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1.ヴィクトル・オールグレン

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 ヴァレンタインである。
 世の男女が否応なしに心を浮き立たせる時期が今年も到来した。

 ヴァレンタインの恩恵は、恋人のいる男女に限らない。
 売春組合の会合では、檀上のエリア長が暑苦しく売り上げアップの根性論をぶっている。

 Aは安っぽい椅子が並べられた末席でうとうとと船を漕いでいた。風俗店の閉店時間は遅い。午前三時に閉店、その後、後始末と売上の管理。床についたのは、勤勉な人間なら起き出す時間帯だ。
 かくり、と首が落ちたので、Aは心地よいうたた寝から強制的に目覚めさせられた。鬱陶しく思いながら拳で眼をこする。

 と、檀上からの子守歌が止んでいるのに気が付いた。
 それどころか、たちまち眠気を霧散させるような、妙な空気が室内に充満しているのに気が付いた。それから無数の突き刺さるような視線も。レッドライト売春地区に店を構える代表者たちの、嫉妬や敵意といったおよそ歓迎できない負の感情がAに向けられている。

「えっ、えっ、」

 Aは戸惑った。きょろきょろと辺りを見回す。まるで敵陣の真ん中に放り込まれたようだ。
 いくら時期がヴァレンタインであろうと、会合で居眠りを許さないような真面目な組合員などいない筈だ。実際、さっきまでAの両隣の男たちだって、疲労の色も露わに船を漕いでいたのだから。

「子ネズミちゃん、聞いてなかったの?」

 エリア長はすでに引っ込み、檀上には売春組合の組合長、ヴァイオレットとロベリアが立っていた。裏で百合ババアと呼ばれているこのふたりは、同時に魔女と評されるほどのやり手だ。ババアたちに睨まれるとこの街ではまともに商売ができなくなる。
 Aは泡を食って立ち上がると、卑屈な角度にまで頭を下げた。数か月前に店を出したばかりなのだ。

「すみません! もう一度お願いします!」

 やれやれとばかりに、キツそうな方のババアが肩を竦める。

「子ネズミちゃんの店に、ひとつ飾り窓を割り当てると言ったのよ」
「ヴァレンタインの間だけね」

 ふんわりした方のババアが補足する。
 そこでAは、この無数の刺々しい視線の意味を理解した。

 レッドライト地区には、観光客用のメインストリートがある。このストリートの両脇に軒を連ねるのが、赤いライトで照らし出された飾り窓だ。
 Aが生まれる以前は、窓を開ければカーテンで仕切られた続きの間で楽しめるというシステムだったらしいが、今では生きる看板としての役割が大きい。
 だからどの店も限りある飾り窓を狙っている。

 それをAが経営するキワモノの店に、貴重なヴァレンタインシーズンに一枠を取られたのだから、敵視されて当然というわけだ。
 百合ババアに文句が言えないから、余計にヘイトがAに向かう。

 Aは泣く泣くお追従を口にした。顔面の筋肉と腹の内を乖離させることには慣れている。母親が売春婦だったからだ。

「わ、わぁ~。チャンスを貰えて光栄ですぅ。
 頑張ってノルマ達成しまぁす」

 深夜のテンションを引きずっていたためか、型にはめたようなぶりっ子になってしまった。口に出し切ってしまってから、自分自身の底の浅さに落ち込んだ。
 場の沈黙が妙に寒かった。



 Aの経営する店、キャバレー・ヴォルテールは、レッドライト地区でも数少ない第二性を売りにしている。男女とは異なる、第二の性。それがダイナミクス性だ。

 客の大半はSubと呼ばれる庇護を求める性を持つ者で、だからヴォルテールには最高級のDomたちを揃えている。Domというのは、Subと対を成す存在で支配する性だ。

 A自身は、Usualというどちらの性にも偏らない性なので、どちらの感覚も今一つ実感が湧かずにいる。早い話がマゾ相手のSMクラブみたいなものだ。
 今のところ店の滑り出しは順調だ。Domの質が良いというのもあるが、忙しない世の中だ。身体を他人に預けられるまで信頼関係を築く時間を作れないというSubは意外に多い。

 無事に無傷のまま自分の店に帰ってきたAは、その足で従業員控え室へ足を向けた。
 控え室といっても、店内より豪華に設えてある。一等区の一部を移し替えたようなものだ。従業員であるセラフィムが大の骨董好きで、いつの間にかそうなっていた。
 経費で買ったわけではないので、経営者のAとしては何の問題もない。

 問題はないというか経営者とは名ばかりの、雇われ店長のようなものなので発言力は従業員以下。反対すれば足蹴にされることが目に見えている。
 控室のドアを開けると、まだ時間が早いせいか従業員はひとりしか来ていなかった。

「やあ。会合はどうだった?」

 Domのひとりであるヴィクトルが人懐こい笑顔で歓待する。
 ゴールデンレトリバーのような濃い金髪。生気に満ちた紅茶色の瞳。肌は健康的に焼けている。彼を初見で嫌う人間は、よほど卑屈な者だけだろう。
 Aは卑屈な貧乏人なので、「人が好さそう」を絵に描いたようなヴィクトルが少し苦手だ。東洋人のAには彼のハグは力強過ぎる。自分をまだ仔犬だと思っている大型犬のようだ。

「最悪」

 Aはヴィクトルの腕から逃げ、会合とハグの感想をひとつ纏めにした。

「ヴァレンタインシーズン、飾り窓に立てってさ。
 最初はヴィクトルがやってくれよ。インテリアも任させるから」
「いつから?」
「今夜」

 マホガニーのリカーキャビネットからAの好きなボトルを取り出していたヴィクトルは、さすがに驚いたようだった。差し出されたグラスに注がれた酒の量が上品ではない。

「インテリアって言われても、急すぎるよ。
 ……椅子とカラースタンド置いとけば良い?」
「良いよ」
「軽く言うなあ」

 呆れたように破顔するヴィクトルを横目に、Aはグラスのふちに唇を付けた。脳を蒸留酒に漬けこまれたような酩酊感に包まれる。香りも良い。オリス、クパペ、ジュニパー・ベリー、アーモンド。舌と鼻で拾えるボタニカルはそれだけだ。
 高い酒は、工業製品の味がしないというだけで価値がある。
 咥内で揮発したアルコールを逃がすように、息をつく。

 数か月前にオープンしたばかりこの店にわざわざ飾り窓をあてがったのは、少しばかり儲け過ぎたのが原因だろう。売春組合に「お仲間に入れさせてください」という殊勝な態度を、行動で示せと釘を刺してきたに過ぎない。
 ばからしい。Aはグラスを中ほどまで流し込んだ。

「なあ、あれなの?
 やっぱ共同経営者は店に出てくれないの? ヴァレンタインだけでいいんだけど」
「……マスターのこと、客寄せパンダみたいに言うの止めてね」

 ヴィクトルに渋い顔で窘められてしまった。
 共同経営者もDomだ。それも従業員たちの中でも飛び抜けてDom性が強い。Subに対して使われるコマンドの中でもメジャーな「Kneelおすわり」の一言で、一週間は酒浸りの生活ができるだけの金が落ちてくる。
 その一言は、麻薬の女王を上回る快楽が得られるという。

 Aはダイナミクス性など厄介なだけで、心底、Usualで良かったと思っているクチだが、それだけは残念でならない。身体に負担のかからない薬物は奇跡の御業だ。依存性はあるかもしれないが。

 共同経営者がちょっと顔を出してくれるだけで、かなりの儲けになるのに。口に出すとまた何を言われるか分からないので、腹の中だけで愚痴る。
 ぐ、と酒を飲み干すと、それを待っていたかのようにヴィクトルがAの両脇に手を差し入れ、力任せに立たせた。

「スタンド運ぶの手伝って」
「……はい」

 圧のある笑顔を向けられ、Aはしおしおと頷いた。痛いのも恐いのも嫌いなのだ。レッドライト地区の治安は最悪で、Aは生れも育ちもこの地区だがまず慣れるということがない。

 二階にある専用のプレイルームから、メインストリートまで、ふたりして椅子とカラースタンドを持ち出す。
 椅子担当のヴィクトルはともかく、Aはケバい色のカラー首輪をいくつもぶら下げたスタンドなので、一目でそういう店の人間だと分かってしまう。すれ違う観光客に指を指され、スマートフォンで勝手に撮影され、早くもうんざりしてしまう。

 二月初旬の凍った空気が、せっかく暖房と酒で暖まった身体を冷やしていく。たまらずくしゃみが出た頃、ようやく目的のガラス張りのルービックキューブみたいな建物に辿り着いた。
 Aは窓のひとつに借り物の鍵を差し込んだ。

「うわ、けっこう寒いね」

 初めて窓の中に入ったヴィクトルが、物珍しげに周囲を見回しながら暖房の心配をし始める。

「うちは服を着てられるだけマシな方だろ。
 大半の店の女は下着姿だぞ」

 椅子を中央に、カラースタンドを左手の奥に配置したところで、Aは具合を見るために、一旦、窓の外に出た。
 窓の中から、椅子に座ったヴィクトルが愛想良く手を振ってくる。
 ガラス一枚越しに見るだけで、一気に「商品」という気配が漂ってくるから不思議だ。

 現に、Aの背後で観光客らしき集団が、まさに物色という視線をヴィクトルに向け、声を弾ませている。全員がティーンエイジャーで、いかにもSubという顔付きだ。きっとろくにプレイも経験していないに違いない。

 ヴィクトルは人当りも良いし、いつも笑顔だから、痛いのや汚いのは嫌だという初心者が遊ぶにはちょうど良い相手だ。
 欠点があるとしたら、Subたちが遠からず彼を「卒業」してしまうことだろう。男が巨乳でマスターベーションを覚えて、脇やら尻やらに細分化していくのと似ている。

 Aは笑顔を作って振り返ると、分厚いコートのポケットに突っ込んでいたショップカードを観光客にばら撒いた。
 確かに客寄せパンダの装置としては、飾り窓は優良だなあと思った。

 ……Domさえ素直にパンダになってくれたら、の話だが。
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