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―― 序章 ――
【二】笑うという事
しおりを挟む夏。
もうすぐ僕の二十三歳の誕生日が近づいてくる。ベルンハイト侯爵家で、僕の生誕祭が行われる事に決まっていて、僕は当然のようにヘルナンドと同伴する。多数の客を招いている。招待状の手配をした僕は、何気なく窓を見た。
そこには僕の金色の髪と緑色の瞳が映っている。また少し、痩せたかもしれない。
Subと判明してこの十年間の間に受けた暴行が理由で、僕は食事が喉を通らない日も多く、あまり育たなかった。背は平均より少し低く、躰は薄っぺらい。痩身だと言われる事が多い。
次の生誕祭では、許婚関係にあるところから一歩進み、具体的に結婚について周知される事になっている。きっとヘルナンドの隣で、僕は幸せそうに笑うのだろう。命令通りに。
鳩尾のあたりが、ずっしりと重い。鉛を飲み込んだような気分だ。
実際にはSub dropしている僕だけれど、ヘルナンドは周囲に、『体が弱い』と説明している。僕の両親は、UsualだからSubについて詳しくはなくて、ヘルナンドの言葉をそのまま信じている。そして僕は違うと訴える事が出来ないように《命令》されている。
結婚したら、新居に引っ越す事になっている。
今から僕は、それに恐怖している。
本当は全力で拒否したい。けれどヘルナンドを見るだけで、僕の体には震えが走り、何も言えなくなる。人前ではその震えも押し殺さなければならないのだが、中々に骨が折れる。
「明後日か……」
今から生誕祭の事を思うと気が重い。
体のアザは、まだ消えない。暫くは打撲の痕が残りそうだ。それ以外にも、何度も激しく鞭で打たれた僕の背中には、特殊な魔術薬でも用いない限り、決して消えない傷跡が多数ある。棘のついた鞭で、何度も何度も、ヘルナンドは僕の背中を叩いた。その度に白いシャツは破れて、血が滲んだ。
『こうされるのが好きなんだろう? 《言え》――『大好き』だってな!』
ヘルナンドは、自分以外が僕の背中を見ないと確信しているから、いくらでも僕の体を傷つけられるのだと思う。僕は残念な事に風邪をひく事もなければ、怪我をする事もない。時々精神的な理由から、吐き気がしたり食欲が無くなったりはするけれど、医術師に見てもらうほどでもない。
そもそもヘルナンドの生家であるバフェッシュ公爵家は、王家からも一目置かれるほどの、高位の家柄だ。僕が仮に誰かに訴える事が出来たとしても、あるいは周囲の誰かが気づいてくれたとしても、それこそ相手が王族でも無い限りは、握り潰されて終わるだろう。
僕はこの後も、ただ耐えるだけの人生を送らなければならない。そう決まっている。
僕は最初から今にいたるまで、ヘルナンドに好意を抱いた事は一度も無いが、《命令》により、人前では、ヘルナンドにべた惚れである風にしていなければならない。そうしなければ、二人きりになった時、酷い仕打ちをされる。
どうしてこんな事になってしまったのだろう。
Subでさえなかったならば、僕は幸せに生きる事が出来たのだろうか。
「いいや……僕が悪いのかもしれないな……僕がもっとヘルナンドの好みのSubだったならば、愛されたかもしれない」
なにせヘルナンドが今夢中の平民であるSubは、きちんと愛されている。
そう聞かされている。
この国は、王政で、その下に平民と貴族がいるのだが、本来貴族と平民は、あまり交わらない。ヘルナンドの愛は、それを乗り越えるほどに深いそうだ。
『お前と違って、ルーゼフは本当に愛らしいんだ』
これは度々、鞭を打ちながらヘルナンドが僕に告げた言葉だ。鞭が風を蹴る音の合間に、嘲笑交じりの声音が響いた覚えがある。ルーゼフというのが、プレイバーで知り合ったという、現在の恋人の名前らしい。公爵家のお母様にお願いされるよりも前から、僕はその名前を何度も聞かされてきた。
『何をしても無表情で可愛くないお前とは、全然違うんだよ!』
僕はヘルナンドの声が甦ってきて、怖くなって両腕で体を抱いた。
僕が笑っても泣いても怒っても、どんな顔をしても、ヘルナンドは殴ってくる。だから一番刺激が少なくなる無表情でいる事を、僕は覚えてしまった。ヘルナンドを前にすると顔が強張り、その内に、誰を前にしても《命令》が無ければ笑えなくなってしまった。僕は、《笑え》と言われないと、両頬を持ち上げる事が出来なくなって久しい。
日々は色褪せていて、楽しいと思える事も何もない。
早くこのような生涯は、幕を閉じればよいと思っていた。
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