龍虎

ヤスムラタケキ

文字の大きさ
上 下
21 / 22
第一章 胎動

第二十一話 九州遊学

しおりを挟む
 久坂玄瑞は、月性の勧めに従って、九州へ遊学の旅に出ることにした。目的地は、肥後熊本。懐中には、月性から宮部鼎蔵への、紹介状が、納めてあった。
 しかし、玄瑞には、月性には言っていない、もう一つの、目的地があった。それは、長崎である。長崎は、西洋文化に触れることのできる、数少ない場所の一つだった。兄、玄機が、熱中した蘭学を、玄瑞も、学んでみたいと思っていた。
 いずれにせよ、玄瑞にとっては、初めての一人旅である。自然と、心が躍った。
関門海峡を小舟で渡って、小倉に入って以降、各地の名士を訪ねて回った。玄瑞は、漢詩を得意としており、彼らには、主に、漢詩の添削をしてもらった。
 そうやって、諸国を巡歴しながら、いよいよ、肥後熊本に、足を踏み入れた。まっさきに、尋ねたのは、当然、宮部の居宅だった。宮部は地元では、ちょっとした奇人で通っているらしく、道順を尋ねた村人全員が、いぶかし気な目をして、玄瑞をじろじろ見た。玄瑞の脳裏を、月性が高笑いしながら、通過していく。宮部も、月性みたいに気性の荒い人物なのだろうか。そう考えると、少し、恐ろしいような気もした。
 宮部の居宅は、山深い所にあった。草を掻き分け、木に摑まり、手や顔に、擦り傷をつくりながら、息を切らせて、登った。やがて、貧疎な造りの家が見えて来た。
家は、重厚な緑の底に、沈んでいた。風が木々を揺らす音が、絶え間なく聞こえる。葉が、静かに、舞い落ちる。玄瑞の足が、葉を踏む乾いた音が、静寂な空間に響いた。
 玄関表で、呼びかけると、裏手から、一人の男が出て来た。畑仕事でもしていたのか、服が泥だらけだった。
 玄瑞は、礼をした。
「長州藩の久坂玄瑞と申します。宮部先生に、お会いしたいのですが、案内いただけますか?」
 男は、うん、うんと頷いている。
 玄瑞は、もう一度、言った。
「宮部先生にお会いしたいのですが」
 男は、自分の顔を、指さした。
「私が、宮部だが」
 玄瑞は、内心、拍子抜けした。
―尊王攘夷の権化というから、どんな偉丈夫が出てくるかと思っていたが
 宮部は、そんな玄瑞の様子にはお構いなく、踵(きびす)を返して、一人で歩き出した。玄瑞が、声をかけようとすると、宮部の右手が上がった。どうやら、ついて来いということのようだ。
 玄瑞は、宮部について、家の中に入った。客間に通されて、まず、目に入ったのが、床の間の掛け軸だった。
―攘夷―
 この二文字が、大書されている。玄瑞が、正座して、掛け軸を、見つめていると、湯呑を二つ手に持って、宮部が部屋に入って来た。
「どうだ、いい出来だろう」
 玄瑞は、差し出された湯呑を、受け取った。
「はい。宮部様がお書きになられたのですか?」
 宮部は、笑って、手を振った。
「いや、いや。私は書が下手でね。これは、長州藩の吉田寅次郎という人が書いた物だ。松陰と言った方が、通りがいいかもしれないが。君、知らんかね?」
 玄瑞は、記憶を、辿る。聞いたことのない、名前だった。
「どのような、人物ですか?」
 身を乗り出す玄瑞を見て、宮部は、笑った。
「その前に、まず、君は、何しに、こんなところまで、来たのかね。そこのところから、教えてくれたまえ」
 玄瑞は、その言葉を聞いて、我に返った。
「これは、失礼しました。これを」
 懐中から、月性に書いてもらった紹介状を、取り出して、宮部に、渡した。
 宮部は、書状を広げて、文面に、目を走らせていく。
 読み終えた宮部は、書状を、丁寧に折りたたみながら、言った。
「久坂君。月性さんは、君のことを、ずいぶん褒めているよ」
「恐縮です」
 宮部は、湯呑を、口に運んだ。茶が、喉を通る音が、ごくりと聞こえた。
 しばらく、沈黙が流れる。外の木々の間から、鳥の鳴き声が、時折、届く。宮部が、口を開いた。
「久坂君。私は、攘夷は、すぐにでも、行うべきだと考えている」
 久坂の、膝の上の拳に、力が入った。
「僕も、そう思います。時を置けば、その分、日本は、夷人の侵略を許してしまうことになります」
 宮部は、それを聞くと、湯呑を、一気に飲み干して、畳に、叩きつけるように置いた。
「そのとおり。久坂君、よく来てくれた。今宵は、語り明かそうぞ。」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す

矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。 はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき…… メイドと主の織りなす官能の世界です。

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました

フルーツパフェ
大衆娯楽
 とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。  曰く、全校生徒はパンツを履くこと。  生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?  史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。

堤の高さ

戸沢一平
歴史・時代
 葉山藩目付役高橋惣兵衛は妻を亡くしてやもめ暮らしをしている。晩酌が生き甲斐の「のんべえ」だが、そこにヨネという若い新しい下女が来た。  ヨネは言葉が不自由で人見知りも激しい、いわゆる変わった女であるが、物の寸法を即座に正確に言い当てる才能を持っていた。  折しも、藩では大規模な堤の建設を行なっていたが、その検査を担当していた藩士が死亡する事故が起こった。  医者による検死の結果、その藩士は殺された可能性が出て来た。  惣兵衛は目付役として真相を解明して行くが、次第に、この堤建設工事に関わる大規模な不正の疑惑が浮上して来る。

校長先生の話が長い、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
学校によっては、毎週聞かされることになる校長先生の挨拶。 学校で一番多忙なはずのトップの話はなぜこんなにも長いのか。 とあるテレビ番組で関連書籍が取り上げられたが、実はそれが理由ではなかった。 寒々とした体育館で長時間体育座りをさせられるのはなぜ? なぜ女子だけが前列に集められるのか? そこには生徒が知りえることのない深い闇があった。 新年を迎え各地で始業式が始まるこの季節。 あなたの学校でも、実際に起きていることかもしれない。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

就職面接の感ドコロ!?

フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。 学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。 その業務ストレスのせいだろうか。 ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。

処理中です...