Perfume

緒方宗谷

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孤独

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 真っ白な天井が見える。東向きの窓から差し込む日差しが、顔面を乾燥させて突っ張らせる違和感から、みのるは目を覚ました。時計を見ると、もうすぐ9時だ。既に学校は始まっている。
 みのるは深くあくびをして上体を起こすと、キッチンに1杯の水を飲みに行った。するとすぐに尿意をもよおし、トイレに入る。
 まだ9歳の彼は、この時間学校に行っているはずなのだが、ここ最近は学校に行っていない。特別行きたくないわけではなかった。ただ、朝起こしてくれる人がいないから、起きる時間が段々と遅くなって、目が覚めると既に学校が始まっている。そうすると、もう行かなくて良いやとなってしまうのだ。
 テレビをつけると、どのチャンネルもニュースばかり。教育系にチャンネルを合わせて、子供向け番組を見ることにしたみのるは、幼児向けの小さなテーブルの上に放置されいたしけたスナックを食べながら、自分より小さな子供向けの番組を見やった。
 どうして、このような小さな子供が学校にも行かずに、家で幼児向け番組を見ているのだろうか。
 実は、井上家は5年前に離婚してしまって、母親がいなかった。当時のみのるはまだ4歳だったから、離婚の記憶はほとんどない。ただ、心の、背中側の左右の部分が重く、体を引きずっていたように思える。
 両親の間には空虚な距離があり、感情が温かな方向では一致していないことを感じ取ってはいた。以前は、2人の愛情に挟まれている幸せを感じ取っていたが、今は、その目に見えない圧に浴することはない。
 父親の真一が出社前に息子を起こしてやれれば良いのだが、家を出るのは午前6時過ぎ、時には始発で出社する事さえあるから、朝の面倒を見てやれなかった。
 外資系のIT企業に勤める真一だったが、正直日本企業よりもブラックなのではないかと思える仕事環境に、心身ともに疲れ切っていて、まともに子供の生活を見ることが出来ずにいたのだ。
 人間の脳みそは、1度に幾つものタスクをこなすようには出来ていない。同時に考えられることも、大抵の人は3つ程度らしい。さらに言えば、1つ1つの状況を処理していく度に、脳の判断能力は落ちて行って、思考能力が低下してしまう。
 結果として、目の前に何か問題が転がっていたとしても、視界いっぱいに広がっていて明らかに見過ごせない状況でも、目に映らないこともある。実際には映っているはずだが、脳が処理しないのだ。
 みのるの学校生活に、表向きこれといった問題は無い。確かに学校は休みがちであったが、全く行っていないわけではなかった。不登校になっている様子はなかったから、見ないことにしたのだ。
 休んだ日は担任から電話がかかってきていた。だが、みのるは何故か父親に聞かせたくないと思い、留守電を消していた。だから、息子が学校に行かない日が多いことなど知る由もない。
 みのるは久々に学校に行くことにした。特別行く気が起こったわけでもないし、行きたくない気があったわけでもない。ただ、なんとなく行く気になった。以前は毎日登校していたから、その習慣の名残だろう。
 重たい教材は全て教室の後ろにある自分専用の棚に置いていたが、それでもなおランドセルがいっぱいになるほどの教科書を持って、家を出た。
 鍵はかけない。かけようにも、そもそも鍵を持っていないのだ。みのるはまだ3年生で鍵を持つ習慣が無いし、かけたこともないから、気が付かなくても仕方ない。1階はオートロックになっているから、住人以外が共用廊下に入れる状況ではないが、何とも無防備な有様だ。
 この時間に登校する生徒はいないし、通勤途中の大人もいないから、殆ど誰ともすれ違うことは無い。大通りには幾つかのマンションが立ち並んでいるが、家から学校までは、ほぼ低層の住宅街を横切る。
 もう6月であったがあまり暑くない。日の出前まで雨が降っていたせいか、ほとんど雲が無くて直射日光を浴びる環境であったものの、気温は不快ではなかった。心地よい日差しが、みのるの歩速を少し速めてくれる。
 だが、学校が近づくにつれて、彼の心は重くなっていった。隔離された教室の戸を開くと、先生の声しか響かない空間に、カタカタカタという音が響いて、30人ばかりいるクラスメートが、一斉に自分を見つめる。それがいつも嫌で堪らなかった。
 ゴムのアスファルトの様な緑色の校庭では、隅っこのほうで1年生が何かをしていた。体育館からは、子供特有の甲高い叫び声が響いている。ただ黒い格子状の門をくぐっただけなのに、町の雰囲気とは別世界だ。
 別に静かなわけでもないのに、静寂の空気が横たわっている。
 「あら、みのる君、今日も大名出勤ね。
  良かったわ、久しぶりに来てくれて、最近来ないから心配していたのよ。
 もう1時間目は終わるころだから、休み時間になってから、教室に行きなさいよ」
 たまたま通りかかった事務員の長谷川がそう言ってくれたので、下駄箱前の低い階段に座って、数分の時間を一緒に過ごすことにした。
 みのるは、この事務員が嫌いではなかったが、特別話すこともなく、ただただ校庭の植え込みを見ているだけだ。話しかけてくるから、口だけは笑って見せたが、頬より上は無表情だった。
 教室に入ると、友達の悟と浩一郎がやってきて、他愛もない会話を始める。何日も休んでいたことなどお構いなしだ。久しぶりだなとか、どうしていたんだなんていう言葉から会話には入らなかった。
 友達だからだろうか、優しさからなのだろうか、それともただ気を使っていないだけなのだろうか。どうしてか分からないが、彼らの接し方のお陰で、途中からの出席でも違和感なく教室になじむことが出来た。
 「昨日のゴーダマン見たか?すごかったな、敵はしょぼかったけど。
  新しい武器が出てきただろ?早く玩具にならないかな」
 「うん、今日は遊べるの?悟君家で、ゴーダマンのゲームで遊ぼうよ」
 「わりぃは、今日は塾に行かなきゃいけないんだ、今度また遊ぼうぜ」
 浩一郎も塾の日であった。去年まではみのるも塾に行っていたが、気が付いた時には行かなくなっていた。気が付いたのすら、何カ月も過ぎてからだ。
 紙の教科書を使って行う勉強ではなく、デスクトップパソコンで学ぶ教室だった。みのるがその教室を選んだのは、パソコンを使うのが格好良かったからだが、白地に黒文字の味気ない感じが好きになれなかった。
 今風のタブレットのような工夫のある教材ではなく、昔ながらのパソコンソフトのような冷たい感じが、塾から足を遠のかせたのだ。
 登校した日と、2人の塾が休みの日とが重なれば、大抵は悟の家でTVゲームをして遊んでいたが、今日のような日は、学校から近い公園にいつも行っていた。
 この公園は、2階建ての木造住宅街に四方を囲まれた、学校の校庭の半分程度の大きさがある。遊具は、コンクリート製の横長の滑り台が1つあるだけで、90年代以前の校庭の様に、地面は踏み固めた土だった。 
 昔は、放課後になると、所狭しと子供達が走り回っていた公園であったが、児童減少の影響で、今は10人程度の子供が遊んでいるだけだ。
 家に帰ってもやることのないみのるは、一学年下の男子と2人で、いつも鬼ごっこをして遊んでいた。
 楽しくはあった。だが、心の底から楽しいというのとは、だいぶ違う。退屈を潰すだけの習慣のようなもので、とりあえず行っているような日課だ。ただ、退屈を忘れさせてくれるから、楽しいと錯覚しているだけ。
 夕方6時になって、町に音楽が鳴り響くと、近所の家庭からチラホラとお母さんがやってきて、子供達を家に連れて帰る。遂に一緒に遊んでいた友達とも別れたみのるは、最後の子供が、母親に手を引かれて公園を後にするまで、座ってみていた。
 本来なら、少し寂しげな雰囲気に浸るはずだろうが、みのるは特別寂しさを感じなかった。ただ、胸の中心が少し握られている様ではあった。

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