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感情の記憶
しおりを挟むドッドッドッドドンドッド♪ 重低音のリズムに乗せて、体操をするインストラクターの映像がテレビから流れている。お昼のワイドショーの1コーナーだ。見ている入所者はいなかったが、一番離れた席に座る安村さんがリズムカルに両肩を上げ下げしていた。もともと体を動かしたり歌を歌ったりするのが好きだったらしいから、楽しいのだろう。
5月下旬。ほんわかして、お昼寝したくなりそうな暖かさだ。一時期は、おう吐と下痢で大騒ぎだった施設内も平穏を取り戻し、平常の業務に戻っている。
5階見守りに配置された佳代は、暇を持て余していた。いつも5階にいる高齢者の内、1人が娘宅で外泊、2人が定期健診で病院に行っていて、2人が自室で歯の治療とマッサージを受けている。口腔ケアも終わってしまって、2時のレクリエーションまでやることがない。
(雄太君か、可愛い子だったな)
先週の金曜日、3回目のコンパも1次会で抜けた佳代は、前回と同じく小柳に駅まで送ってもらった。
「すいません、また送ってもらっちゃって」
小柳は島村と盛り上がっていたし、まだ時間も早かったから、2次会に参加したかったのではないか、と佳代は思い、少し申し訳なく感じていた。
「良いんですよ、僕も早く帰らないといけないし」
他愛もない会話が少し続いた後、思い出したように佳代が介護の話題を切り出す。いつもテレビから流れるテンポの良い音楽に合わせて、肩で踊る安村さんを真似て佳代も踊り出した。お婆ちゃんの可愛さを表現し、その時の楽しさを伝えようとする。
初めてあった頃と比べて弱っていく様を見るのはつらいけれど、時折見せる老いる前の姿を彷彿とさせる言動が、とても愛らしいこと。同時に、腰が痛いと嘆くように言うのが、聞いていてつらいことをのんびりと話した。
安村さん以外にも一部の入所者は、早く死にたいとか、どうしてこんなことになったのか、何かの罰なのか、と嘆く人がいる。そう聞くたびに、佳代は頑張ってください、長生きしてください、と声をかける。
話しをすると少し気がまぎれるのか、ありがとう、とお礼を言ってくれる。根本原因は解決していないし、佳代には解決出来はしないのだが、また何かあったら言ってくださいね、と伝える。
安村さん以上に生きることを嘆く方の多くは、体は動かないのに頭がはっきりしていた。だから、何もできなくて精神的につらいのかもしれない。
佳代の話に、小柳が微笑みで答える。
「身の回りの世話だけでなく、傾聴してあげることも重要なのだということですね」
ふんわりと佳代が思っていたことを、小柳は短い言葉で言い表してくれた。こういう話を千里以外にすることがなかった。彼女の場合、それで良いんじゃないとか、えらいとか、結構社交辞令的な返事が多いから、こんな風に言ってくれことに、もっと話したいという気持ちがムズムズと湧いてきた。
(あ・・・、私この人のこと好きになれるのかも)
感情の些細な変化に気付くことは稀で、本人も意外に感じていたが、ほんわかして暖かく、心に緊張を伴うような動揺はない。
年上と付き合うとこういう感じなのだろうか、安心できるというか、安らぎを覚えるというか、前の彼氏とはずいぶんと感じが違う。
「早坂さんのそういうところ、学ばないといけませんね。
うちの子に対して、僕はどれだけ話を聞いてあげられているか」
家庭の事情をぽつりぽつりと話し始める。
「そう・・・、ん?・・・・・、そうなんですか?」
子供がいるなんて初耳だ。
「最初の時、自己紹介で言いましたよ」
びっくりする佳代の反応に、小柳はきょとんとした表情で答える。一瞬言葉を失う佳代を見て、少し距離を置いたような口調で話を続けた。
「息子と2人暮らしなので、僕が帰るまで、近くに住む母に預かってもらっているんです」
「へぇ」
自分に少し好意を持ってくれているように思った小柳は、抑えきれずに頬を綻ばしたが、子持ちである自分にとっては、大それた感情を抱いたように思えた。
恵子と別れて3年が経つ。息子の雄太は当時5歳だったから、離婚前の記憶も残っている。子供の気持ちとしては、親が他の異性と特別仲が良くなることを嫌がるはずだ。
毎月恵子と雄太は合っているし、雄太が家で恵子のことを話すときは、お母さん、と呼んでいる。親の我々と違って血の繋がりのある雄太にとって、別れても母親であることに変わりはない。
ほんの僅かとはいえ、佳代に好意を持ってしまった自分に、小柳は少し嫌悪を感じた。雄太に後ろめたさを感じたのだ。
別れた理由は性格の不一致であるが、特別仲が悪くなって別れたわけではない。家事や教育を顧みない傾向があり、平日は残業ばかりで、休日は家事もせずにゴロゴロしていた。義父の話では、休みの日に自分を放っておいて、いつも趣味のサッカーのDVDを見ていることが大きなストレスだったらしい。
思い返せば、育休を取っても育児を手伝うわけでもなかったし、育児をする妻のために家事を引き受けるわけでもない。雄太が活発に動き回る齢になってからは、家事をする恵子そっちのけで、1人で遊んでばかりだった。知育ゲームとかならともかく、小柳のゲームアプリを見せて、小柳自身が遊んでいただけだ。だから小柳は、全面的に自分に非があると考えていた。今も恵子のことを思うと、申し訳ない気持ちになる。
高齢者に接する佳代の姿勢を聞いていると、とても耳が痛かったが、雄太のためにも学ばなければならない重要なことだと悟っていた。
そのような事情を知る由もない佳代は、自分との距離を保とうとする小柳に好感を持っていた。子供が、家と小柳を繋ぐ鎹になっているのは気づいたが、それでも自分に対するその態度は紳士的に思える。鈴木のように、自分の気を引こうと口を合わせているようには見えなかった。
佳代は1つの経験を話すことにした。女性スタッフと2人で、寝たきりでほとんど喋ることもできない渡辺さんというおじいちゃんをベッド移乗させた時の話だ。
佳代が雇われた時は、まだ頭もはっきりしていて、話しかければ短い返事を介してくれる人だった。しかし、1人で喋っていることも多く、日に日に痴ほう症が進んでいくようにも思えた。それでも食事介助の時、料理をすくったスプーンを唇に当てると、口を開けて食べてくれていた。
佳代が施設で最初に持った目標は、渡辺さんに食事を完食してもらうことだったし、大好きなおじいちゃんの1人だった。それなのに、努力むなしく食事量は段々と減っていき、今では栄養のあるジュースや点滴になってしまっている。
更に、1人で喋っていることも少なくなってしまった。だがしかし、1つだけ目を見張る反応をすることがあった。
自分が渡辺さんを担当すると、まず朝食時間のジュースの後の口腔ケアを行い、もう1人の担当と2人で部屋へ連れて行って、排せつ介助を行う。オムツを換えたら5階に戻って、お昼に看護師が点滴をする。基本的に食事と歯磨きとオムツ確認の繰り返しだ。
その中で、渡辺さんの命を強く感じることが一瞬だけある。車イスからベッドへ移乗しようとすると、上半身を支える佳代の腕を握りしめ、怖いよぅ、怖いよぅ、と怯えるのだ。その手の力は、いつもの渡辺さんからは全く想像もつかない。普段閉じたままの目を見開き、ガタガタ震えている。
移乗の際に痛い思いをしたことがあるのか、入所以前に高いところから落ちて痛い思いをしたことがあるのかは分からないが、自分のことさえ分からなくなっているかもしれない今でさえも、痛いとか怖いという感情は覚えている。どんなにボケてしまっていても、本能は健在なのだ。
小柳が口を開く。
「本能に触れるような体験は、どんな状態になっても忘れないんですね」
怖いと怯えながらお母さんと何度も叫ぶ渡辺さんを見て、幼いころの体験が甦っているのではないかと語る佳代に対して、少し考えてから小柳は答えた。
後日、リズムに合わせて安村さんと肩を上下に動かしながら、その時小柳が浮かべた笑顔を思い浮かべる。佳代は、小柳と雄太との関係に少し関われたのだろうか。渋谷駅に着くころに見せてくれたスマホの写真には、仲睦まじい笑顔の夫婦の間で、大きく口を開けて笑う雄太が写っていた。
その写真を通して、佳代の気持ちは小柳に伝わっていた。喜怒哀楽を通して、本能に触れるような経験を雄太に与えてあげたい。佳代の話を聞いて、無性にそう思えてならない小柳は、駅のホームでそれを悟らせてくれた佳代を笑顔で見送った。
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