自分では止められない。心臓が煩い。体中が熱い。ボディがエンジンの駆動に負けて破裂寸前のイメージだ。

 Aは男の前で膝を折って、目線を合わせた。
 黒い影の中で、宝石のような瞳がAを捉え、煌めく。

「俺と店をやらないか。Sub専門の店。
 欲求不満で病んでるSubが、心底、目障りなんだよ」

 彼の背後にいたひとりがAに向かって手を伸ばす。

「君、先生に何を」
「うるせえ! 俺はこの人と話してんだ!」

 邪魔をする手を振り払う。身なりの良い男に牙を剥いたのは、生れて初めてだった。
 影の中の瞳が声を発する。

「名前は?」
「A。あんたは?」
「…………私には名前がない」

 名前がない。それはAに不思議な感覚を与えた。無理やり言語化するとするなら、シンパシーだろうか。
 さっきは正体が分からなかった期待が、くっきりと像を結んだ。

「じゃあ、共同経営者だ。俺はあんたをそう呼ぶことにする」

 彼はクソみたいな今を変えてくれる。
 そんな予感が体中に漲り、無限のエネルギーが湧き出てくるような気がしていた。

 以来、共同経営者の姿は見ていない。
 あの時の高揚感は、古い記憶が滲んでいくように、日に日に薄れていっている。
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