怪奇幻想恐怖短編集

春泥

文字の大きさ
上 下
34 / 56

死せる物語の湖

しおりを挟む
 泣きながら本を湖に沈めているひとがいる。
 本を真ん中で開いて、ページを下にして、そっと水面に浮かべると、まるで小舟のようにすうっと岸から離れていく。

 そのままどこまでも航海(湖だけど)していくのかも。
 
 しかし本は、次第に水を吸って重くなるのか、流れがゆっくりになり、だんだん沈んで、ついには水面の下に潜ってしまう。
 澄んだ緑色の水の中へ、なかへと、本は沈んでいく。
 岸辺でそれを見ていたひとは、両手に顔をうずめて、いっそう泣いた。

――泣くぐらいなら、どうして本を手放したりするんですか?

 自然と口から出ていた。泣いているひとに対して、ちょっと意地悪な質問だと思う。

――だって、物語は死んでしまったのだもの。

 そう言ってその女のひとは、さめざめと泣いた。指の間からしたたり落ちる涙が、湖の水面に小さな波紋を起こす。湖の水は、あんがい塩っ辛いのかもしれない。

   *

 暗闇の中で目を覚ます。夢を見ていたことは覚えていたが、もうすでに大半を忘れてしまっている。わずかに残る断片は、鬱蒼と茂る木々、銀色に光る――水? それから

 きれいな、女のひと

 でもそんな夢のかけらも、すぐに少年の手をすり抜けて消えてしまう。ただ、いつもの夢をまた見たのだという記憶だけが、ぼんやりと残る。
 少年は鼻をすすりあげた。

 また、泣いていた。

 寝ながら泣いているなんてことは、絶対に誰にも言うことはできない。枕にごしごしと顔をすりつけて、乾いている方に寝返りをうって、布団を頭からかぶる。

 このまま夜が明けなければいいのに。

 そう思いながら、夜明けまでの束の間の眠りにおちる。もう夢は見なかった。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

浮気三昧の屑彼氏を捨てて後宮に入り、はや1ヶ月が経ちました

BL / 完結 24h.ポイント:363pt お気に入り:915

英雄転生~今世こそのんびり旅?~

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:2,417

処理中です...