Perfume

緒方宗谷

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絶望の果て

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 玄関扉の内側は血の海だった。生温かさが空気を伝わり、上へと上がってきて、頬を撫でる。
 細い管を通って水が注ぎ出る音がする。股の部分が血とは違う色に染まっていく。全身の筋肉が弛緩した事により、膀胱に溜まっていた尿がすべて漏れ出たのだ。解放の記憶は、悍ましい温もりと匂いにまみれていた。
 何もかも与えられる前から失っていた自分にとって、最後に残された物を自ら放棄した。
 ただの万能包丁とはいえ、人の体を切りつけるのは容易だ。最初の一撃はあまり深く刺さらず、致命傷を負わせることは出来なかったが、もみ合う内に抵抗の痕を掌に刻み付けた。その痛みから解放されるべく逃げまどう男の背中を追いかけまわす。
 「悪かった!謝る!今までの事は全部謝るから、許してくれ!悪気は無かったんだ!!
  お前だって、悪い気はしてなかったんだろ?へへっ、だから今までずっと・・・」
 甲高い奇声が耳を劈き、16cmの刃が脇腹をかすめる。
 この1年、耐えに耐えてきた。ようやく、ようやく解放されると思った矢先、今の絶望がこの先も続くのだという現実を叩きつけられた。
 電気をつけても薄暗い家だった。物理的にというわけではない。濁った空気が充満していて、常に日陰の部屋の様にジメッとしていた。
 この男のせいで、どれだけ長い間苦しめられ続けてきたことだろう。思い詰めた精神は、ダムが決壊するかのように崩壊して、殺意の赴くままに突き動かされていた。
 「俺は、お前の事を愛しているのさ、だからなんだよ、分かってくれるだろう?」
 分からないわよと叫んだはずだが、実際どのような奇声が発せられたのだろう。男の声も歪み、低くなってエコーがかかったように聞こえる。
 「助けてくれー!!」
 説得を続けながら後退りする男は、急に走り出した。ドンドンと外から玄関を叩く音は、これ以上ないくらいに大きくなっていた。ドアの前に同じフロアの住人が集まっていることが伺える。しかし、まさか室内で殺人が行われようとしているとは微塵も思わない。
 全身に細かい切り傷を負って、指の何本かは骨が見えている。右の人差し指は、運悪く刃が間接に当って軟骨を切断し、皮1枚でぶら下がっていた。そのせいで、上手く鍵を開ける事が出来ない。
 「いてぇ!!助けて!!あがぁ!!」
 悲壮に歪んだ目は、どのような表情を見ていたのだろうか。ワナワナと震えながら、もはや抵抗することも出来ずに、何度も何度も刺され続けた。
 男は、人間がこの様な凶悪な獣の様な表情をできるのかと戦慄を覚えていた。もはや人間の形相は無い。音すら発せる事が出来ない声が、息が途切れるまで続く。肉塊と化した男の断末魔は、空気の漏れるようなかすれる音を、みんなの耳に残してこと切れた。
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