生んでくれてありがとう

緒方宗谷

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成長

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 年が明けた頃、毛糸の帽子をかぶり、帽子とおそろいの大きなマフラーで顔を覆った佳代は、北池袋駅の遮断機を渡り施設へと向かっていた。ふわふわの毛皮風の白いブルゾンに、くるぶしくらいまである長い厚手のスカート、スウェードのブーツ、お世辞にも綺麗とか可愛いとか言えないいでたちだ。
 9月に入社したから、足掛け5か月目に入っていて、大分仕事にも慣れてきていた。入所者の食べてくれる量が増えたり、口腔ケアにかかる時間が短くなったりと、ちょうど成果を感じることができるようになってきた。
 働き始めた当初はスーツ姿で通っていたが、勤務中は白いポロシャツとズボンからなるユニホームを着なければならない。通勤が徒歩圏ということもあり、3カ月が経つころから随分とラフな格好で通うようになった。
 地元の千葉にいた時から気づいていたことだが、人と比べて佳代は極端な寒がりだ。どんなに寒くても、自分ほど厚着の女性を見たことがない。
 千里と食事に出かけるときは、それなりの服装を心掛けていたが、もともとそんなにおしゃれでもない佳代にとって、多少ずんぐりむっくりになっても、雪の残る真冬の空気にさらされるより、この格好の方がはるかに心地よかった。
 身長は165㎝位と高すぎず低すぎず、真っ白というわけではないものの、薄いベージュ色の肌に曇りはない。小さいころから細身で足が長く、中学高校のころは周りの女子からスタイルが良いと羨ましがられていた。
 二重で大きな瞳は、少しうるんだように見えるほどしっとりとしていて、千葉時代は笑顔を作って見つめれば、大抵の男子は動揺するくらいの可愛さはある、と本人も分かっていたふしがある。
 今は肩くらいにまで髪を切ったが、大学時代までは長い黒髪で、ちょっとしたアイドルのようであった。
 今も昔もおめかしはしないものの、基礎化粧水やシャンプー、コンディショナーには結構な予算を割いていて、20代前半の女性に対抗できる下地があると、自信を持っている。
 にもかかわらず、前職時代は仕事が忙しく、彼氏とは少し疎遠気味だったし、介護に転職してからは、完全に色恋沙汰から遠のいてしまった。
 小学生のころは、30歳くらいには結婚しているのだろうと思っていたはずだが、今となっては彼氏を作ろうとすら思わない。たった5ヶ月の間に、随分と色気がなくなってしまったものだ、と笑いながら施設の従業員通路を通って、更衣室へ入っていった。
 昔々の話なら、炊飯するだけでも薪から火をおこし、洗濯するのも板の上でゴシゴシゴシ、冷蔵庫もないし、何をしようにも一日がかりだ。
 それに対して、今はボタン一つで何でもできる。お米もとがなくて良いし、洗濯も全自動で乾燥までしてくれる。掃除にしても、ロボットが簡単に床をきれいにしてくれる。
 コンビニはいたるところにある。レンジでチンするだけで、とてもおいしい料理をすぐに食べることができるのだから、冷蔵庫だってなくてもいい。昔は三種の神器と呼ばれたらしいが、他の2つが何だったか知らないほど、何もかもが普及している。普及しすぎて、所有していなくても街中で自由に使えるほどだ。
 運転免許がなくても公共交通機関を利用すればよいし、我が家が狭くても、たくさんあるレストランに行けば、優雅なダイニングとなる。書斎は無くても、図書館には大量の資料とパソコンまである。
 昔の大金持ちが沢山の人を雇って享受してきた生活を、平凡な中の下の経済力しかない佳代が簡単に享受できているのだから、今更他人同士が一緒に暮らして家事と仕事を分業しなくても、平和に楽しく暮らしていけるのだ。
 幼いころ、おばあちゃんが言っていた言葉をよく思い出す。
 ”今の人は幸せだよ、昔は何にもなかったんだから。
  今持っているものだけで、十分幸せに思わなきゃ”
 足るを知るという言葉を知ったのは、それからずいぶんと後になってからだ。おばあちゃんの言葉があったからこそ、佳代は常に幸せに感じることができていた。
 松本さんの言動には、いまだに慣れることができず、ストレスに感じることも多いが、食事をとらなくともジュース類で栄養は賄えているし、お腹がすけばちゃんと完食してくれるのも分かっている。だから自分のせいで弱ってしまうかもといったような、過度の心配をしなくなった。
 支離滅裂な松本さんの話は、他のことを考えることによって流すことにした。時には他のスタッフとアイコンタクトを取って、大変なんですよ、とアピールして笑に変えて自分を慰める術も覚えた。
 今は、仕事をしているのが一番楽しく、デートしたいとかそういうのは思いもよらない。
 ユニホームに着替えて5階に上がってタイムテーブルを見ると、心なしかいつもよりもスタッフ数が少ないように思える。
 「昨日入ったばかりの人が来ないらしいわ」
 「そうなんですか?私、1度もあっていませんよ」
 よくあることだか、また無断退職だ。今回は1日で辞めてしまった。
 昨日やめた新人と対面したスタッフの話によると、派遣で入ってきた人だったらしい。自らの意思で来たというより、派遣元の関係で来たようだ。派遣会社に問題があるわけではないし、介護施設の仕事の大変さは思いもよらなかっただろうから、派遣スタッフが耐えられなかったのも無理はない。
 しいて言えば2週間は我慢するべきであるが、ついこの間まで松本さんで苦労していた佳代や他のスタッフのみならず、施設の経営側の人たちも、しょうがないと思っていた。
 普段は事務を行っているスタッフが数人5階にやってきて、朝食後の口腔ケアや掃除をしている。
 14時になると、体操などのレクリエーションの時間となる。12時半ごろから口腔ケアが始まり、数人が排泄のために居室に戻り始めると、それを見計らって、見守り担当のスタッフが空いた食事用のテーブルを壁際に寄せ始める。
 あまりレクリエーションの担当になることがない佳代は、久しぶりにこれに配置されたのでウキウキしていた。
 体操のお兄さんみたいな方が来てくれることもあるが、大抵はみんなの前に立って体を動かすことに抵抗のないスタッフが行っている。何かあった時に備えて、5階に看護師も待機している。
 今日は自分がトレーナーとなって体操すると思うと、少し緊張しているようなムズかゆい感じだ。
 いつも5階にいる入所者に加え、普段は自室にいる方も集まってくる。ほとんどの方は興味がないようで、全体の1/3程度しか参加しない。
 「はーい、みなさん、準備はいいですかぁ?」
 「はーい」
 頭のはっきりしている方は元気よく返事をしてくれるし、痴ほう症の方も興味津々で佳代を見てくれている。中には何もわからなくて、ぼそぼそと着ている服をいじっているおじいちゃんもいるが、大抵はみんな楽しんでくれているようだ。
 軽く自己紹介をした後、CDプレーヤーのスイッチを入れ、子供向けのリズムの良い音楽を流す。
 「まずは、手のひらの体操から始めましょう」
 佳代は、みんなにも自分と同じように両手を前に突き出してもらい、人差し指から小指にかけて1本1本立てていき、最後に親指を立ててパーにする。今度は人差し指から閉じていって、ぐーにする動作をリズムカルに数回繰り返した。
 1回1回の動作ごとに大きな声を出してみんなを誘導し、次にグーチョキパーを繰り返し行ってもらう。右と左で違う形を作ることで脳を刺激して、ボケの進行を遅らせたり、退屈な同じ日常の繰り返しになりがちな施設での生活に、メリハリをつけて楽しんでもらうことが目的だ。
 左右の腕を別々の方向に回したり、前に突き出したり横に突き出したりする。それほど難しいことはしないのだが、おじいちゃんおばあちゃんには結構難しいらしく、すぐにあきらめてしまう方もいる。
 そういう時は、参加者を見守りながら一緒に運動している別のスタッフが寄り添い、優しく指導しながら体操に復帰してもらう。佳代も励ましながら、ゆっくりと進行していく。
 首ふり体操をしてから腿上げ体操に入ると、普段車イスの方が音を上げ始めるのだが、それでもみんな頑張って運動してくれる。
 普段自分で歩ける方は立ち上がり、つま先上げとかかと上げ体操をする。車イスの方は、座ったままでできる範囲のことを楽しんで行ってくれている。時折、出来た出来ないと笑い声が聞こえてくる。
 あまり沢山行うと筋肉や骨に負荷がかかってしまうので、1時間くらいかけてゆっくりゆっくりと進めていく。
 「本日も参加してくれてありがとうございました。
  今度は金曜日ですので、次回もぜひ参加してください」
 後に深呼吸をしてしめる。その時に拍手をしてくれたり、楽しかったとみんなが言ってくれることが多く、ちょっとしたタレント気分が味わえる。ただ、終わった後は結構すんなりとしていて、入所者はすぐに自室へ戻っていく。スタッフはテーブルを元に戻して、各席に見守り対象者を配置していく。
 中年の女性スタッフたちが言った。
 「いやぁ、いいボケ防止になるわ、私の」
 「そうよね、私たち次の入所者みたいなものだから」
 50代のスタッフが、冗談交じりにケラケラと笑っている。周りを見ていると、確かにそういう要素もあるようだ。
 実年齢を聞くと、佳代が思っていたより5歳や10歳位若く、何か秘訣があるのではないかと考えてしまう。しかし、肌質やしわが出やすい目じりやほほを見ると、それほど美容に手をかけてきた方とは思えない、普通の中年なのだ。
 中には50歳なのに30代後半に見えるスタッフもいた。女性がふつう行う程度のお手入れしか行っていないのであれば、介護に何か特別な力があるのではないかとも思える。
 若しくは、守るべき家族がいると、特別な力を得られるのかもしれない。確かに、子供を産んだ女性や養う家族がいる男性は、いない人たちより仕事も家事もバリバリしている印象がある。
 佳代の友達の中には、すでに結婚もして子供がいる人もいるし、離婚してシングルマザーになった人もいる。
 地元に戻った時にそういう友達に会うと、昔の印象ではありえないほどの仕事をこなしていたりするのには、正直驚くしかなかった。
 確かに見た目は疲れている様子の時もあるが、家事に育児に懸命になっているときは、何かこみあげてくるパワーがあるのか、全く疲れた様子を感じさせない。すごい勢いで次々に作業をこなしていく。
 OL経験がある佳代から見れば、大分非効率な手順を踏んでいるようにも見えるが、お母さんパワーには恐れ入る。中高とバスケ部だった自分が、文化部の友達に圧倒されていることにも驚くしかなかった。
 地元を出てから結構な月日が経っているだけあり、場所によっては町並みが微妙に変わってきている。さすがに、東京のように5年くらい行かなかっただけで、別の町になってしまったなんてことはない。それでも、別人のように成長した友達を見ると、自分はあまり変わっていないのだなと思う。
 佳代にとっては、変わらない自分がほほえましく思える。介護施設で勤務し始めて、特にそのように思い始めた。
 よく、現代は時間の流れが速いとか、常に成長しなければならないというけれど、この施設内にはそのような外界の喧騒さはない。本当にゆっくりと流れる外国の川のように、時間が流れていく。
 昔の日本では、縁側なるところでおばあちゃんが日向ぼっこをしながらお茶を飲んでいたらしいが、まさにそのような雰囲気が、ここにはある。
 5階の窓から外をのぞくと、庭に出て絵を描いているおじいさんがいる。庭の半分は日陰なので、だいぶ雪が残っているが、まだ蕾も付いていない枯れた木を絵に描いている。
 土屋さんというこの男性は、度々、庭や屋上に出ては、大きなスケッチブックに水彩画を描いていた。植物の絵が多く、物や人物を描くことはほとんどない。昔の日本画のように、あまり背景を書かない。
 以前土屋さんが佳代に言った。
 「世の中は常に移り変わっていて、今この瞬間瞬間も、同じように見える景色であっても、同じではないんですよ。
  私は、心で見たものの声に色を付けているんですよ。
  私もこの絵も永遠ではないが、この瞬間に私がいたという証なんですよ」
 心穏やかな優しいおじいさんだ。お部屋にお食事を持って行ったときにいつも少し話す佳代は、こんなおじいさんの傍にずっといたいと毎回のように思っていた。
 (私は、こういう人が好きなのか)
 今までの彼氏や男友達から受けた印象とはだいぶ違う。まだ頭がはっきりしているということもあるが、弱音や後悔といったことは全く聞かない。自分たちが行った些細な仕事に対しても、いつも笑顔で感謝をしてくれる。
 確か75歳の老紳士は、小さな姿となって佳代の心に住んでいた。子供の笑顔や、道端に咲いた花、ちょっと楽しそうな高齢の夫婦を見かけると、いつも佳代は土屋さんのことを思い出して、一緒にいるかのように微笑むことができた。
 部屋には、自身で描いた水彩画が沢山飾ってあって、これはいついつ描いたもの、これはこれこれこういう木だと教えてくれる。とても記憶力が良いと、いつも感心させられる。
 部屋に飾られている女性の写真を見て、奥様には先立たれてしまっている、と気づいていた佳代は、家族のことについては何も言わなかった。写真から、孫がいることは見て取れたが、佳代が入社してから半年の間で、家族が面会に来たという話は聞かない。
 佳代の横顔を土屋さんが見つめて微笑んだ。
 「皆さんが家族のように一緒にいてくれるので、私は満足です」
 心の微かな動揺を感じたのか、写真を見ている佳代に土屋さんがそう言ったことがあった。やっぱり寂しさはあるのだろうと思った佳代は、「私も孫の1人ですよ」、と伝えた。土屋さんはにっこりと笑って、ありがとうと感謝を述べた。
 佳代は、土屋さんが食べ終えたお膳に、飲み終わったコップや土屋さん個人が用意した漬物の空のパックを乗せ、部屋を後にした。
 体操のおかげなのか、1人で洗面台に行って歯を磨けるようになったと、車イスのおじいさんが教えてくれた。頭がはっきりしていて、5階での見守り対象ではないこのおじいさんは、いつも仲の良い入所者とおしゃべりをしている。
 お膳を下げにいった時も友達と談笑していて、佳代に向かって笑顔でごちそうさまと言ってくれた。日当たりのよいこの方の部屋は、冬だというのに暖房をつけていなくても、程よく暖かい。5階の方なら少し寒いと言うだろうが、この方は薄いパジャマで過ごせていた。
 家庭料理というより定食風ではあるが、栄養バランスが良く味も良い施設の食事を完食し、大きな窓から差し込む心地よい日差しを浴びながら、友達と談笑するなんて、なんてすばらしい老後だろうか。
 年齢的に、戦争も経験しただろう。復興期のがむしゃらな時代も経験しただろう。戦後ではないと言われる時代になりつつあった世の中も、今とは比べようもない不便さがあっただろう。
 部屋には家族の写真も飾られていない。殺風景な様子だ。ずっと一人だったのか、若いころに別れてしまったのか、死別したのかはわからない。
 もしかしたら、30歳の佳代には想像もできない辛い人生があったのかもしれないが、スタッフへの礼節ある態度と自由な時間の過ごし方から、今この余生の瞬間瞬間を穏やかに過ごしているように思える。
 松本さんにしても奥さんがいて、年に1回は面会に来ているらしい。痴ほう症になる前に好きだったなら漬けや芋羊羹を送ってくる。
 今でこそ、自分のことも分からず、周りに理解してもらえず、スタッフには完全に嫌われてしまっているが、以前は、今とは全く違う人格者だったのかもしれない。少なくとも妻には見捨てられていないのだから。
 脳が壊れていく過程で、他より早く言語や理性をつかさどる部分がダメになったのだろう。もっと後になっての話だが、むき出しになった攻撃的な本能の部分が、言葉に乗って流れ出ているように、佳代は感じるようになった。それを脳内に閉じ込めておく門が壊れているなら、仕方がない。そう思えるようになってから、松本さんに対して、少し優しくなれると思えた。
 支離滅裂だとはいえ、1時間でも2時間でもしゃべり続けられるということは、ある意味、健常者と同じように思考がフル稼働している部分があるということだ、と思えるようになったし、自分はそんなにしゃべり続けられるほど思考することはできないと、負けを認めた部分ある。
 入所者の過去について聞く機会はあまりない佳代だったが、本人が不愉快に思わないように、長い時間をかけて慎重に知る必要があると感じていた。
 何も考えなければ、今佳代の目に映る入所者の姿そのものの人生を歩んできて、そのまま何事もなく施設に入所しているように思ってしまう。しかし、どんなに幸せそうな方でも、そうではない人生だったかもしれないし、逆に不幸そうな方でも、幸福な人生を送ってきたのかもしれない。
 少なくとも、体が動かなくなったり、痴ほう症になったりする以前は、今とは違う人生があったこと、楽しいことやつらいことを経験して、今ここにいることを想像できなければならないと思った。
 
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