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20巻
20-2
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ネオジオは頷いて私に応え、預けてある兵士達の様子を報告してくる。
「兵達の士気は問題ありませんぞ。規律の方も今のところ緩んではおりません。補佐官殿がセリナ殿と節度を持って接しておられましたのでな」
「男ばかりのところに女性がセリナ一人という環境なのだ。私とて少しは周囲へ配慮もするさ。ジャルラに着いたら、その反動で皆が過剰に浮かれないように祈るよ。ところで、ラミアに対しては流石に慣れてきたかな? ベルン村出身者ならばともかく、他の土地で生まれ育った者達にとって、ラミアは魔物だという認識がある。セリナの存在はもう噂で知れ渡っていただろうが、やはり実物を見れば恐れもしよう」
「そちらも概ね問題はありません。ベルン村でのセリナ殿の慕われようと働きぶりは、兵らもしっかりと目にしておりますし、慣れた者の中には失礼ながら鼻の下を伸ばす不届き者もおりますでな。ジャルラで麗しいご婦人方に声を掛けられれば、ホイホイとついていってしまう者が出ないよう、注意しなければならんほどです。今回の人選についてはあえてのものでしょうが、若い連中にとっては、戦場に出るのとは違った意味で過酷だったかもしれません」
「そうか、個人的には異種間交流は歓迎するが、何事にも順序がある。先方の意思も方針も考慮しなければならぬし、もう少し我慢してもらおう。さて、日数の方は事前の予定通りとして、荷の消費はどうかな?」
シュマルに尋ねると、こちらもネオジオと同じく淀みなく答えが返ってくる。想定済みの質問だったのだろう。
「こちらは事前に想定した誤差の範囲内の消費量です。沼地を中継地点として使えれば、ジャルラ、ベルン間での物資の枯渇を心配する必要はなくなるでしょう。エンテの森を経由する道を避けて、暗黒の荒野方面からの経路を開拓するという目的も、まずは達成出来そうで何よりです。ジャルラの里の地理にもよりますが、ウアラの民同様に河川を用いた交通路も作れるかもしれませんし、補佐官殿には期待せざるを得ません。山脈を徒歩で往来するのと河川を利用するのでは、速度も一度に運べる荷の量もまるで違いますからな」
私はベルン村を出立した時から――いや、セリナへの愛情をはっきりと認めた時から変わらぬ決意を口にする。
「責任重大だな。改めて語るまでもないが、最良の結果を得られるように最大の努力を尽くすとも」
私にとって今回の訪問は、公人としての立場の他に、私人としての事情が込み入っているのだが……それはこの場に居ない兵士達に至るまで察しているだろうなあ。
セリナは真剣な眼差しで闇夜に天高くそびえるモレス山脈を見つめながら呟く。
「暗黒の荒野の問題もあります。モレス山脈にまで手が伸びるかは分かりませんが、その脅威を伝えれば、決して間違った選択はしないはずです」
セリナにとって今回の使節団への帯同は、生まれ故郷が、数年内に発生するだろう戦渦に巻き込まれるのを防ぐ為、あるいはその被害を最小限に留める為の帰還でもある。
使節団の中にあって、最もジャルラとの未来を案じ、憂えているのはセリナに他ならない。であるならば、彼女の胸の内に去来している不安の雲を晴らすのが、私の何よりの役目である。
†
野営地から出発した私達は、予定通りにモレス山脈へと進路をとった。
岩石と幾ばくかの緑が点在するばかりの荒涼としていた暗黒の荒野の光景だが、山脈に近づくに従って徐々に緑の割合が増え、生き物の姿を見かける頻度も増していく。
モレス山脈の麓はエンテの森から続く深い森林地帯で、山脈から流れる大小無数の河川と豊富な地下水脈によって、無数の命が生きる豊潤な大地になっている。
セリナがジャルラを出た際、彼女は川沿いに進んで最も近い人間の集落、つまりベルン村に近づき、そこから一旦暗黒の荒野側に進路をとった。そして、リザード族の住んでいた沼地で休んでいたところで私と出会っている。
今回はセリナの進路を逆に辿る形になったわけだ。
今後の戦乱を見据えれば、モレス山脈と沼地の間に砦の一つくらいは用意しておきたいものだな、ふむん。
ありがたい事に、モレス山脈麓の森林地帯では、現地のウッドエルフや獣人達が私達の到着を待っており、森林地帯を抜けるまで案内役を務めてくれた。
これはエンテの森の世界樹――エンテ・ユグドラシルからのお墨付きを得られたお蔭だろう。森の住人達には効力絶大だが、その分、彼女の期待と信頼を裏切らないようにと身が引き締まる思いだ。
使節団の者以外の人間と会うのは数日ぶりだった上に、案内役の中に女性が複数居たので、団員達がやたらと話したがり、ネオジオの怒鳴り声と共に拳骨が何度か振るわれる羽目になった。
ま、微笑ましいと言える範疇かね。
森林地帯を抜けてモレス山脈に入ると、道らしい道がろくにない険しい道行きとなる。
これまでほとんど人跡がなかった事もあって、ジャルラへの道筋は全くの手つかずだ。
と言うのも、ジャルラは他種族の目から隠蔽するように造られた隠れ里である為、里へと続く道の整備など論外なのだ。
土よりも剥き出しの岩肌が目立つ山道だが、ホースゴーレム達は悪路をものともせずに馬車を引き、兵士達もひいひいと息を切らしながらも追従してくる。
最も足の遅い者に歩調を合わせて、適度に休憩を挟みながらの登山になるので、速度はそう速くはない。
ジャルラまである程度近づいた地点で私達は行進を止めた。
山腹で邪魔な石をどかして木を払い、魔法なども使って地面を均し、あっという間に野営に適切な広場を造る。そうしてから、私はネオジオとシュマルに使節団を委ねた。
ここから先は私とセリナの二人きりで進む。
「これだけ険しい山道では、山脈を下りるだけでも大変だな」
しみじみと語った私の言葉に、セリナが応える。
「まあ、人里から離れるとこういう環境を選ばざるを得ませんから。私の場合は小さい頃からここで育ったので、別に気にはならないのですけれど」
「君達の伴侶探しも苦労が多いな」
「最近は里の人口が増えてきたので、中で相手を見つける娘もちらほら居るのですよ。あまり血が近すぎるのは良くないですから、私みたいに外に出る娘の方がまだまだ多いですけれどね」
「千人前後だったか……セリナと出会った頃のベルン村の三倍以上の人口だな。この環境でよくぞそこまで増やしたと思うよ。ジャルラのような隠れ里は世界中に点在しているだろうが、よその里との交流はあるのかい?」
「ん~、確かエンテの森のどこかにもラミアや蛇人の里があって、何年かに一度くらいは代表同士で連絡を取り合っていたとかいないとか。いずれにせよ、閉鎖的であるのは確かです。女王にならないと教わらない情報も多いと思います」
「重要な情報を知る者は少ないほど漏洩の危険性は少ないか。人間からの扱いを考えれば当然の危機意識だな。今回の訪問が良い方向へと進んでくれれば何よりだが……」
「大丈夫です。ベルン男爵領との交流で良い事がたくさんあるって、精一杯伝えますから。それに、ベルン村だけじゃなくってガロアの辺りまでなら、ラミアが街中を歩いていても少し驚かれるくらいで済むようになりましたし。伊達に一年近くガロアで過ごしたわけじゃありませんよ!」
「ラミアの集団が闊歩するとなれば、ベルン村はともかくガロアであってもまだまだ驚かれてしまうだろう。時間は掛かるが、ラミアが交流可能な存在であるという認識をベルン村から徐々に広げていくのが先かな」
「急ぎすぎると悪い結果になりがちですから、仕方ないですね。それに、伝承みたいな恐ろしい悪さをするラミアだって居るでしょうし」
「人間の中にも極悪人はゴロゴロいるさ。それと同じだよ。さて、そろそろ直接お目に掛かれる頃合いかな」
使節団が山麓に到着した時点で、使い魔と思しき蛇達が何十匹も岩陰などに潜み、じっとこちらの動きを観察していた。
「ところで、あの蛇達はやはりジャルラのラミア達の手のものかな?」
「はい。私達ラミアは体の半分以上が蛇ですから、蛇さんとは意思が通じやすいのです。なので、よく私達の目と耳の代わりをしてもらっています。私もガロアで時々やっていました」
耳に口を寄せてこしょこしょと話し掛けると、セリナは声を潜めて教えてくれた。以前はこれくらいでの事でも恥ずかしがったが、今では流石に慣れたものだ。
「ふむ、自衛策としては妥当なところだろうな。私も簡単な使い魔の契約なら小鳥やら虫やらと結ぶし、利便性が高い。ただ、君達にとっては良き隣人といった意識の方が強いかな?」
「そうですねえ。別に使い魔の契約を結ばなくても意思は通じますが、視覚や聴覚を共有する時には使い魔契約を結ぶのが一番です。今も里から私とドランさん、それに使節団の皆さんを見ているわけですね」
「セリナの連絡を受けてから、隠れ里の者達は使節団が到着するのを一日千秋の思いで待っていたのだろう。ふふ、心して掛からねばな」
ベルンとの交流が上手くいけば、今後は危険を背負わせてまでラミアの少女達を隠れ里から旅立たせる必要がなくなり、安全に伴侶探しが出来るようになる。
一方で、最悪の場合には魔物であるラミアに対する迫害ないしは討伐が行われる可能性も考えていよう。
セリナが操られてジャルラの位置を教えてしまったのか、それとも本当に伴侶として私を見つけ出し、またベルン村との交流を文字通りの意味で進める為に来たのか。それを見極めようとしているのだろう。ふむん。
やがて、私達の監視をしていた蛇達が音もなく気配と姿を消した。
本命の方達がそろそろ姿を見せてくれる前兆かな?
セリナが目印の一つだと教えてくれた赤茶けた大岩を回り込んだ先で、私は自分の予想が間違いではなかったのを確認出来た。
山肌の盛り上がりや岩石の陰に巧妙に隠されたジャルラへの入り口の一つを背に、何人ものラミア達が私達の訪れを待っていたのである。
獣人や人間の姿もいくらか紛れているが、こちらはラミア達の伴侶か、その子供達であろう。生まれてくるのが女の子ならばラミアに、男の子であるならば父親と同じ種族になるのが、ラミアという種族の生態なのだ。
私とセリナの前に立つラミア達は、鮮やかな赤や目の醒めるような青など鱗や髪の色も様々だ。
どうやらそのほとんどがセリナの知り合いのようで、彼女は私の傍らで緊張と安堵を同時に滲ませる。なんとも器用な真似をするものだ。
異種族の雄を誘惑する性質を持つラミアは、個体数の多い人間とその亜種である亜人を誘惑しやすいように、美的基準が高い種族だ。
その美人揃いの真ん中に居るのは、セリナと同じ深緑色の鱗を持つラミアだった。前髪の左右だけを長く伸ばした金髪に、意志の強さを感じさせる瞳は青色。
セリナとの共通項が多いところを見るに、血縁者か――いや、ジャルラの女王を務めているという母君か?
その女性が口を開く。
「遠くベルン村から我らの隠れ里ジャルラへと、よくおいでくださいました。私はジャルラの女王セリベア。そちらのラミア、セリナの母でもあります。お見知り置きを」
挨拶一つとっても、異性を惑わすラミアの特性を充分に理解させる艶めかしさだ。
母としての顔は覗かせず、あくまでもジャルラの代表としての態度を崩さぬセリベア殿を前に、セリナも話し掛けたいのをぐっと堪えて押し黙る。
余人が居ては母と娘としての振る舞いは出来ないか。
話を早めに進めたいものだが、さて。
「ベルン領主クリスティーナ・アルマディア・ベルン男爵の補佐官を務めております、ドラン・ベルレストと申します。この度はベルン男爵の名代として参上仕りました」
「お名前と来訪の目的に関しては、セリナからの知らせで存じておりますわ。まずは我らの里へご案内いたしましょう」
しゅるりと鱗と地面の擦れる僅かな音を立てて、セリベア殿が背を向け、他のラミア達もそれに従う。
セリナが何か言いたそうに母親の背中に視線を送り、他のラミア達は彼女を案じるように見つめたが、セリベア殿は振り返らなかった。ふむん。
セリナも立派な大人なのだし、セリベア殿は集団の代表だ。弁えるべき場なれば、私情を抑えなければならん。
セリベア殿に続き、緩やかな傾斜になっている下り坂を進むと、巨大な自然石を使って建てられた岩戸が私達を待っていた。
岩戸へ続く道から死角になる窪みや岩陰には、押し殺された気配がいくつもある。それなりの手練れでもなければ気付けまい。隠れ里の警備は充分になされているな。
どこかから歯車の噛み合う音が聞こえ、岩戸がゆっくりと左右に引き込まれていく。
その先に繋がる道を進むと、空からの目を誤魔化すように岩壁の中や地下に設けられた家屋が見えてきた。
それぞれの窓から住人達が顔を出し、こちらを覗いている。
ワイバーンやグリフォンをはじめ、モレス山脈には空を飛ぶ魔物や猛獣の類は少なくない。ラミアならばそう簡単に餌食にはならないとはいえ、里には幼い子供や老人も居るのだから、当然の備えか。
「ここでセリナが生まれ育ったのだな」
ラミア達の隠れ里を眺め、ふと零れた私の呟きに、セリナがしみじみと応える。
「はい。ベルン村みたいに皆で助け合って、仲良く暮らしているんですよ。う~ん、私が出立した時と変わりはないですね。良かった」
「ふむ、セリナとしては、まずは一安心か。母君と家族水入らずで話せる時間も必ず来る。それまで少しだけ我慢出来るかい?」
「私はもう立派な大人ですよ? それくらい我慢出来ます。もう、ドランさんは私をいつまで経っても子供扱いするんですから」
「子供扱いしているわけではないよ。大切な伴侶だから慮っているのだ。その違いを理解してもらえると嬉しいね」
「あら、ふふふ、そういう事なら許してあげちゃいます」
「ふむ、それは良かった。やはり言葉にしないと伝わらないものもあると、しみじみ思うよ」
私とセリナが案内をされたのは、ジャルラの中央付近にある岩盤の中を加工して建てられた館だった。
凹凸なく綺麗に研磨された壁には、何かしらの塗料で、ラミアやその伴侶と思しき他種族の雄達が戯画化されて描かれている。
ラミアの生態を分かりやすく描いた壁画と解釈出来るな。
「選挙で選ばれた女王が住む館です。今はママ――ええっと、当代女王セリベアとその夫ジークベルトが住んでいるはずです。前は私もここに住んでいました」
「セリナにとっては懐かしの生まれ故郷に加えて、懐かしの我が家というわけか」
「ただ素敵な旦那様を見つけて帰ってきたという話なら、歓迎されるだけで済んだのですけれど、今回は使節団の案内役もしていますから前代未聞の帰省です」
周りのラミア達は私とセリナが気になって仕方がないようで、チラチラと様子を窺ってくるが、セリベア殿は一度だけこちらを振り返ったきりだ。内心では愛娘の帰還をどう思っているのやら。
ほどなく私達は、モレス山脈で見られる花や動物の他、独特の模様が刺繍された絨毯が敷かれた一室に通された。
室内では、ほのかな香気を発する蝋燭が燃えている。
私達の正面には長机が置かれ、向かいにはセリベア殿が、その左右には妙齢のラミアが一人ずつ、とぐろを巻いた下半身を椅子の代わりにして腰掛けた。セリナもよくしているラミア特有の動作で、私にとっては見慣れたものだな。
他のラミアや夫君達は、警護と私達の監視を兼ねて部屋の扉の傍や壁際に立っている。まあ、当然の警戒だ。
「どうぞお掛けください。ラミアの里ですが、椅子くらいはありますもの」
セリベア殿にそう言われ、私は用意されていた椅子に腰掛ける。
続いてセリナも母親達同様にとぐろを巻いた。
ふむ、私もそれなりに緊張している自覚はあったが、セリナが前代未聞の帰省と言っていたのを鑑みるに、ジャルラ側にとっても今回の事態への対応は暗中模索であろう。
さてさて、そうなるとお互い初体験同士、手探りでより良い落とし所を探し合わねばならんわな。
私はそうして気を引き締めてから視線を落とす。机の上には、ジャルラの方で用意してくれた湯気が立つ赤い飲み物が置かれている。
春を半ば過ぎたとはいえ、山は冷える。待機している使節団の皆にも温かい飲み物を振る舞ってあげたいものだ。
さて、そろそろ話を始めるとしよう。
「ありがとうございます。私共がこちらをお訪ねした目的に関しては、既にご存じの事と思いますが、改めてお伝えいたします。我が主君ベルン男爵は、暗黒の荒野方面への開拓事業の他、エンテの森並びにモレス山脈の諸種族との交流が、領地の発展と民の繁栄に不可欠であると考えておいでです。その為、こちらの里の出身者であるセリナ嬢の知恵を拝借し、本日、ご挨拶に伺った次第です」
私の言葉を聞き、セリベア殿が微笑む。
「補佐官殿、ベルンの方々が再び暗黒の荒野に興味を示された事に関しては、私達も把握しておりました。セリナから伝えられていたというわけではありませんわよ? 暗黒の荒野やエンテの森に棲まう蛇は、時に私達の目や耳の代わりとなってくれますので、周辺の情報程度なら集めるのは難しくありません」
ふむ、さりげなくセリナがベルン男爵領の情報を流したわけではないと擁護されたのかな?
「そうでしたか。それでしたら、既に私共がリザード族や、水竜ウェドロ殿の庇護を受けているウアラの民と関係を構築している事もご存じで?」
「ええ。山脈を登ってくる者は稀ですが、それが集団となれば、いやが上にも注目が集まるのが道理でしょう。その集団の向かう先が、私達と遠からず近からずの距離を保っていたベルンの者なら、なおさらです。それにベルンが賑やかになったのは、今回が二度目ですからね」
「では、話を進めさせていただきたく存じます。私共が用意出来る対価と友好に関する取り決めなどを、こちらの資料にしたためております。一度、お目をお通しください。どうぞ」
セリナは私が預けておいた鞄から資料を取り出して、目の前に座る三人に渡す。
内容は先のリザード族やウアラの民達との交渉とほとんど変わらない。
お互いの集落に大使館を設置する案や、商取引の活発化、お互いの領内で法を犯した者への裁判権や雇用条件、居住を認める条件など数多くの取り決めだ。
魔物と一般に認知されるラミアを人間種と同様に扱い、不当な暴力や差別を加える事を固く禁じる法も明文化した。逆に、ラミアの側も魅了の魔法などで相手の意思を奪う形での誘惑を禁じている。これらは私個人としてもベルン男爵領としても重大事項だ。
種族単位での差異もあり、お互いに不便ないしは不利益を被る点もあるだろうが、双方で妥協点を見つけていくべしと、クリスとも話し合って結論を出している。
セリナから回ってきた資料の全文に目を通し終えたセリベア殿は、内心の読めぬ笑みを浮かべたまま、そっと資料を机の上に置く。
「ベルンの方々からのお申し出は確かに承りました。しかしながら、このジャルラの命運を担う一大事ですので、しばしの猶予を頂戴したく思います。そうお時間はお掛けしませんわ。数日の内に回答いたします。その間、外でお待ちになっている他の使節団の方も、どうぞジャルラにお入りください。少し、里の皆が浮足立つかもしれませんけれど、そこはどうぞご容赦を。外からあれだけ多くの方がいらっしゃるなど、過去にない事ですから」
「寛大なお言葉、感謝に堪えません。使節団の者達には厳しく伝えてありますが、彼らにとってもラミアの方々が住まわれる地を訪れるのは初めての体験ですので、不作法があるかもしれません。ほとんどの者は所帯を持たぬ独り身ですから、ジャルラの方々はいささか刺激的すぎます。何かございましたら、ただちに厳罰をもって処します」
それを聞いて、セリベア殿はあらあら、と笑う。
ふぅむ。
こちらに連絡を入れなければ〝ちょっとした悪戯〟をしても目を瞑りますよ――と、私が言外に臭わせたのを察してくださったようだ。
団員の中には、まだ異性と手を繋いだ事もなさそうな子もちらほら居る。下半身が大蛇とはいえ、ラミアの色気には逆らえないだろう。ふむふむ。
「生真面目でいらっしゃいますのね。補佐官殿も本日はどうぞごゆるりとお休みください。館に部屋をご用意していましてよ。ただ、ジャルラの女王としてではなく、一個人として……ええ、そう、母親として、ぜひとも夫と娘を交えてお話をさせていただきたく思いますの」
口元に笑みを浮かべたセリベア殿の笑っていない瞳が、拒否は絶対に許さぬと私に強く訴え掛けていた。
おおう、今は女王ではなく母親としての顔を前面に押し出してきているな。心なしか、部屋の中に居るラミアの方達も先程よりも険しい視線を私に向けている気がする。
私がセリナに相応しい男かどうか、これから厳しい審査が待っているのだ。私は長机の下から伸びてきたセリナの手を、そっと握り返した。
ふむ、セリナから山ほど勇気を貰えたな。
それにしても、人間であるというセリナの父君はどんな方なのだろう。そしてセリベア殿も私的な場面ではどんな母親なのか。
私の個人的な人生最大の戦場に赴く時が刻一刻と迫っている。
今から心臓が破裂してしまいそうだった。
「兵達の士気は問題ありませんぞ。規律の方も今のところ緩んではおりません。補佐官殿がセリナ殿と節度を持って接しておられましたのでな」
「男ばかりのところに女性がセリナ一人という環境なのだ。私とて少しは周囲へ配慮もするさ。ジャルラに着いたら、その反動で皆が過剰に浮かれないように祈るよ。ところで、ラミアに対しては流石に慣れてきたかな? ベルン村出身者ならばともかく、他の土地で生まれ育った者達にとって、ラミアは魔物だという認識がある。セリナの存在はもう噂で知れ渡っていただろうが、やはり実物を見れば恐れもしよう」
「そちらも概ね問題はありません。ベルン村でのセリナ殿の慕われようと働きぶりは、兵らもしっかりと目にしておりますし、慣れた者の中には失礼ながら鼻の下を伸ばす不届き者もおりますでな。ジャルラで麗しいご婦人方に声を掛けられれば、ホイホイとついていってしまう者が出ないよう、注意しなければならんほどです。今回の人選についてはあえてのものでしょうが、若い連中にとっては、戦場に出るのとは違った意味で過酷だったかもしれません」
「そうか、個人的には異種間交流は歓迎するが、何事にも順序がある。先方の意思も方針も考慮しなければならぬし、もう少し我慢してもらおう。さて、日数の方は事前の予定通りとして、荷の消費はどうかな?」
シュマルに尋ねると、こちらもネオジオと同じく淀みなく答えが返ってくる。想定済みの質問だったのだろう。
「こちらは事前に想定した誤差の範囲内の消費量です。沼地を中継地点として使えれば、ジャルラ、ベルン間での物資の枯渇を心配する必要はなくなるでしょう。エンテの森を経由する道を避けて、暗黒の荒野方面からの経路を開拓するという目的も、まずは達成出来そうで何よりです。ジャルラの里の地理にもよりますが、ウアラの民同様に河川を用いた交通路も作れるかもしれませんし、補佐官殿には期待せざるを得ません。山脈を徒歩で往来するのと河川を利用するのでは、速度も一度に運べる荷の量もまるで違いますからな」
私はベルン村を出立した時から――いや、セリナへの愛情をはっきりと認めた時から変わらぬ決意を口にする。
「責任重大だな。改めて語るまでもないが、最良の結果を得られるように最大の努力を尽くすとも」
私にとって今回の訪問は、公人としての立場の他に、私人としての事情が込み入っているのだが……それはこの場に居ない兵士達に至るまで察しているだろうなあ。
セリナは真剣な眼差しで闇夜に天高くそびえるモレス山脈を見つめながら呟く。
「暗黒の荒野の問題もあります。モレス山脈にまで手が伸びるかは分かりませんが、その脅威を伝えれば、決して間違った選択はしないはずです」
セリナにとって今回の使節団への帯同は、生まれ故郷が、数年内に発生するだろう戦渦に巻き込まれるのを防ぐ為、あるいはその被害を最小限に留める為の帰還でもある。
使節団の中にあって、最もジャルラとの未来を案じ、憂えているのはセリナに他ならない。であるならば、彼女の胸の内に去来している不安の雲を晴らすのが、私の何よりの役目である。
†
野営地から出発した私達は、予定通りにモレス山脈へと進路をとった。
岩石と幾ばくかの緑が点在するばかりの荒涼としていた暗黒の荒野の光景だが、山脈に近づくに従って徐々に緑の割合が増え、生き物の姿を見かける頻度も増していく。
モレス山脈の麓はエンテの森から続く深い森林地帯で、山脈から流れる大小無数の河川と豊富な地下水脈によって、無数の命が生きる豊潤な大地になっている。
セリナがジャルラを出た際、彼女は川沿いに進んで最も近い人間の集落、つまりベルン村に近づき、そこから一旦暗黒の荒野側に進路をとった。そして、リザード族の住んでいた沼地で休んでいたところで私と出会っている。
今回はセリナの進路を逆に辿る形になったわけだ。
今後の戦乱を見据えれば、モレス山脈と沼地の間に砦の一つくらいは用意しておきたいものだな、ふむん。
ありがたい事に、モレス山脈麓の森林地帯では、現地のウッドエルフや獣人達が私達の到着を待っており、森林地帯を抜けるまで案内役を務めてくれた。
これはエンテの森の世界樹――エンテ・ユグドラシルからのお墨付きを得られたお蔭だろう。森の住人達には効力絶大だが、その分、彼女の期待と信頼を裏切らないようにと身が引き締まる思いだ。
使節団の者以外の人間と会うのは数日ぶりだった上に、案内役の中に女性が複数居たので、団員達がやたらと話したがり、ネオジオの怒鳴り声と共に拳骨が何度か振るわれる羽目になった。
ま、微笑ましいと言える範疇かね。
森林地帯を抜けてモレス山脈に入ると、道らしい道がろくにない険しい道行きとなる。
これまでほとんど人跡がなかった事もあって、ジャルラへの道筋は全くの手つかずだ。
と言うのも、ジャルラは他種族の目から隠蔽するように造られた隠れ里である為、里へと続く道の整備など論外なのだ。
土よりも剥き出しの岩肌が目立つ山道だが、ホースゴーレム達は悪路をものともせずに馬車を引き、兵士達もひいひいと息を切らしながらも追従してくる。
最も足の遅い者に歩調を合わせて、適度に休憩を挟みながらの登山になるので、速度はそう速くはない。
ジャルラまである程度近づいた地点で私達は行進を止めた。
山腹で邪魔な石をどかして木を払い、魔法なども使って地面を均し、あっという間に野営に適切な広場を造る。そうしてから、私はネオジオとシュマルに使節団を委ねた。
ここから先は私とセリナの二人きりで進む。
「これだけ険しい山道では、山脈を下りるだけでも大変だな」
しみじみと語った私の言葉に、セリナが応える。
「まあ、人里から離れるとこういう環境を選ばざるを得ませんから。私の場合は小さい頃からここで育ったので、別に気にはならないのですけれど」
「君達の伴侶探しも苦労が多いな」
「最近は里の人口が増えてきたので、中で相手を見つける娘もちらほら居るのですよ。あまり血が近すぎるのは良くないですから、私みたいに外に出る娘の方がまだまだ多いですけれどね」
「千人前後だったか……セリナと出会った頃のベルン村の三倍以上の人口だな。この環境でよくぞそこまで増やしたと思うよ。ジャルラのような隠れ里は世界中に点在しているだろうが、よその里との交流はあるのかい?」
「ん~、確かエンテの森のどこかにもラミアや蛇人の里があって、何年かに一度くらいは代表同士で連絡を取り合っていたとかいないとか。いずれにせよ、閉鎖的であるのは確かです。女王にならないと教わらない情報も多いと思います」
「重要な情報を知る者は少ないほど漏洩の危険性は少ないか。人間からの扱いを考えれば当然の危機意識だな。今回の訪問が良い方向へと進んでくれれば何よりだが……」
「大丈夫です。ベルン男爵領との交流で良い事がたくさんあるって、精一杯伝えますから。それに、ベルン村だけじゃなくってガロアの辺りまでなら、ラミアが街中を歩いていても少し驚かれるくらいで済むようになりましたし。伊達に一年近くガロアで過ごしたわけじゃありませんよ!」
「ラミアの集団が闊歩するとなれば、ベルン村はともかくガロアであってもまだまだ驚かれてしまうだろう。時間は掛かるが、ラミアが交流可能な存在であるという認識をベルン村から徐々に広げていくのが先かな」
「急ぎすぎると悪い結果になりがちですから、仕方ないですね。それに、伝承みたいな恐ろしい悪さをするラミアだって居るでしょうし」
「人間の中にも極悪人はゴロゴロいるさ。それと同じだよ。さて、そろそろ直接お目に掛かれる頃合いかな」
使節団が山麓に到着した時点で、使い魔と思しき蛇達が何十匹も岩陰などに潜み、じっとこちらの動きを観察していた。
「ところで、あの蛇達はやはりジャルラのラミア達の手のものかな?」
「はい。私達ラミアは体の半分以上が蛇ですから、蛇さんとは意思が通じやすいのです。なので、よく私達の目と耳の代わりをしてもらっています。私もガロアで時々やっていました」
耳に口を寄せてこしょこしょと話し掛けると、セリナは声を潜めて教えてくれた。以前はこれくらいでの事でも恥ずかしがったが、今では流石に慣れたものだ。
「ふむ、自衛策としては妥当なところだろうな。私も簡単な使い魔の契約なら小鳥やら虫やらと結ぶし、利便性が高い。ただ、君達にとっては良き隣人といった意識の方が強いかな?」
「そうですねえ。別に使い魔の契約を結ばなくても意思は通じますが、視覚や聴覚を共有する時には使い魔契約を結ぶのが一番です。今も里から私とドランさん、それに使節団の皆さんを見ているわけですね」
「セリナの連絡を受けてから、隠れ里の者達は使節団が到着するのを一日千秋の思いで待っていたのだろう。ふふ、心して掛からねばな」
ベルンとの交流が上手くいけば、今後は危険を背負わせてまでラミアの少女達を隠れ里から旅立たせる必要がなくなり、安全に伴侶探しが出来るようになる。
一方で、最悪の場合には魔物であるラミアに対する迫害ないしは討伐が行われる可能性も考えていよう。
セリナが操られてジャルラの位置を教えてしまったのか、それとも本当に伴侶として私を見つけ出し、またベルン村との交流を文字通りの意味で進める為に来たのか。それを見極めようとしているのだろう。ふむん。
やがて、私達の監視をしていた蛇達が音もなく気配と姿を消した。
本命の方達がそろそろ姿を見せてくれる前兆かな?
セリナが目印の一つだと教えてくれた赤茶けた大岩を回り込んだ先で、私は自分の予想が間違いではなかったのを確認出来た。
山肌の盛り上がりや岩石の陰に巧妙に隠されたジャルラへの入り口の一つを背に、何人ものラミア達が私達の訪れを待っていたのである。
獣人や人間の姿もいくらか紛れているが、こちらはラミア達の伴侶か、その子供達であろう。生まれてくるのが女の子ならばラミアに、男の子であるならば父親と同じ種族になるのが、ラミアという種族の生態なのだ。
私とセリナの前に立つラミア達は、鮮やかな赤や目の醒めるような青など鱗や髪の色も様々だ。
どうやらそのほとんどがセリナの知り合いのようで、彼女は私の傍らで緊張と安堵を同時に滲ませる。なんとも器用な真似をするものだ。
異種族の雄を誘惑する性質を持つラミアは、個体数の多い人間とその亜種である亜人を誘惑しやすいように、美的基準が高い種族だ。
その美人揃いの真ん中に居るのは、セリナと同じ深緑色の鱗を持つラミアだった。前髪の左右だけを長く伸ばした金髪に、意志の強さを感じさせる瞳は青色。
セリナとの共通項が多いところを見るに、血縁者か――いや、ジャルラの女王を務めているという母君か?
その女性が口を開く。
「遠くベルン村から我らの隠れ里ジャルラへと、よくおいでくださいました。私はジャルラの女王セリベア。そちらのラミア、セリナの母でもあります。お見知り置きを」
挨拶一つとっても、異性を惑わすラミアの特性を充分に理解させる艶めかしさだ。
母としての顔は覗かせず、あくまでもジャルラの代表としての態度を崩さぬセリベア殿を前に、セリナも話し掛けたいのをぐっと堪えて押し黙る。
余人が居ては母と娘としての振る舞いは出来ないか。
話を早めに進めたいものだが、さて。
「ベルン領主クリスティーナ・アルマディア・ベルン男爵の補佐官を務めております、ドラン・ベルレストと申します。この度はベルン男爵の名代として参上仕りました」
「お名前と来訪の目的に関しては、セリナからの知らせで存じておりますわ。まずは我らの里へご案内いたしましょう」
しゅるりと鱗と地面の擦れる僅かな音を立てて、セリベア殿が背を向け、他のラミア達もそれに従う。
セリナが何か言いたそうに母親の背中に視線を送り、他のラミア達は彼女を案じるように見つめたが、セリベア殿は振り返らなかった。ふむん。
セリナも立派な大人なのだし、セリベア殿は集団の代表だ。弁えるべき場なれば、私情を抑えなければならん。
セリベア殿に続き、緩やかな傾斜になっている下り坂を進むと、巨大な自然石を使って建てられた岩戸が私達を待っていた。
岩戸へ続く道から死角になる窪みや岩陰には、押し殺された気配がいくつもある。それなりの手練れでもなければ気付けまい。隠れ里の警備は充分になされているな。
どこかから歯車の噛み合う音が聞こえ、岩戸がゆっくりと左右に引き込まれていく。
その先に繋がる道を進むと、空からの目を誤魔化すように岩壁の中や地下に設けられた家屋が見えてきた。
それぞれの窓から住人達が顔を出し、こちらを覗いている。
ワイバーンやグリフォンをはじめ、モレス山脈には空を飛ぶ魔物や猛獣の類は少なくない。ラミアならばそう簡単に餌食にはならないとはいえ、里には幼い子供や老人も居るのだから、当然の備えか。
「ここでセリナが生まれ育ったのだな」
ラミア達の隠れ里を眺め、ふと零れた私の呟きに、セリナがしみじみと応える。
「はい。ベルン村みたいに皆で助け合って、仲良く暮らしているんですよ。う~ん、私が出立した時と変わりはないですね。良かった」
「ふむ、セリナとしては、まずは一安心か。母君と家族水入らずで話せる時間も必ず来る。それまで少しだけ我慢出来るかい?」
「私はもう立派な大人ですよ? それくらい我慢出来ます。もう、ドランさんは私をいつまで経っても子供扱いするんですから」
「子供扱いしているわけではないよ。大切な伴侶だから慮っているのだ。その違いを理解してもらえると嬉しいね」
「あら、ふふふ、そういう事なら許してあげちゃいます」
「ふむ、それは良かった。やはり言葉にしないと伝わらないものもあると、しみじみ思うよ」
私とセリナが案内をされたのは、ジャルラの中央付近にある岩盤の中を加工して建てられた館だった。
凹凸なく綺麗に研磨された壁には、何かしらの塗料で、ラミアやその伴侶と思しき他種族の雄達が戯画化されて描かれている。
ラミアの生態を分かりやすく描いた壁画と解釈出来るな。
「選挙で選ばれた女王が住む館です。今はママ――ええっと、当代女王セリベアとその夫ジークベルトが住んでいるはずです。前は私もここに住んでいました」
「セリナにとっては懐かしの生まれ故郷に加えて、懐かしの我が家というわけか」
「ただ素敵な旦那様を見つけて帰ってきたという話なら、歓迎されるだけで済んだのですけれど、今回は使節団の案内役もしていますから前代未聞の帰省です」
周りのラミア達は私とセリナが気になって仕方がないようで、チラチラと様子を窺ってくるが、セリベア殿は一度だけこちらを振り返ったきりだ。内心では愛娘の帰還をどう思っているのやら。
ほどなく私達は、モレス山脈で見られる花や動物の他、独特の模様が刺繍された絨毯が敷かれた一室に通された。
室内では、ほのかな香気を発する蝋燭が燃えている。
私達の正面には長机が置かれ、向かいにはセリベア殿が、その左右には妙齢のラミアが一人ずつ、とぐろを巻いた下半身を椅子の代わりにして腰掛けた。セリナもよくしているラミア特有の動作で、私にとっては見慣れたものだな。
他のラミアや夫君達は、警護と私達の監視を兼ねて部屋の扉の傍や壁際に立っている。まあ、当然の警戒だ。
「どうぞお掛けください。ラミアの里ですが、椅子くらいはありますもの」
セリベア殿にそう言われ、私は用意されていた椅子に腰掛ける。
続いてセリナも母親達同様にとぐろを巻いた。
ふむ、私もそれなりに緊張している自覚はあったが、セリナが前代未聞の帰省と言っていたのを鑑みるに、ジャルラ側にとっても今回の事態への対応は暗中模索であろう。
さてさて、そうなるとお互い初体験同士、手探りでより良い落とし所を探し合わねばならんわな。
私はそうして気を引き締めてから視線を落とす。机の上には、ジャルラの方で用意してくれた湯気が立つ赤い飲み物が置かれている。
春を半ば過ぎたとはいえ、山は冷える。待機している使節団の皆にも温かい飲み物を振る舞ってあげたいものだ。
さて、そろそろ話を始めるとしよう。
「ありがとうございます。私共がこちらをお訪ねした目的に関しては、既にご存じの事と思いますが、改めてお伝えいたします。我が主君ベルン男爵は、暗黒の荒野方面への開拓事業の他、エンテの森並びにモレス山脈の諸種族との交流が、領地の発展と民の繁栄に不可欠であると考えておいでです。その為、こちらの里の出身者であるセリナ嬢の知恵を拝借し、本日、ご挨拶に伺った次第です」
私の言葉を聞き、セリベア殿が微笑む。
「補佐官殿、ベルンの方々が再び暗黒の荒野に興味を示された事に関しては、私達も把握しておりました。セリナから伝えられていたというわけではありませんわよ? 暗黒の荒野やエンテの森に棲まう蛇は、時に私達の目や耳の代わりとなってくれますので、周辺の情報程度なら集めるのは難しくありません」
ふむ、さりげなくセリナがベルン男爵領の情報を流したわけではないと擁護されたのかな?
「そうでしたか。それでしたら、既に私共がリザード族や、水竜ウェドロ殿の庇護を受けているウアラの民と関係を構築している事もご存じで?」
「ええ。山脈を登ってくる者は稀ですが、それが集団となれば、いやが上にも注目が集まるのが道理でしょう。その集団の向かう先が、私達と遠からず近からずの距離を保っていたベルンの者なら、なおさらです。それにベルンが賑やかになったのは、今回が二度目ですからね」
「では、話を進めさせていただきたく存じます。私共が用意出来る対価と友好に関する取り決めなどを、こちらの資料にしたためております。一度、お目をお通しください。どうぞ」
セリナは私が預けておいた鞄から資料を取り出して、目の前に座る三人に渡す。
内容は先のリザード族やウアラの民達との交渉とほとんど変わらない。
お互いの集落に大使館を設置する案や、商取引の活発化、お互いの領内で法を犯した者への裁判権や雇用条件、居住を認める条件など数多くの取り決めだ。
魔物と一般に認知されるラミアを人間種と同様に扱い、不当な暴力や差別を加える事を固く禁じる法も明文化した。逆に、ラミアの側も魅了の魔法などで相手の意思を奪う形での誘惑を禁じている。これらは私個人としてもベルン男爵領としても重大事項だ。
種族単位での差異もあり、お互いに不便ないしは不利益を被る点もあるだろうが、双方で妥協点を見つけていくべしと、クリスとも話し合って結論を出している。
セリナから回ってきた資料の全文に目を通し終えたセリベア殿は、内心の読めぬ笑みを浮かべたまま、そっと資料を机の上に置く。
「ベルンの方々からのお申し出は確かに承りました。しかしながら、このジャルラの命運を担う一大事ですので、しばしの猶予を頂戴したく思います。そうお時間はお掛けしませんわ。数日の内に回答いたします。その間、外でお待ちになっている他の使節団の方も、どうぞジャルラにお入りください。少し、里の皆が浮足立つかもしれませんけれど、そこはどうぞご容赦を。外からあれだけ多くの方がいらっしゃるなど、過去にない事ですから」
「寛大なお言葉、感謝に堪えません。使節団の者達には厳しく伝えてありますが、彼らにとってもラミアの方々が住まわれる地を訪れるのは初めての体験ですので、不作法があるかもしれません。ほとんどの者は所帯を持たぬ独り身ですから、ジャルラの方々はいささか刺激的すぎます。何かございましたら、ただちに厳罰をもって処します」
それを聞いて、セリベア殿はあらあら、と笑う。
ふぅむ。
こちらに連絡を入れなければ〝ちょっとした悪戯〟をしても目を瞑りますよ――と、私が言外に臭わせたのを察してくださったようだ。
団員の中には、まだ異性と手を繋いだ事もなさそうな子もちらほら居る。下半身が大蛇とはいえ、ラミアの色気には逆らえないだろう。ふむふむ。
「生真面目でいらっしゃいますのね。補佐官殿も本日はどうぞごゆるりとお休みください。館に部屋をご用意していましてよ。ただ、ジャルラの女王としてではなく、一個人として……ええ、そう、母親として、ぜひとも夫と娘を交えてお話をさせていただきたく思いますの」
口元に笑みを浮かべたセリベア殿の笑っていない瞳が、拒否は絶対に許さぬと私に強く訴え掛けていた。
おおう、今は女王ではなく母親としての顔を前面に押し出してきているな。心なしか、部屋の中に居るラミアの方達も先程よりも険しい視線を私に向けている気がする。
私がセリナに相応しい男かどうか、これから厳しい審査が待っているのだ。私は長机の下から伸びてきたセリナの手を、そっと握り返した。
ふむ、セリナから山ほど勇気を貰えたな。
それにしても、人間であるというセリナの父君はどんな方なのだろう。そしてセリベア殿も私的な場面ではどんな母親なのか。
私の個人的な人生最大の戦場に赴く時が刻一刻と迫っている。
今から心臓が破裂してしまいそうだった。
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