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第二章 蒲生定秀編 天文法華の乱
第28話 悪鬼
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主要登場人物別名
弾正・霜台… 六角定頼 六角家当主 霜台は弾正の唐名
藤十郎… 蒲生定秀 六角家臣
中書… 大原高保 六角家臣 定頼の実弟 定頼の指示で足利義晴の側衆として近侍していた 中書は中務大輔の唐名
六郎… 細川晴元 細川京兆家当主
八郎… 細川晴国 晴元に敗れた細川高国の弟
公方… 足利義晴 十二代足利将軍
――――――――
―――嫌なツラだな
定秀は対面に座る木沢長政のニヤけた顔に不快感を覚えていた。
正面から見てしまうとどうしても眉間にシワが寄る。そのため、木沢の胴の辺りに視線を落として聞くともなく話を聞いていた。
幸い和平交渉の使者は進藤であって、定秀はあくまでも従者という扱いだ。木沢と正面から話をする必要はない。
「……以上のように、我が主は法華門徒のこれ以上の無法を何とかとどめて欲しいと申しております。
このままでは京洛に再び騒乱を起こすことにもなり申す。法華寺院の僧たちを鎮め、堀を埋めて武装解除をさせ、公方様へも地子銭を差し出すようにお手前方から申し入れて頂けませんか?」
進藤がゆっくりと、丁寧に、木沢長政に申し伝える。特に”京に騒乱を起こしかねない”という所を強調していた。
だが、当の木沢は相変わらずのニヤけ面のまま軽く下を向くと、何やら考え事をする風を装っていた。
「いかがでございましょう。法華門徒は六郎様に従って本願寺と戦いました。六郎様やお手前からの言葉ならば多少は聞き分けるのではありませんか?」
「……難しいでしょう。実は我らもいささか法華門徒には手を焼いておりましてな。なんともまあ、門徒以外の言葉は聞かぬと、梃子でも譲らぬ姿勢を見せております。
いっそのこと、弾正様のお力で法華門徒を懲らしめて頂いた方が良いかもしれませんぞ」
軽口と笑い声まで混じった他人事のような物言いに、定秀が思わず木沢の顔を正面から見据えた。
定秀は眉間に深くシワが刻まれた険しい顔つきをしていたが、当の木沢はどこ吹く風といった顔をしている。
「法華宗だ比叡山だと言って、結局はみな京で勢威を振るいたいだけのこと。次から次に……
キリがありませんな」
「一つ、お伺いしたい」
定秀の刺々しい口調に、木沢が初めて定秀がそこに居ることに気が付いたかのような顔をする。
馬鹿にするのかと尚も怒りが込み上げてきた。
「元はと言えば、お手前方が三好筑前殿を討つために一向宗を動員致しました。一向門徒が邪魔になれば、次は法華門徒を使ってこれを追い払われた。そして次は法華門徒を比叡山と我らを使って追い払おうとしておられる。
一体お手前方は……六郎様は何を考えておられるのか」
「……使える物を使っただけでござるよ。邪魔になれば、捨てるのが道理。
ほれ、狡兎が死ねば走狗も煮られるのが宿命でございましょう」
―――この…… クズが!
思わず片膝を立てて腰に手をやった定秀を進藤が力づくで抑える。
定秀の殺気に一瞬ビクッっと身を引いた木沢だったが、進藤の態度を見て再びニヤけ面に戻っていた。
「弾正様にはお手数をおかけして申し訳ないが、まあ宗門の争いというものは武家がかかずらう物ではありませぬ。ほどほどに懲らしめて下されば充分にございます」
「……承知いたしました。それが六郎様の意向であると主には申し伝えましょう」
進藤の言葉に木沢が満足気に頷く。邪魔になった法華門徒を駆逐する為に六角の軍勢を使えることが愉快なのであろう。自分の軍勢を損せずに済む。
今や法華門徒は下京一帯に惣堀を構え、それなりの防御施設を備えるようになっていた。
まともに戦をすれば多少なりとも被害が出るだろう。損失は六角に被ってもらおうという魂胆が見え見えだった。
「ああ、そうそう。宗門と言えば、本願寺が四年前に世を騒がせた罪を許されたいと願い出ておりますぞ」
「それは公方様へ願い出るのが筋でございましょう」
「幕府へは既に願い出ました。六角弾正様の御意向を伺わねば決められぬというにべもないお返事でしてな」
「……今は法華宗と比叡山の揉め事を収めるのが先決。本願寺の御赦免についてはそれからです」
「承知いたしました。証如殿にはそのようにお伝えいたしましょう」
―――さんざん争っておきながら、今はぬけぬけと本願寺とつるんでいるということか
それ以外に木沢が本願寺の赦免の願いを取り次ぐ理由が無かった。まるで蝙蝠のような男だと思う。
結局、一揆に巻き込まれた民衆だけが馬鹿を見る。先年の一向一揆では、一揆衆だけでなく無関係な民衆にも被害が出ている。
もとより自ら武器を取った一向一揆衆に同情する気はさらさらないが、巻き込まれる無辜の民こそいい迷惑だ。
法華門徒もその多くは京で商いをするただの商人だ。法華宗寺院や細川晴元の都合で戦乱に巻き込まれることは気の毒に思った。
天文五年(1536年)七月十一日
この日の醍醐寺での会見は物別れに終わった。
進藤と定秀は観音寺城に戻り、定頼に会見の内容をそのまま伝えた。
※ ※ ※
「そうか……」
亀の間で報告を聞いた定頼にも笑顔は無かった。笑顔どころか、一切の表情を出していなかった。定頼はしばし瞑目したが、一つ大きく息を吐くとおもむろに進藤と定秀に切り出した。
「では、やむを得んな。京を焼く」
―――きょうをやく……
定秀は定頼の言葉を頭の中で無感情に反芻するだけだった。言葉の意味が中々頭に染みて来ない。
やがてその意味を理解した時、思わず定頼に詰め寄っていた。
「御屋形様!何故でございます!悪しきは六郎様と木沢、それに法華の坊主共でございましょう!京の民には何一つ落ち度は……」
「わかっている。だが、これ以上宗門の争いを続けさせるわけにはいかぬ。京の民には申し訳ないが、一度全てを焼き払わねば収まらぬ。
今回法華宗を追い払ったとして、次は比叡山が増長するだけだ」
「しかし!」
「藤十郎!控えよ!御屋形様に逆らう気か!」
隣の進藤に一喝されて定秀が言葉に詰まる。定頼は無表情のまま立ち上がると、定秀の肩をポンと叩いた後、そのまま奥へと下がって行った。
「藤十郎。一番お辛いのは御屋形様なのだ。御屋形様はこうなることを未然に防ごうと様々に努力されてきた。だが、事ここに至ってはやむを得ぬ。宗門の争いの元凶を取り除くしかない」
「………」
「以前に三好筑前殿とお話された折り、御屋形様はこう申されていた。
”天下人には世の悪評を跳ね返すだけの心の強さが必要である”と。御屋形様は今こそ京の騒乱の元凶を取り除き、京の平和を取り戻すために一度焼き払わねばならんと申されているのだ。
場合によっては、御屋形様の名は応仁の大乱以上の災禍を京にもたらした悪鬼として史に刻まれるかもしれん。我ら家臣がその御心を分からずして、何とする」
「……申し訳ありませんでした」
進藤に言われずとも定頼の辛い心は定秀にも充分に伝わって来た。
―――何故、宗門などに手を出したのだ……
細川晴元と木沢長政の馬鹿さ加減に心底腹が立った。奴らが馬鹿なことをしなければ、こんな事態にはならなかったかもしれない。
そう思うと、ただただやるせなさだけが残った。
天文五年(1536年)七月二十日
六角定頼は五万の軍勢を率いて坂本に布陣する。
七月二十三日には京へ攻め込むと宣言し、巻き込まれたくない者は速やかに京を離れるように通告した。
相国寺などの法華宗以外の寺院には、願いがあれば乱暴狼藉を禁止する制札を発行した。
六角軍だけでなく比叡山の僧兵にも厳しく通告し、定頼の禁制が守られない場合は僧であっても即座に首を刎ねると厳命した。
対する法華門徒側は二万の門徒衆を動員して京洛中の警備を固め、七月二十二日には比叡山僧兵の拠点の一つであった洛北の松ヶ崎城を攻め落とす。
六角・比叡山の連合軍は総勢六万の軍勢で京を包囲し、比叡山僧兵は八瀬方面から途中峠を越えて入洛した。六角軍は山科と山中峠から軍勢を進め、翌二十三日には四条口から洛中に侵入した。
山科からは蒲生勢が、山中峠からは三雲勢が先陣として先頭を進み、大原・進藤・後藤・青地・永原の各軍が続々と進軍する。定頼本隊は坂本に留まり、上洛軍の総大将は『東湖大将軍』大原高保が務めることとなった。
天文五年(1536年)七月二十四日
蒲生勢・三雲勢が鴨川を越え、ついに『天文法華の乱』の幕が切って落とされた。
※ ※ ※
「中書殿!お待ち下され!」
六角軍が坂本に布陣し終えた頃、北白川の将軍山城では大原高保が六角軍に合流するために出立の準備を整えていた。朽木植綱は出立直前の高保を呼び止め、改めて定頼への説得を依頼するつもりでいた。
呼ぶ声に振り返った高保は植綱の顔を認めて複雑な表情を作る。高保の方でも植綱の用件を察していた。
「霜台殿は本気なのか?本気で京を焼くと申されているのか?」
「ええ…… もはや法華宗をこのまま放置しては置けぬと申しております」
「しかし、京を焼き払うなどと……」
「お気持ちは分かります。ですが、こうなる前になんとか両者を和睦させなんだは公方様にござる。兄も”これ以上京で宗門の争いをさせておくわけにはいかぬ”と」
植綱の顔にも忸怩たる思いが見え隠れする。
将軍足利義晴は、度重なる定頼の要請にも関わらず、逆に比叡山と法華宗の対立を煽っていた。
京の地子銭を税収として得られなくなった義晴は、比叡山と共に法華宗に対して圧力を加えた。比叡山としては法華宗寺院を配下に加えることで比叡山の権威を上昇させたいという目論見があり、その為に法華宗二十一の本山に対して上納金を差し出し、比叡山の末寺となる事を強要していた。
しかしそれでは義晴としては意味がない。地子銭の行先が法華寺院から比叡山に変わるだけで、結局幕府の財政を潤すことは出来ない。
その為、当初は比叡山と共に法華宗と対立するも、比叡山と法華宗の裁判では法華宗に有利な判決を下すといった迷走ぶりをさらけ出していた。
そうこうしている内に法華門徒は惣堀を構えて武装し、自警団を組織して明確に下京一帯を支配下に置き始めた。戦の気配に驚いた義晴は、幕臣と共に室町第を脱出し、昨年生まれたばかりの嫡男・菊童丸を連れて北白川の将軍山城に避難している。
「京には帝もおわせば、罪のない民草も大勢おりまする。無闇に京を焼いたりすれば、霜台殿にとっても取り返しのつかぬ悪評となりましょう。今一度中書殿から霜台殿に思い留まられるように申し上げれば……」
高保が植綱から視線を外して寂しそうに笑った。全てを諦めた表情に、植綱の胸も締め付けられるように苦しくなる。
「全て覚悟の上でござる。それでも、今この時にこれ以上京を宗門争いの巷にしてはならぬと兄は申しておりました。
地子銭で争いが起きるならば、そもそも地子銭を出す町家を全て焼き払うしかない。そうしなければ、次は比叡山と公方様が相争うことになりましょう。
公方様が戦うとなれば、天下騒乱となるのは必定。摂津でも六郎様と八郎様が未だ争いを続けている。そこへ一向宗と法華宗、比叡山までもが加われば、応仁の大乱の再現でございます。
全てを未然に防ぐ為にはやむを得ぬこと……」
高保の言葉に植綱は何一つ言い返せなかった。そうした事態を憂いて、定頼からは義晴に対して何度も和睦を仲介するようにと書状が出されている。しかし、幕府の自立を目指した義晴は是が非でも財源を確保するべく、法華僧を京から追い出すことしか考えなかった。
義晴は単純に法華僧を京から追い出せば地子銭は幕府に納入されると考えていたが、法華僧を追い出しても次は比叡山が政治に介入してくることは目に見えている。
後白河法皇の例を引くまでもなく、比叡山は古より京の政情に干渉を繰り返してきた歴史がある。法華宗を追い出した後、今回だけは口を出さないと考える方が愚かと言えた。
「某はこれより兄の軍勢に合流いたします。民部殿には公方様のお側を離れぬよう、くれぐれもお願い申す」
腰を折って植綱に礼を尽くす高保に、植綱にはそれ以上何も言えなかった。
弾正・霜台… 六角定頼 六角家当主 霜台は弾正の唐名
藤十郎… 蒲生定秀 六角家臣
中書… 大原高保 六角家臣 定頼の実弟 定頼の指示で足利義晴の側衆として近侍していた 中書は中務大輔の唐名
六郎… 細川晴元 細川京兆家当主
八郎… 細川晴国 晴元に敗れた細川高国の弟
公方… 足利義晴 十二代足利将軍
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―――嫌なツラだな
定秀は対面に座る木沢長政のニヤけた顔に不快感を覚えていた。
正面から見てしまうとどうしても眉間にシワが寄る。そのため、木沢の胴の辺りに視線を落として聞くともなく話を聞いていた。
幸い和平交渉の使者は進藤であって、定秀はあくまでも従者という扱いだ。木沢と正面から話をする必要はない。
「……以上のように、我が主は法華門徒のこれ以上の無法を何とかとどめて欲しいと申しております。
このままでは京洛に再び騒乱を起こすことにもなり申す。法華寺院の僧たちを鎮め、堀を埋めて武装解除をさせ、公方様へも地子銭を差し出すようにお手前方から申し入れて頂けませんか?」
進藤がゆっくりと、丁寧に、木沢長政に申し伝える。特に”京に騒乱を起こしかねない”という所を強調していた。
だが、当の木沢は相変わらずのニヤけ面のまま軽く下を向くと、何やら考え事をする風を装っていた。
「いかがでございましょう。法華門徒は六郎様に従って本願寺と戦いました。六郎様やお手前からの言葉ならば多少は聞き分けるのではありませんか?」
「……難しいでしょう。実は我らもいささか法華門徒には手を焼いておりましてな。なんともまあ、門徒以外の言葉は聞かぬと、梃子でも譲らぬ姿勢を見せております。
いっそのこと、弾正様のお力で法華門徒を懲らしめて頂いた方が良いかもしれませんぞ」
軽口と笑い声まで混じった他人事のような物言いに、定秀が思わず木沢の顔を正面から見据えた。
定秀は眉間に深くシワが刻まれた険しい顔つきをしていたが、当の木沢はどこ吹く風といった顔をしている。
「法華宗だ比叡山だと言って、結局はみな京で勢威を振るいたいだけのこと。次から次に……
キリがありませんな」
「一つ、お伺いしたい」
定秀の刺々しい口調に、木沢が初めて定秀がそこに居ることに気が付いたかのような顔をする。
馬鹿にするのかと尚も怒りが込み上げてきた。
「元はと言えば、お手前方が三好筑前殿を討つために一向宗を動員致しました。一向門徒が邪魔になれば、次は法華門徒を使ってこれを追い払われた。そして次は法華門徒を比叡山と我らを使って追い払おうとしておられる。
一体お手前方は……六郎様は何を考えておられるのか」
「……使える物を使っただけでござるよ。邪魔になれば、捨てるのが道理。
ほれ、狡兎が死ねば走狗も煮られるのが宿命でございましょう」
―――この…… クズが!
思わず片膝を立てて腰に手をやった定秀を進藤が力づくで抑える。
定秀の殺気に一瞬ビクッっと身を引いた木沢だったが、進藤の態度を見て再びニヤけ面に戻っていた。
「弾正様にはお手数をおかけして申し訳ないが、まあ宗門の争いというものは武家がかかずらう物ではありませぬ。ほどほどに懲らしめて下されば充分にございます」
「……承知いたしました。それが六郎様の意向であると主には申し伝えましょう」
進藤の言葉に木沢が満足気に頷く。邪魔になった法華門徒を駆逐する為に六角の軍勢を使えることが愉快なのであろう。自分の軍勢を損せずに済む。
今や法華門徒は下京一帯に惣堀を構え、それなりの防御施設を備えるようになっていた。
まともに戦をすれば多少なりとも被害が出るだろう。損失は六角に被ってもらおうという魂胆が見え見えだった。
「ああ、そうそう。宗門と言えば、本願寺が四年前に世を騒がせた罪を許されたいと願い出ておりますぞ」
「それは公方様へ願い出るのが筋でございましょう」
「幕府へは既に願い出ました。六角弾正様の御意向を伺わねば決められぬというにべもないお返事でしてな」
「……今は法華宗と比叡山の揉め事を収めるのが先決。本願寺の御赦免についてはそれからです」
「承知いたしました。証如殿にはそのようにお伝えいたしましょう」
―――さんざん争っておきながら、今はぬけぬけと本願寺とつるんでいるということか
それ以外に木沢が本願寺の赦免の願いを取り次ぐ理由が無かった。まるで蝙蝠のような男だと思う。
結局、一揆に巻き込まれた民衆だけが馬鹿を見る。先年の一向一揆では、一揆衆だけでなく無関係な民衆にも被害が出ている。
もとより自ら武器を取った一向一揆衆に同情する気はさらさらないが、巻き込まれる無辜の民こそいい迷惑だ。
法華門徒もその多くは京で商いをするただの商人だ。法華宗寺院や細川晴元の都合で戦乱に巻き込まれることは気の毒に思った。
天文五年(1536年)七月十一日
この日の醍醐寺での会見は物別れに終わった。
進藤と定秀は観音寺城に戻り、定頼に会見の内容をそのまま伝えた。
※ ※ ※
「そうか……」
亀の間で報告を聞いた定頼にも笑顔は無かった。笑顔どころか、一切の表情を出していなかった。定頼はしばし瞑目したが、一つ大きく息を吐くとおもむろに進藤と定秀に切り出した。
「では、やむを得んな。京を焼く」
―――きょうをやく……
定秀は定頼の言葉を頭の中で無感情に反芻するだけだった。言葉の意味が中々頭に染みて来ない。
やがてその意味を理解した時、思わず定頼に詰め寄っていた。
「御屋形様!何故でございます!悪しきは六郎様と木沢、それに法華の坊主共でございましょう!京の民には何一つ落ち度は……」
「わかっている。だが、これ以上宗門の争いを続けさせるわけにはいかぬ。京の民には申し訳ないが、一度全てを焼き払わねば収まらぬ。
今回法華宗を追い払ったとして、次は比叡山が増長するだけだ」
「しかし!」
「藤十郎!控えよ!御屋形様に逆らう気か!」
隣の進藤に一喝されて定秀が言葉に詰まる。定頼は無表情のまま立ち上がると、定秀の肩をポンと叩いた後、そのまま奥へと下がって行った。
「藤十郎。一番お辛いのは御屋形様なのだ。御屋形様はこうなることを未然に防ごうと様々に努力されてきた。だが、事ここに至ってはやむを得ぬ。宗門の争いの元凶を取り除くしかない」
「………」
「以前に三好筑前殿とお話された折り、御屋形様はこう申されていた。
”天下人には世の悪評を跳ね返すだけの心の強さが必要である”と。御屋形様は今こそ京の騒乱の元凶を取り除き、京の平和を取り戻すために一度焼き払わねばならんと申されているのだ。
場合によっては、御屋形様の名は応仁の大乱以上の災禍を京にもたらした悪鬼として史に刻まれるかもしれん。我ら家臣がその御心を分からずして、何とする」
「……申し訳ありませんでした」
進藤に言われずとも定頼の辛い心は定秀にも充分に伝わって来た。
―――何故、宗門などに手を出したのだ……
細川晴元と木沢長政の馬鹿さ加減に心底腹が立った。奴らが馬鹿なことをしなければ、こんな事態にはならなかったかもしれない。
そう思うと、ただただやるせなさだけが残った。
天文五年(1536年)七月二十日
六角定頼は五万の軍勢を率いて坂本に布陣する。
七月二十三日には京へ攻め込むと宣言し、巻き込まれたくない者は速やかに京を離れるように通告した。
相国寺などの法華宗以外の寺院には、願いがあれば乱暴狼藉を禁止する制札を発行した。
六角軍だけでなく比叡山の僧兵にも厳しく通告し、定頼の禁制が守られない場合は僧であっても即座に首を刎ねると厳命した。
対する法華門徒側は二万の門徒衆を動員して京洛中の警備を固め、七月二十二日には比叡山僧兵の拠点の一つであった洛北の松ヶ崎城を攻め落とす。
六角・比叡山の連合軍は総勢六万の軍勢で京を包囲し、比叡山僧兵は八瀬方面から途中峠を越えて入洛した。六角軍は山科と山中峠から軍勢を進め、翌二十三日には四条口から洛中に侵入した。
山科からは蒲生勢が、山中峠からは三雲勢が先陣として先頭を進み、大原・進藤・後藤・青地・永原の各軍が続々と進軍する。定頼本隊は坂本に留まり、上洛軍の総大将は『東湖大将軍』大原高保が務めることとなった。
天文五年(1536年)七月二十四日
蒲生勢・三雲勢が鴨川を越え、ついに『天文法華の乱』の幕が切って落とされた。
※ ※ ※
「中書殿!お待ち下され!」
六角軍が坂本に布陣し終えた頃、北白川の将軍山城では大原高保が六角軍に合流するために出立の準備を整えていた。朽木植綱は出立直前の高保を呼び止め、改めて定頼への説得を依頼するつもりでいた。
呼ぶ声に振り返った高保は植綱の顔を認めて複雑な表情を作る。高保の方でも植綱の用件を察していた。
「霜台殿は本気なのか?本気で京を焼くと申されているのか?」
「ええ…… もはや法華宗をこのまま放置しては置けぬと申しております」
「しかし、京を焼き払うなどと……」
「お気持ちは分かります。ですが、こうなる前になんとか両者を和睦させなんだは公方様にござる。兄も”これ以上京で宗門の争いをさせておくわけにはいかぬ”と」
植綱の顔にも忸怩たる思いが見え隠れする。
将軍足利義晴は、度重なる定頼の要請にも関わらず、逆に比叡山と法華宗の対立を煽っていた。
京の地子銭を税収として得られなくなった義晴は、比叡山と共に法華宗に対して圧力を加えた。比叡山としては法華宗寺院を配下に加えることで比叡山の権威を上昇させたいという目論見があり、その為に法華宗二十一の本山に対して上納金を差し出し、比叡山の末寺となる事を強要していた。
しかしそれでは義晴としては意味がない。地子銭の行先が法華寺院から比叡山に変わるだけで、結局幕府の財政を潤すことは出来ない。
その為、当初は比叡山と共に法華宗と対立するも、比叡山と法華宗の裁判では法華宗に有利な判決を下すといった迷走ぶりをさらけ出していた。
そうこうしている内に法華門徒は惣堀を構えて武装し、自警団を組織して明確に下京一帯を支配下に置き始めた。戦の気配に驚いた義晴は、幕臣と共に室町第を脱出し、昨年生まれたばかりの嫡男・菊童丸を連れて北白川の将軍山城に避難している。
「京には帝もおわせば、罪のない民草も大勢おりまする。無闇に京を焼いたりすれば、霜台殿にとっても取り返しのつかぬ悪評となりましょう。今一度中書殿から霜台殿に思い留まられるように申し上げれば……」
高保が植綱から視線を外して寂しそうに笑った。全てを諦めた表情に、植綱の胸も締め付けられるように苦しくなる。
「全て覚悟の上でござる。それでも、今この時にこれ以上京を宗門争いの巷にしてはならぬと兄は申しておりました。
地子銭で争いが起きるならば、そもそも地子銭を出す町家を全て焼き払うしかない。そうしなければ、次は比叡山と公方様が相争うことになりましょう。
公方様が戦うとなれば、天下騒乱となるのは必定。摂津でも六郎様と八郎様が未だ争いを続けている。そこへ一向宗と法華宗、比叡山までもが加われば、応仁の大乱の再現でございます。
全てを未然に防ぐ為にはやむを得ぬこと……」
高保の言葉に植綱は何一つ言い返せなかった。そうした事態を憂いて、定頼からは義晴に対して何度も和睦を仲介するようにと書状が出されている。しかし、幕府の自立を目指した義晴は是が非でも財源を確保するべく、法華僧を京から追い出すことしか考えなかった。
義晴は単純に法華僧を京から追い出せば地子銭は幕府に納入されると考えていたが、法華僧を追い出しても次は比叡山が政治に介入してくることは目に見えている。
後白河法皇の例を引くまでもなく、比叡山は古より京の政情に干渉を繰り返してきた歴史がある。法華宗を追い出した後、今回だけは口を出さないと考える方が愚かと言えた。
「某はこれより兄の軍勢に合流いたします。民部殿には公方様のお側を離れぬよう、くれぐれもお願い申す」
腰を折って植綱に礼を尽くす高保に、植綱にはそれ以上何も言えなかった。
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