鶴が舞う ―蒲生三代記―

藤瀬 慶久

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第二章 蒲生定秀編 天文法華の乱

第29話 京、燃ゆる

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主要登場人物別名

弾正・霜台… 六角定頼 六角家当主 霜台は弾正の唐名

兵庫頭… 伊勢貞宗 室町幕府政所執政 幕府の実務を取り仕切る

相国… 三条実香 公家三条家当主 相国は太政大臣の唐名
左府… 近衛植綱 公家近衛家嫡男 左府は左大臣の別名
女院… 勧修寺藤子 後奈良天皇の生母 豊楽門院

――――――――

 

 三条さんじょう実香さねかは、六角軍上洛の報を受けて至急参内し、後奈良天皇に目通りを願った。
 帝の左右には左大臣・近衛このえ植家たねいえを始め、右大臣・久我こが通言みちのぶ、内大臣・西園寺さいおんじ実宣さねのぶなどの廷臣達が居並んでいる。

「おや、相国殿。いや、相国殿。大層慌てていかがなされました?」

 近衛植家の揶揄するような口調に、思わず実香の顔つきも厳しくなる。だが、それどころではなかった。

「主上、恐れ多きことながらお願いがおじゃりまする。どうか六角弾正に戦を止めるよう、主上から勅書を賜りたく存じまする」
「そのことなら今更願っても無駄でおじゃりまする。此度の六角の上洛は主上もお認めになったこと。
 法華の者共の暴虐は許しがたく、京の民草も迷惑していること甚だしい。民草を苦しめる法華坊主共には、同情の余地などありはしませぬ」
「しかし、弾正は京を焼き払うと申しておじゃります。最悪の場合は、口にするもはばかられることながらこの御座所すらも戦火に晒される危険がおじゃりまするぞ」

 必死の形相で訴える実香に対し、植家は薄く笑って扇で口元を隠している。

 朝廷での勢威を拡大して太政大臣にまで任じられてきた実香だったが、一カ月前に太政大臣を辞任していた。


 元々三条家は法華宗と繋がりがあり、法華宗妙顕寺四世の月明は実香の曽祖父である三条実冬の四男に当たる。本願寺焼失以来の法華宗の隆盛は実香の懐も充分に潤しており、法華宗の財力と六角の武力を背景に朝廷内で絶大な力を持つに至っている。
 だが、法華宗による一揆は朝廷内での実香の立場も危うくした。

 実香は法華宗と比叡山の和睦を実現するべく、比叡山の横川衆に西塔や東塔の者達を説得するように依頼していた。だが、結局比叡山はこれを聞き入れず、法華宗と比叡山との争いが自身に類を及ぼさないように実香は和睦失敗の責任を取るという形で太政大臣を辞任する。
 折り悪く息子の三条公頼は次女の婚姻の為に甲斐に下向しており、朝廷内で三条家の勢威が極端に弱まった時期でもあった。ちなみにこの時に輿入れした公頼の次女が、武田信玄の正室である三条の方だ。

 近衛植家は妹婿である足利義晴を通じて大原高保――引いては六角定頼――に接近し、今回の法華宗討伐を機に朝廷内での勢力を確保しようと蠢動していた。
 植家の父・近衛尚通は神楽岡まで出向いて六角勢を出迎え、山中峠を越えて来た進藤貞治に護衛されてそのまま神楽岡にて合戦見物と洒落こんでいる。

 六角定頼の願いにより京の騒乱に対して朝廷を抑えたのは、近衛植家だった。


「ほっほっほ。六角はこの清涼殿は焼きませぬよ。この御所には六角の者共が警護に付くことになっておじゃる。
 明日か明後日には六角も洛中へ参りましょう。先の相国殿も早う京を離れらた方が良いのではおじゃりませぬか?」

 事情を理解した実香は、目を見開き、唇を噛みしめて植家を睨みつける。しかし、植家の言う通り今はグズグズしている暇は無い。もうすぐそこまで戦火は迫っている。
 無言で一礼すると、三条実香はそそくさと退出していった。


「左府よ。真に弾正は京洛を焼き尽くすと申しておるのか?」
 実香が退出した後、帝は植家に心配そうな声で下問した。これを受けて植家も顔つきを改めて帝に向き直る。

「弾正は争いの元凶たる下京を焼くと申しておじゃります。無辜の民には事前に六角より退去勧告が出ておじゃりますれば、焼かれるのは一揆衆だけかと……」
「真に無辜の民は戦火に巻き込まれることはないのだな?」
「おそらく……」

 植家とて、ただ朝廷の勢力争いの為だけに人々を死なせて良いとは思っていない。逆に言えば、朝廷がそれを認めざるを得ないほどに近頃の法華門徒の横暴ぶりは目に余った。法華宗の増長を黙認した実香にも厳しい態度で臨まねばならない。
 だが、無辜の民の安全を心配する帝に対し、植家も迂闊なことは言えない。戦争なのだから何が起こるかは誰にもわからなかった。

 後奈良天皇は、元文元年には疫病の終息を願って御願文を出す程に民を愛しており、この度の騒乱でも人死にを出来るだけ抑えるようにと植家らに指示していた。
 元より朝廷に武家の行動を制御することは出来なくなっており、出来ることと言えば足利義晴や六角定頼にくれぐれも無駄な人死にを出さぬように要請することだけだった。



 ※   ※   ※



 ―――頼む。もうこれ以上出てくるな

 定秀は炎を上げる京の町を進みながら、小路やまだ焼けていない建屋から攻めかかって来る法華門徒を次々に突き殺して行った。
 すでに赤樫の槍は真っ赤に染まり、どれだけの血を吸ったのかさえ判然としない。

「殿!本圀寺の辺りは制圧しました!下京の東半分は門徒の影は見えません」

 徒歩立ちで報告に来た外池茂七の言葉を聞きながら、定秀はうつろな瞳をまだ焼けていない西の方へ向けた。京の街区を丁寧に焼き払う為、六角勢は全員徒歩で洛中を進軍している。
 開戦当初こそまともな戦もあったが、一日が経った二十五日には既に法華門徒に勝ち目は無くなり、無駄な抵抗と知りつつも密かに隠れて奇襲してくるだけになっていた。
 その為、六角軍は三雲の甲賀衆を中心に家屋の中まで改め、退去勧告に従わない場合はその場で殺して火を放った。

「そうか……では、本圀寺に火を放て」
「……ハッ!」
 茂七も辛い顔をして立ち去る。もはやこれは戦ではなく、単なる虐殺だった。

 ―――体中から血の匂いがする

 定秀の体も返り血にまみれ、鼻腔の奥には鈍い鉄の匂いが貼り付いて離れない。どれだけ振り払おうとしても血の匂いがまとわりついて来た。
 初戦に惣堀を攻略してからは、蒲生勢にはほとんど死傷者は出ていなかった。にもかかわらず、全員が血まみれで動き回っている。

 ―――女院様がご覧になればどれほどお心を痛めるか

 定秀が親しく接した勧修寺藤子は、幸いと言うべきか昨年の天文四年に亡くなっている。
「くれぐれも京を頼む」と定秀に頭を下げたあの優し気な女院が今のこの京の惨状を見ればどれほど嘆き悲しむかと思うと、定秀には罪悪感と疲労感だけが募った。


「おのれ六角!悪鬼羅刹なり!」
 突然叫び声が聞こえたと思ったら、右手の建物から飛び出してきた門徒数名が刀を振りかざして突進してきた。
 定秀は先頭の僧兵を無造作に突き殺すと、馬廻の護衛が周囲の門徒をすぐに殲滅する。
 朝からこれの繰り返しで、皆がうんざりとした顔をしている。もうたくさんだった。

 何軒かの家を一軒づつ見回り、百を超える門徒の首を取った頃、定秀は一軒の家屋の戸を開けた。

「誰もおらぬか?ここは間もなく火を付けるぞ!」

 返事がない。ほとんどの家は返事がないか、門徒が斬りかかって来るかのどちらかだった。それでも万一にも逃げ遅れた者が居てはいけないと思い、定秀は必ず火を放つ前に家屋内に声を掛けた。

 ―――ここも、逃げたか

 足元に砕け散った陶器の破片が散らばっている。おそらく慌てて京から逃げ出したのだろう。
 兵火によって流民が発生することは珍しくないが、今回京を追われた人達は一体どこへ逃げるのだろうかと少し場違いな想いと共に、定秀は何とはなしに欠片を拾った。
 この地獄が早く終わってほしい。それだけが今の定秀の願いだった。

「お待ちください!」

 およそ戦場にそぐわない女の声が奥から響き、思わず定秀の前に原小十郎が刀を抜いて立ちふさがる。
 見れば、奥の方から足を引きずった女が一人壁に手を付きながら必死の形相で歩いてくる。

「お助け下さいませ!奥には身動きの取れない女子ばかり十名ほど居ります。皆町衆から逃れ、傷を負って動けない者達でございます」

 フラフラの体で必死に定秀に懇願する女の顔は、やつれ切った表情をしながらも目だけは爛々と強い光を放っていた。
 自らの後ろめたさを見透かすような女の視線に、定秀も思わずじっとその目を覗き込む。
 やがて女がガクッと膝をつくと、定秀は駆け寄って助け起こした。

「しっかりせよ。小十郎、何人か連れて奥を見て参れ。動けぬ者は建物から外に運び出せ」
「ハッ!」

 定秀の指示で馬廻衆が抜刀したまま奥へ向かう。
 ”キャー”という女の悲鳴と”鎮まれ!害意はない!”と叫ぶ男の声が交互に聞こえる。
 定秀が最初に出て来た女を伴って家屋の外に出ると、それを追って十名ほどの女が様々に介助されながら家屋から運び出された。

「ありがとうございます。このご恩は決して……」
「もう喋らんでも良い。我が陣へ案内させる故そこで体を休めよ」

 定秀の見たところ、女の外傷はそれほど多くない。衰弱の原因はまともに食べていないことだろう。
 方々から集められた奴隷だろうか。女達の居た家はそれなりに大きな家で、往時は大きな商売をしていた商家ではないかと見える。
 救助された者達を後方に運ばせて粥を与えるよう指示を出し、蒲生勢は引き続き西に進軍した。


 天文五年(1536年)七月二十七日
 圧倒的な六角軍の武力に法華門徒は数千人の死者を出し、二十四日の開戦から三日で降伏した。
 まだ京に隠れ潜んで反撃の機を伺う門徒も居たが、法華宗はこれによって京から駆逐され、ほとんどの者は堺の顕本寺に逃れた。
 六角定頼は下京の全てと上京の三分の一を焼き払い、徹底的に京を灰塵に帰した。これにより、京の地子銭を払うそもそもの町が無くなり、宗門争いは一時的に平和を取り戻す。
 比叡山にしても、焼け跡で勢威を振るうも何もあったものではなく、戦が終わると僧兵達は早々に比叡山に引き上げて行った。

 天文法華の乱による京の被害は、応仁の乱を上回る規模になった。



 ※   ※   ※



 室町幕府の政所執事を務める伊勢貞宗は、朝廷からの勅使を迎えて畏まっていた。
 上座には万里小路までのこうじ惟房これふさと清浄華院の僧である竜誉良休の二人が座している。

「兵庫頭よ。恐れ多くも主上より直々の御下命である。六角にこれ以上京での狼藉をさせぬよう公方から固く申し付けよ」

 まだ若い惟房だったが、その顔には懇願するような色がある。法華宗が降伏したことで既に京は六角が征服していたが、未だ抵抗を止めない門徒も居て方々で小戦闘が繰り返されていた。

「主上は深くお嘆き遊ばされておじゃる。もう充分であろう。これ以上京の民を死なせる必要はあるまい」
「恐れながら申し上げます。六角弾正の戦は朝廷より内諾を頂いた物。一度お認め下された物を中途半端で終わらせるわけには参りませぬ」
「であるから、もう充分じゃと申しておる。元々は下京だけを焼くと聞いておったのに、下京のみならず上京にも兵火が及んだ。これ以上戦を続けても益はない。即刻中止させよ」

 ―――それならば直接弾正殿に言えばよかろうに

 貞宗は内心の苛立ちを抑えつつ、平伏して畏まることしか出来なかった。
 六角定頼が室町幕府の言う事を聞くなら最初から苦労はない。それどころか、今や幕府の仕置についても六角のご意見を伺わねば決められぬ有様だった。
 山科本願寺と法華宗、二つの宗門を焼き払った六角の武威は既に京を圧倒しており、公方ですら定頼の顔色を窺っている状態だ。

 昨日の七月二十九日には定頼の弟の大原高保が足利義晴に戦勝報告を行った。
 元々側衆として両宗門の和睦を進言し続けていた高保の戦勝報告に、義晴も視線を逸らせて頷くことしか出来なかった。
 もはや幕府は、六角の同意なしには何事も決められない。ましてや六角を止めるなどということは出来るはずが無かった。


「恐れながら、どうしてもと仰せであれば直接坂本へ参られればよろしかろうかと存じまする」
「……」

 勅使の二人にも返事はない。
 定頼本隊は未だに坂本に留まり、京に進軍しているのは配下のみだ。法華宗相手など本気を出すまでもないという宣言であると同時に、朝廷からうるさく言われることを避ける配慮だった。
 定頼も、これだけ大規模に京を焼けば朝廷がうるさく言ってくることは分かっている。だが、中途半端で止めては意味がない。
『余計な口を挟むな』という定頼の声が聞こえてくるようだった。


――――――――

ちょこっと解説

比叡山と一口に言いますが、比叡山の山内は三つに分かれています。
東塔・西塔・横川の三か所で、それぞれに争う事もあれば協力しあう事もあり、必ずしも一枚岩という訳ではなかったようです。
三条実香は横川衆と特に縁が深く、天文法華の乱の際の調停周旋も横川衆から比叡山全体を説得するように依頼したと文献に残っています。
実香はこの後出家して引退を余儀なくされますが、息子の三条公頼は大名との婚姻政策によって再び勢力を盛り返していきます。
さすがは公家!って感じですね……
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