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四ノ巻  胸中語るは大暗黒天

四ノ巻9話  もう一人の敵

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 息を切らして駆けてきた、かすみの胸に。早朝の空気が呼吸のたび、冷たく染み入る。もやを薄く漂わせた、湿った空気。
 そして今足を止め、見つめる先には。その湿り気の源であろう、雲のような分厚い霧のかかった一角があった。

 百見が何度も深呼吸をし、息を整えた後で言う。
「あの中か……皆、無事だといいが」

「はい、早く――」
 荒い呼吸のままそう言い、駆け出そうとしたかすみの袖を、百見が引っ張った。
「待つんだ、思い出してほしい。敵の狙いは誰だい」

 かすみは口を開け。消え入るような声で言った。視線がうつむく。
「私……私の、毘沙門天、です」

「そのとおり。わざわざ敵地に飛び込んだのでは、むしろ黒幕の思う壺……ということも考えられる」
「けど……!」

 百見はうなずいた。
「ああ、心配する気持ちも分かる。だからこの辺り、何かあればすぐに動ける場所で待とう。何、あの四人がいて負けると思うかい?」
 かすみに笑いかけ、それから真顔で続けた。
「彼らが戻るまで、僕が守ろう。この四天王が一人、『広目天こうもくてん』の百見がね」

 かすみは霧の方を見つめ、それから百見を見てうなずいた。

 その足下に何かが落ちた。風に乗って滑るように届いたそれは、大きな白い紙。どうやらスケッチブックのページをはぎ取ったものらしかった。

 なんでこんなものが、そう思いながら拾い上げる。裏返したそこには書かれていた、マジックで黒く太く、角ばった文字で。
『ハンパ者』――と。

「これは……」
 かすみがつぶやくうちにも別の紙が二枚、足下に滑り込む。
『バカ』
浅慮せんりょ

「……何だ」
 眉をひそめた百見の足下に、さらに紙が滑り込む。
『ハンパなのだよ、その位置は』
『彼女を守るなら、危険がないよう遠く離れる』
『彼らを助けるならすぐに向かって、数にものをいわせて制圧する』
『そのどちらもできない位置にいる』
『だからハンパ、だからバカ』

 だんだんと粗くなっていく文字の書かれた紙はさらに増えさらに増え。気づけば辺りに広がる霧の中、流れるように二人の足下へ届けられてゆく。いや、実際にそれは流れていた、いつの間にか地面の上を浅く流れている、水に乗って。
『いやはや大したお知恵だことだ』
『まったく大した知恵袋だ』
『大きな穴の開いた、ね』
『バーカ』
『バーカ』
『バ』
『ア』
『ア』
『ア』
『ア』
『ッ』
『カ』

 この字は何だか分からないが。この霧、そして水の力。かすみには、それを使う者に覚えがあった。
「『妙音弁才天みょうおんべんざいてん』……鈴下さん」

 果たして、少し先の木立。その陰から姿を見せたのは、歯を剥いて笑う鈴下つむぎ。その手にはスケッチブックとマジックペンが握られていた。
 その表紙をめくり、ページに何か手早く書き込み。こちらに向けた。
『ご名答』

 無言でいる百見に代わり、かすみは声を上げた。
「鈴下さん。あなたと、そして東条紫苑。彼が黒幕なのは分かりました。どういう思惑でそうしているのか、それは分かりませんが……もう、やめにしませんか」

『やだね』
 そう書き込んだページを見せ、鈴下は首を横に振る。にたにたと笑ったまま。

 かすみは眉を寄せた。
「というか……何なんですかそれ。それに、なぜ私たちの所に」

 あらかじめ書いてあったのか、鈴下は即座にページをめくる。
『君への気づかいさ。私が声を発すると、また弁才天の洗脳詩ことばを使うのでは、と警戒してしまうだろう』
『まずは話し合いがあの人の望み。その機会を無意味に摘みたくない』

 趣旨として筋は通っている。だが。
「だったら、この内容は何なんです」
 先ほどから届けられている紙をつまみ上げ、突き出す。
 話し合いを求めているのは分かったが、だったら百見を挑発する意味はないはずだ。

 ふ、と鼻で息をつき、鈴下は歯を剥いて笑う。ペンの音も高くスケッチブックに文字を書き、こちらへ向けた。
『思ったままさ。そして事実』
『君たちの怪仏退治、我々も状況を観察させてもらっていたが』
『実に陳腐な作戦。時に効率を時に情を優先させる、中途半端な方針』
『それを決めていたのはどうやら、そこの彼らしいが』
『だから素直にバカにしたのさ』
『今だってどうせ、この辺りのハンパな位置で様子を見るだろうと思ってたら』
『本当に来たよこのバカは』

「な……!」
 かすみの頬が引きつる。

 だが百見は無言でいた。何の表情もなく、どこか焦点の定まらぬ視線を下へ向けていた。

 そのまましばらく待っても百見はやはり何も言わず。
かすみは喋った。まるで百見の代わりみたいに、二人分の大きな声で。
「な、何か言って下さいよ! こう、ほら、何か気の利いた皮肉で返してやりましょうよ、その……『君がいちいち字書く間、どう暇を潰せっていうんだよ』とか……」

 百見は小さくかぶりを振った。うつむいたまま。
「すまない……気を遣わせて。だがいいんだ、本当のこと、だ」
 深くため息をついた。
「自分でよく分かってる……慕何ばかだよ、僕は」

「え……」

 そのままの姿勢で百見はつぶやく。
「昨日の件もそう、君や賀来さん、斉藤くんまで危険にさらした……僕の思慮がもっと行き届いていれば、そんなことにはならなかったはずだ」

「何言ってるんですか、そんなこと……だいたいそれは、私と賀来さんの――」

 百見は首を横に振った。うつむいた頬が、目元が歪む。
慕何ばかだよ……彼女の、言うとおり」

「そんなこと、ありません」
 かすみは百見の目を見て言った。
「そんなことありません、百見さん。私たちだけじゃ、そもそもどうしていいか分からなかった……最初の事件だって、私も賀来さんも斉藤さんも、百見さんがいなかったら助かりませんでした」

 それでも百見の表情は変わらない。

 それを見てか、鈴下がまた鼻で笑った。

 とたん、かすみの頬が引きつる。
「鈴下さん!」
 靴のかかとが地面を擦る音も高く、かすみは鈴下へ向き直る。突き刺すように指を差した。
「取り消して下さい。謝って下さい、私の友だちに」

 鈴下は眉根を寄せ、見下ろすような目をして。無言のまま、舌を長く突き出してみせた。

 自分の頬がさらに固く引きつるのを感じながら、かすみは言う。
「……言っときますけど鈴下さん、慕何ばかはあなたですからね」
 分かっている、こんなことを言うべきではないと。普段の自分なら絶対言わないと。それでも、言った。
「人にバカだって言ったハンパな距離、そこにあなた自身いるんですからね。もっと遠くにいたら良かったのに……それとも、近くに来て遊びませんか。私の、刀八とうばつ毘沙門天と」

 その名を聞いた瞬間、ひ、と鈴下は声を漏らしていた。同時、目を見開いて後ずさる。エビのようにへっぴり腰で。

 ますます自分の顔がこわばるのを――まるでひび割れていくかのように、びきびきと――感じつつ、かすみは続ける。
「本当に慕何ばかですあなたは、昨日のことも覚えてないんですからね。私の刀八とうばつ毘沙門天にびびり散らかして、一言も喋れなかったことさえ忘れて。のこのこ目の前に現れたんですから、叩き斬って下さいって言うみたいにね。短冊たんざく切りのようにバラバラに……いいえ、千切り、微塵みじん切り……もっと微塵みじんに、き肉のように――」

 口を開けて震え出す鈴下を見ながら。
 かすみの頭の奥が考え出す――そうだそのとおりだこの慕何ばかは、自分のことを何も分かっていないのだ、だったら思い知らせてやろう自分の無力さを自分が意見できる立場にないことを、そうだぼう私の怪仏を、そうだぶのだ我を、汝の怪仏、我を刀八とうばつ毘沙門天を――

「――さん、谷﨑たにさきさん! しっかりするんだ!」
 気づけば、百見がかすみの肩をつかみ、必死に揺さぶっていた。
そしてかすみの両手は印を結ぶように組み合わされかけ。黒いもやを立ち昇らせていた。辺りの霧を塗り潰すかのように濃く。

「な……っ!?」
 慌てて両手をほどき、火を払いのけるみたいに何度も振るう。やがて黒いもやは止まり、かき消えていった。

 そのことに気づいて、数秒してから。ようやく、かすみの心臓が早く脈打ち出す。
 ――もしかして、操られかけていた? 怪仏に、かつての斉藤や黒田のように――

 鈴下は遠く離れたところで木の陰に隠れ、顔だけ出してこちらをうかがっている。
 そちらとかすみの方へ、交互に視線を向けながら百見が言う。
「言ったはずだ、その力を使うべきじゃあないと。制御できる保証がない、それに、それこそが奴らの策かもしれない……毘沙門天をわざと引きずり出し、何らかの方法でそれを奪う、といった」

 かすみが目を瞬かせているうち、百見は続ける。てきぱきとした一定のテンポで、一語一語をはっきりと。
「かといって僕だけで彼女と戦えば、君の防護がおろそかになる。奴に他の仲間がいた場合、君が危険にさらされる」
 息を継いで続ける。
「だから。何もしない、それがここでは最上の策。彼女からの攻撃に警戒しつつ、黒幕の加勢に行かれないよう、ここで牽制けんせいし続ける。崇春たちの方は大丈夫だ、あの四人がいて負けるとは考えられない」

 百見は顔を上げ、鈴下の方へ声をかける。
「聞こえたかな、聞こえてなくてもいいが。崇春たちの用事が終わるまで、そこで好きなだけスケッチブック漫談でもしていてくれ。もちろん妙な力を使うようなら、あるいはここから逃げるようなら。僕の広目天が黙ってはいない」

 かすみは長く息をついた。それから百見へ頭を下げた。
「すみません。それに、百見さん――」
 力を込めて指差し、続けて言う。笑って。
「賢い」

 百見は口の端を持ち上げ、苦く笑う。
「当然さ」

 やがて、鈴下が木の陰から姿を現す。咳払いの後、伏目がちに話し始めた。
「……勘違いしないでもらいたいのだがね。私が来たのは別に、策略に乗せようといった訳ではないんだ」

 百見の手が印を結ぶ。
「誰が喋っていいと言った」

 鈴下が歯を剥く。
「仕方ないだろ距離遠いし! いい加減まどろっこしい、変なマネをしたら遠慮なく攻撃してくれていい。……何の話だったか。私がここにいる目的は二つ、一つはあの人たちの方に、他の者が行かないよう見張ること。もう一つは君を――」
 かすみを指差して言う。
「守ること。君の力、毘沙門天を、他の者から守ること」

 百見が眉を寄せる。
「他の者……? どういうことだ、その力を狙う者が君たちの他にいるとでも」

 苦々しげに顔を歪め、鈴下はうなずく。
「ああ。あるいは、だがね。そいつは――」

 そのとき、風を裂く音がした。鈴下の後ろから。そして音と共に飛び来る物に、ふわ、と白い霧が裂かれ。
 それは、ど、と低い音を立てて刺さった。なたのように大振りなナイフが、鈴下の背に。深く、刀身の半ばまでをその身に埋めて。

 かすみが、そして百見も息を呑むうちに、倒れながら鈴下がつぶやく。ナイフの飛んできた、背後を見やりながら。
「シ、バ……ヅキ……」

 その視線の先、霧の中から。うつむいた男が姿を現す。
 その男はくすんでいた。くすんだ黒だった、荒れた髪も口元を隠すマフラーも、袖や裾のほつれたコートもその下のズボンも。昼の日差しの中で薄れた影のような色だった。鈴下に投げたものと同じ、片刃のナイフを持った片手も、どこか枯れたように浅黒かった。

 男はマフラーの奥から、かすれた声を洩らす。
「貴様、は、弁才天……そイつは、毘沙門天、か……」
 鈴下を見下ろした後、かすみに顔を向けてたたずんでいたが。やがて何かを探すように首を巡らし、霧の煙るもう一つの方へと向けた。
「そコか……我ガ半身。大暗黒天、よ……」

 そして鈴下の背に足をかけ。一息に刃物を引き抜く。鈴下の体が血を吹き上げるのも構わず、後も見ずに走った。紫苑らのいる方へ。

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