生んでくれてありがとう

緒方宗谷

文字の大きさ
上 下
10 / 33

東日本大震災

しおりを挟む
 安村さんも渡辺さんも、あまり食事をとってくれなくなっていた。2人とも、食事は完全な粥状のものに変更となっていて、嚙む力や飲み込む力が急速に衰えたことが見て取れる。
 毎日1/4くらいしか食べていないのに、健康寿命は維持できるのだろうか。栄養の詰まったジュースを飲んでいるし、みるみる痩せていくわけでも顔色が悪くなっていくわけでもなかったが、佳代にとっては、モヤモヤとした不安が暗い影となって心を覆い始めていた。
 食事中、よく佳代とおしゃべりをして笑っていた安村さんは、あまりしゃべらなくなっていて、度々ため息をついては、「疲れた疲れた」、と繰り返している。
 他の入所者の話では、昔はお茶目で面白い話をするムードメーカー的存在だったらしい。佳代が雇用された当初はその面影があり、よく佳代を笑わせていた。
 「あなた、いい人ね、旦那さんはいるの?」
 「残念ながら、いないんですよ」
 「いないの!?じゃあ、私と結婚しましょう・・・て、私、女だから結婚できないか」
 軽い一人ボケ突っ込みを繰り返す人だった。そばにスタッフがいると、すぐに話しかけてくれる気さくさと話の面白さから、スタッフにも人気のあるお婆ちゃんだったのに、今ではずっと居眠りしてばかりだ。
 安村さんは福島の出身で、先の大震災までは宮城県の歌津に住んでいたとよく言っていたが、実際は東京出身で歌津にも住んでいたことはない。そうご家族の方が言っていた、とスタッフから聞いたことがある。
 ただ、歌津に関する話は細かく、聞いているだけで情景が思い浮かぶようだ。
 佳代自身は、大学時代に有志10数名と歌津にボランティアに行ったことがあったから、歌津駅が小高い場所にあることや歌ちゃん橋のこと、近くに公民館みたいな建物があることくらいは知っていた。
 歌津駅の傍に住んでいたと言うので、駅の上の住宅に住んでいたのか、駅の眼下に広がる町に住んでいたのか、訊ねてみたことが何度かあるが、明確な答えがあったことはない。それでも、どこそこのお店に行ったとか、どこそこでお母さんと食事をしたとか、色々な思い出話をしてくれた。
 震災直後で更地となった歌津しか知らない佳代には、安村さんの話が本当かどうか分からない。もしかしたら、歌津旅行の思い出なのか、別の場所を歌津と勘違いしているのかも知れない。
 安村さんが言った。
 「歌津はお魚がおいしいのよ、海が近いから」 
 「本当にそうですね。歌津で食べたものは、何でもすごくおいしかったですよ」
 2012年の春の初め、現地に拠点を持つボランティア団体とコンタクトを取り、有志の運転するワゴンに、ペットボトルの水と缶詰やお米など保存できる食料を大量に積んで現地入りした佳代は、ヘドロかきをする男性ボランティアの横で、災害ごみの分別をしていた。
 震災からまだ1年と経っていなかったが、自衛隊や消防の方々が必死に道を作り、工事現場にあるような金属とコンクリートでできた橋を架けた。多くのボランティアと地元の方の努力で、視界に入る限りは、既に更地に近い状態だ。
 大型スーパーやマンションなど、大破した鉄骨造のビルが点在していたが、民家や鉄筋コンクリート製の建物は軒並み流され、土台しか残っていない。
 震災後の早い段階からボランティアに来ていた人の話によると、発災直後、この辺りはヘドロにまみれた瓦礫に覆われ、砂煙が充満していたという。そんな中、自衛隊員や消防隊員が使う重機の甲高い金属音や、打撃音といった轟音が響いていたらしい。
 瓦礫の下には被災者がいるかもしない。そのため、作業は遅々として進まなかった。
 いないことを確認しながらの作業であったから、重機を入れる前に誰もいないことを手作業で確認していたのだ。
 ただ、真っ先に整備された1本の道が、一筋の希望の光の様であった。
 神戸と書かれたゼッケンをつけていた青年に対して、「遠くからきて大変ですね」、とねぎらいの言葉をかけた佳代に、青年は、自分が小さいころに、宮城から大勢のボランティアが来て、避難所で炊き出しをしてくれたり、遊んでくれたりしたから、その恩返しに来た、と話してくれた。
 初めてボランティアに来たのはゴールデンウィークだと言うから、発災から2カ月程度しか経っていなかった。
 その時点で、東京の会社経営者がボランティア拠点を設置して、炊き出しを行っていたという話だけでも驚きだが、その関係者とコンタクトを取って、個人で協力しに駆けつけたという話にも驚いた。
 5月時点で、東京から仙台まで新幹線で行けたものの、仙台から歌津までの路線は途中で途切れていた。青年は電車を乗り継ぎ行けるところまで行って、そこからタクシーを呼んで歌津まで行ったらしいのだ。佳代には考えられないことである。 
 前もって電車が通っている駅を調べ、その附近のタクシー会社に電話して、何月何日に行くことを伝えた。交通を確保すると同時に、駅からボランティア拠点の間にある食料品店と連絡を取ってもらって、5万円分の野菜を準備してもらうという協力も取り付けていた。
 当日は登山用の大きなリュックにペットボトルの水を詰めて現地入りし、一日中炊き出しのための調理と、洗い物用の水をタンクから運ぶという作業に終始していた。
 青年は、佳代に細かい経緯は話さなかったが、ボランティア活動中の環境と、現地で聞いたりテレビで見た食中毒やインフルエンザのニュースを重ね合わせて、衛生面の重大さが良く理解できた、と言っていた。
 当時聞き流していた佳代が、今はその記憶に真剣に耳を傾けている。
 平和な東京とはいえ、高齢者が集まって生活をしている施設では、いつこのような事態が発生するとも限らない。
 実際、佳代が参加したボランティアの最中、トイレは簡易に設置されたものしかなかった。それも、工事現場にあるようなプラスチックの箱型のものではない。アルミ製の骨組みを組んで、布を張り巡らせたテントのようなものだ。
 お世辞にもきれいに保たれているとは言い難い。便座や仕切りの布は泥で汚れていて、便器の下に設置されているタンクの中にはウジも沸いていたし、親指の爪ほどもあるハエがトイレ内を飛びまわっていた。
 骨組みと布の間には1㎝程度の隙間があって、簡単に覗けてしまう。
 千葉でも東京でも何不自由なく生活していた佳代にとって、初めて見る簡易トイレに閉口するしかなかった。
 とても若い女性が使用できるものではなかったし、男性でも使用を躊躇する人がいたほどだ佳代は全く使用する決心がつかず、1日目は我慢し通した。
 幸い、復興商店街内に設置されていたボランティア向けの宿泊施設にはトイレが設置されていたのでなんとかなった。翌日以降、ボランティアバスで来た方々にお願いして、作業中はバス内のトイレを使用させてもらえた。
 神戸以外にも、各都市名が書かれた色とりどりのゼッケンをつけたボランティアが、バスで駆けつけてきている。
 大型の観光バスで来ていたボランティアは、簡易に架けられた橋を渡ることができずに、遠くにバスを止めて作業に来ていた。神戸や新潟のように大震災に見舞われた地域は、その時の経験からか小型のバスで来ていたので、作業箇所までバスで来ることができた。
 小型とはいえ長距離を移動してくるわけだから、トイレがついているものも少なくなく、そのバス以外で来たボランティアの使用も受け入れきることができたのだ。
 大きい方以外は立ったまま用をたせる男性と異なり、どちらも座らなければならない女性にとって、不衛生な簡易トイレは死活問題であったが、役所の方やボランティアバスの責任者の協力の下、何とか必要最低限の環境を整えることができていた。
 逆に男性の方が大変で、トイレに関して女性のように配慮してもらう機会が無く、テントの簡易トイレを使用していた。そのため不衛生なトイレ環境から精神的影響を受け、便秘になってしまう人がいたほどだった。
 自分の経験と、周囲の男性の様子に加え、近くの避難所で食中毒が発生したとのニュースを見ていた佳代は、今、介護施設に勤務するようになってから、青年の話す衛生面の重大さについて思い出すようになり、それと向き合い、排せつ介助にもせいが出るように、徐々にではあったが変化していった。
しおりを挟む

処理中です...