猫被り姫

野原 冬子

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1、ロングギャラリー

侯爵代理と忠臣執事

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 床に崩れ落ち肩を震わせているクリスティアナを、後妻のリリアと義姉のアリスが満足そうに見遣って笑みを交わした、ちょうどそのとき。

 開け放っていた左手奥の扉から、絹の白地に金糸の華やかな刺繍のある派手なコートを華麗に着こなした、王都侯爵代理のジョエルが颯爽と現れた。
口元に優雅な笑みを浮かべ、流れるような動作でリリアの細い腰を抱き寄せて亜麻色の髪に口付けを落とす。

「面白い話をしているね。私の美しい妻と可憐な娘に推理の才能があったとは、驚きだ」

「まぁ、ジョエルったら。すぐにわかりそうなものじゃない」

「そうよ、お父様だって絶対おかしいって思うでしょう?」
美貌の母娘がくすくすと笑溢れると、ジョエルは満足げに口角を上げた。


「もはやどうでもいい話だよ」

ジョエルは目を眇めて、床に座り込んで俯いているクリスティアナを見遣る。

「貴族学園の卒業資格を持たない者に、伯爵家以上の爵位を継ぐ資格はない。王立学府の卒業者名簿に名がないまま18歳を迎えれば、あれは次期侯爵継承の誓約条件を満たさなくなるからね。後継者に指名されておきながら、それを果たせなかった無能など、侯爵家から籍を抜いて平民に落とし修道院で生涯を終えるのが相応しいだろう」

ジョエルは愛娘のアリスの頭をひと撫でして、優しく微笑んだ。

「あとひと月で、あの忌々しい誓約は失効する。アリスは侯爵家当主の大切な娘として、王太子殿下のお妃選びの夜会に参加することになるね」

「ふふふ、アリスば貴方と私に似てとても美しいわ。こんなに愛らしくて可憐なんですもの、きっと王太子殿下のお目に止まるわよ」

「きゃっ どうしましょう、お父様。夜会までに、ダンスの練習にお付き合いくださいませね? たくさん練習しないとアルフレッド様に抱き寄せられた緊張でステップを間違ってしまいそうで怖いの」




 目前で繰り広げられる明け透けないやりとりに、床に横座りになり顔を伏せているクリスティアナの肩が小刻みに震えている。

 家族間の会話とはいえ、王族である王太子殿下を平気で名前呼びにするアリスの無礼さにも呆れ果ててしまうが、それを笑顔でスルーして注意しようとしない父親と母親の教育方針にも疑問しか湧かない。



 震えているクリスティアナに、ジョエルが嘲りを隠さぬ笑みを浮かべたとき。





 カツンと床を鳴らして踵を揃える小気味よい靴音が、不穏な澱みを孕もうとしていた空気に差し込んだ。

「旦那様、お待たせをいたしました。馬車の準備が整いましたので、どうぞ玄関ホールへご移動ください」

きっちりと執事服を着込んだ一分の隙もない立ち姿を現したのは、侯爵家の敏腕執事長モーリス・ファースだった。
今年五十路に足を踏み入れる、銀の混ざった鳶色の髪と瞳の折目正しい初老の紳士だ。


「ああ、モーリスか。わかった、向かおう」

 ジョエルは、少し先の床に蹲り俯いているクリスティアナを眇めて見る視線を外さず、やおら口元に薄い笑みを刷く。

「ところでモーリス、ギャラリーの床はきちんと磨かれていないようではないか?」

ジョエルは妻の腰を抱いたまま、もう一方の手で娘の手を優雅に取り上げてから、モーリスをチラリと見遣った。

スマートに妻と娘を促し扉に向かい数歩後退して、立ち止まる。
さっと視線を巡らせ、窓辺に置かれたテーブルセットに目を止めた。

その目線の先には、可憐に咲く白いフリージアの束を刺した素焼きの花瓶があった。


 モーリスは、ジョエルの視線をなぞりその意を汲んで小さく頷いた。
やおら腰を屈めて人差し指でサッと床を拭って見せると、迷いなく窓辺のテーブルに向かいフリージアの花瓶を取り上げた。


そのまま花瓶を持ってギャラリーの中央へ移動するモーリスを目で追いつつ、ジョエルは意味ありげに傍に置いた妻と娘に目配せをする。

「あら、楽しそうね」
「お花がかわいそうだわ」
「まぁ、お花がかわいそうなんて、アリスは本当に優しい子ね」


モーリスは、明るく笑い合う母と娘の会話を背中で聞きながら、広間の中央で立ち止まる。
花瓶を顔の位置まで持ち上げ、そのまま躊躇なく手を離した。


ゴンという鈍い音がして、床に落ちた花瓶が横様に倒れる。
中の水が床にぶち撒けられ、可憐なフリージアの花束もバラバラになって床に散った。


 モーリスは床の惨状を感情の欠片も無い目で眺め、同じ目をクリスティアナに向ける。

かつての主人が、目を潤ませて声を漏らすまいと必死に両手で口を押さえいた。
思わず口角が上がってしまいそうになったが、グッと鳩尾に力を入れて湧き上がる感情を押さえ込むと、努めて口元を引き締めた。



「埃が残っていた。無能め。もう一度水拭きからやり直したまえ」



クリスティアナは転がった花瓶と水浸しになった床、そしてフリージアにゆっくり視線を送りながら、おずおずと立ち上がり、エプロンの前で手を組み深くお辞儀をした。

「かしこまりました」




「はっ 侯爵家の忠義の鑑たる男に見限られ、実に哀れだな」
ジョエルが歪な笑みを浮かべて哄笑する。

「さあ、行こう。今日は王族の方も観劇にいらっしゃるそうだ。いいねアリス、殿下をお見かけしたら、しっかりご挨拶するんだよ?」

「はいっお父様、お任せください!」

明るい声を上げながら、3人がギャラリーを出てゆく。




 最後に残ったモーリスが、扉を閉めるためドアノブに手をかけ、少しだけクリスティアナを振り返って見ると。


 すくっと立ち上がり、水とフリージアがぶちまけられた中央に移動して花瓶を取り上げていた。

床に落とされた脆いはずの素焼きの器は、ひび割れも欠けもしていなかったし、コート剤で保護された床は見事に溢れた水を弾いている。


 いつもであれば一瞥もくれないのに、珍しくちらっと意味深な視線を送ってきたクリスティアナに、モーリスの口角は微かに上がってしまった。

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