華奢な僕らの損得勘定

緒方宗谷

文字の大きさ
上 下
6 / 10

300gの女

しおりを挟む
 「あー、わたし、こんなに食べれませんよ。
  これ、ちょうどミンチが期限切れになるからサービスしますよって言われて、150gの値段で、新商品のバターチキンカレーを提供してもらったんですよ。
  でも、300gですよ、300g!食べきれませんよね」
 カレー専門店の中央の席で、女がぼやいていた。
 別の席に同僚のOLが座っていて、自分が巨大ハンバーグを食べていることを奇異の目で見ていることに気が付いた女が、言い訳を大声で叫んでいるのだ。
 「わたし、こんなに食べられる女子じゃないんですよぅ。
  絶対これ太っちゃいますよね」
 また1人の同僚の男が来た。
 「スゲーな、それ1人でペロリか?」
 この女と相席した男は、座るなり女に言う。
見ていると、なんだかんだ言いながら、もう半分食べていた。
 期限切れの300gは2枚あって、実は僕も頼んでいた。バターチキンカレーは新商品だからメニューには載っていないが、ミンチの大きさから考えて、1250円は下らないだろう。
 150gのハンバーグの値段で良いのだから、800円位で済む。400円の差額はとても魅力的だ。彼女もそう思って、店主の申し出を受け入れたのだろう。
 バターチキンカレーを食べるのは初めてだが、アフリカのカレーに似ている。トマトが効いていて、さわやかな酸味があるあまり辛くない味だ。普段食べなれているカレーとはだいぶ味が違う。
 「このハンバーグ、期限切れで捨てる予定だったんだろ?なら、残しても良いんじゃね?」
 「そうですけど、もったいないじゃないですか、せっかくお店の人がくれたんだし」
 女は、男の提案を選択肢に入れようとはしない。
 (それもそうだが、料理を持ってきた時に、店主は、食べ切れなかったら残しても良いと言ってくれていたではないか)
 僕はそう思ったが、彼女はもったいない、もったいないと食べ続けた。
 「苦しいなら、もうやめたら? 半分以上も食べてるじゃん。
  これだけ食べてくれたら、店員さんも満足なんじゃね?」
 「ここまで食べたんだから、全部食べないともったいないじゃないですか」
 「でも、お腹いっぱいなんでしょ?」
 「原価がもったいないでしょ?サービスしてくれた店員さんにも申し訳ないし、お金だって払うんですから」
 随分と正当な理由を並べているように思えるが、何か違う。彼女の同僚達は納得しているようだが、僕は違和感を想えた。

 1.原価については、もともと廃棄する予定だったのだから、サービスを受け入れなければ捨てていたはずだ。そもそも、正規の値段で提供していないのだから、食べ切ったとしても、店側には損害だろう。
 
 2.店主に対して申し訳ないという点は、女性には多すぎると考えて、店主は食べ切れなかったら残して良いと言ってくれているのだから、男の言う通り、残しても問題ないはずだ。

 3.支払うお金に関して言えば、150gのレギュラーの値段で良いと言われている。半分以上食べているのだから、完全に元は取れている。

 冷静に考えれば、今の彼女に損は無いはずだ。
 彼女は、新メニューの提供が始まった場合に発生するであろう1250円の架空の価値を、目の前のバターチキンカレーに見出しているのだ。
 店側が負っている原価負担をさも自分の負担であるかの様に勘違いして、店主の気持ちは既に満たされているのに、失礼に思うと考えた。更に、支払う予定の金額分は食しているにもかかわらず、残せば損をすると思い込んでいる。
 面白い心理状態だ。人は同じ物であっても、手に入れる時に考えた価値よりも、手放す時に考える価値の方が、より高く見積もるらしい。
 彼女の場合、手に入れた時は800円だと認識していたはずだ。だから、注文する予定だった100gのハンバーグを取りやめて、バターチキンカレーを注文したのだ。
 いざ残すと言う時になると、その価値は正規の値段に跳ね上がる。1.2.3.の状況を見ると、彼女が支払ったコストも、店が望んだ味見という目的も達成されているのだから、彼女にとっては十分利益が残っている状態のはずなのに。
 食べ切れない、お腹いっぱいという言葉から察するに、今彼女の目の前にあるハンバーグを食べるという行為は、彼女にとって損害以外の何ものでもないはずなのに。
 僕は、彼女が食べているハンバーグを眺めながら思った。
 「0円の価値どころか、マイナスじゃないのか?」
 彼女は食べ続ける。彼女が作り出した幻想の価値を信じ、同僚達も信じて。
 だが、僕は気が付いていた。相席をしている男だけは、彼女が言っていることを真に受けていない。繰り返す言葉は完全にポーズで、300gのハンバーグを食べ切れると思っている。僕は、彼がそのことに気が付いていると、気が付いていた。
 「結構辛いですね」
 女は辛みに弱いらしい。辛みを洗い流すのに、時折パフェを口にしていた。
 「パフェ? この女、食べ切れない食べきれないと言いながら、平然とパフェを食べているぞ」
 本人は気が付いているのだろうか。ハンバーグもそうだが、パフェも見る見るうちに減っているではないか。
 「あと少しだ、がんばれー」
 相席の男が言う。彼は、まだ気が付いていない。気が付いているのは、ハンバーグを食べ切れるという事だけだ。
 「やったー、ようやく食べ切れましたよ。もう死にそう」
 そう言いながら、女は、パフェのグラスを手に取って、そこにたまった溶けかけたアイスを掬って口に運ぶ。
 全てを平らげたことを見届けた僕は、カウンター内でコップを磨いていた店主の方を見やった。それに気が付いた店主は、僕の方を見てニヤリとする。
 僕だけじゃない、店主も気が付いているのだ。彼女がまだまだ食べられるという事を。

しおりを挟む

処理中です...