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憧れの上司
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26歳の尚美は大学卒業と同時に今のお菓子会社に事務員として入社した。
元々お菓子が大好きだったことが功を奏しての入社で、事務の仕事もやりがいがあって楽しかった。
一番の魅力は会社全体で行っている3時のおやつの時間だった。
この時間になるとどこの部署でも関係なく、自社商品を一種類無料で食べることができる。
尚美はこの3時のおやつの時間が大好きで、いつも新商品を選んで食べていた。
『工場にいる人たちはこの時間だけじゃなくても味見で食べてるらしいよ』
同僚からそんな話を聞いたときには悔しくて本気で歯噛みしたくらい、お菓子が大好きだった。
会社には尚美みたいな人が多くいたためか、社員が使える事務やサウナが会社の近くにあった。
みんなそこで汗を流しておかしのカロリーをなかったことにしているのだ。
運動をしてでもお菓子を食べたい。
それは尚美もよく理解できる感情だった。
食べなきゃいいじゃん。
というのは論外だ。
頑張って仕事をして、そのご褒美に食べるおやつ。
休日、頑張って自分へ向けてちょっと高いおやつを買ってかえる。
それに日常的に食べるおやつもありだ。
健康に気を使うなら野菜がふんだんに使われているおやつだって発売されている。
とにかく、我慢することがなによりも体に悪いことだと尚美は考えていた。
『田崎さんのお弁当は毎日おいしそうですね』
ふと、そんなことを言われたことがあるのを思い出した。
会社では沢山の人が働いているけれど、その中でも尚美が一番尊敬している上司、関健一からの言葉だった。
健一は30歳という若さで役職についているエリート社員で、誰にでも優しくそして見た目がいいことで人気の上司だった。
尚美も1度、入社して半年の頃に書類で大きなミスをしてしまった。
怒られる覚悟で健一の報告すると、健一は難しそうな顔をしたあと『これは田崎さんのミスですが、誰でも起こしうるミスでもあります。
一緒に解決策を考えて行きましょう』そう言ったのだ。
ミスした尚美を一方的に怒るのではなく、ミスは誰でも起こすものだから、根本的なところを解決しようとする。
その姿勢にひかれた。
それ以来ミスをしても健一に報告することが怖くなくなった。
一緒に解決してくれるから仕事もどんどん向上していく。
仕事の手順を変えて、方法を変えて、職場そのものがアップデートさせるたびによくなっていく気がする。
そんな空気を作ってくれている健一に感謝しているし、男性としても惹かれて行った。
そんな健一がくれた『田崎さんのお弁当は毎日おいしそうですね』という言葉は尚美の胸に刺さった。
料理は昔から好きだったから毎日お弁当を作ることも苦ではなかった。
ときには前日の残り物も使っていたし、冷凍食品を使うこともある。
それでも健一は『毎日おいしそうですね』と言ってくれた。
この言葉の『毎日』という部分にグッときたのだ。
健一はよく自分のことを見てくれているのだ。
毎日頑張ってお弁当を作ってきていることを知ってくれていたんだ。
それと同じで、毎日仕事を頑張ってくれていることも見てくれている。
それが嬉しかった。
気がつけば尚美も他の女性社員たち同様に健一に惹かれるようになっていた。
健一は未婚で彼女もいないと知ったのは、それからすぐのことだった。
☆☆☆
ヒョイッと抱き上げられて目を覚ました尚美は体から元気がみなぎるのを感じて相手の顔を確認した。
今までは空腹と疲労で相手の顔をはっきりと認識することもできなかったのだけれど、今あら大丈夫そうだと思ったからだ。
しかし相手の顔を見た瞬間尚美は爪を立ててその手を引っ掻いて逃げ出していた。
「いてっ」
と顔をしかめて血が滲んできた手の甲を見つめているのは、紛れもなく健一だったのだ。
な、なんで関さんがここに!?
すぐざま低いテーブルの下に逃げ込んで警戒する。
心臓がバクバクと音を立てていて、今にも爆発してしまいそうだ。
「まだ人間のことが怖いのかな」
健一はティッシュで手の甲を拭きながらテーブルの下を覗き込んでくる。
尚美は咄嗟に身構えて体勢を低くした。
ここは関さんの家!?
そう言えば私、職場の近くで拾われたんだっけ。
自分を拾った人が憧れの上司だったとわかり、体温が急上昇していく。
今人間の姿だったなら、きっと耳まで真っ赤になっていたことだろう。
ってことは私、関さんにミルクを飲まされていたってこと!?
衝撃の事実を知り愕然とする。
健一に抱っこされてミルクを飲んでいる自分の姿が、人間バージョンで脳内再生される。
尚美は慌てて左右に首を振ってそのいやらしい妄想をかき消した。
わ、私は今猫なんだし!
しかも子猫だからなんの問題もないはずだ。
わかっているのに心臓はどんどん早くなっていく。
どうすればいいかわからなくてテーブルの下から出ていくこともできない。
「俺の名前は関健一です。よろしくね」
すると健一が手床に寝そべるようにして尚美へ話しかけてきたのだ。
人間が怖いのだと思いこんでいる健一は優しい笑顔を浮かべている。
手の甲を引っ掻いてしまったのに全然怒っている様子はない。
「君にも名前が必要だよね? なにがいいかなぁ?」
うーんと空中へ視線を投げて考え込むその姿は、いつも会社で見る顔と代わりなかった。
きっと健一には裏表がないんだろうと思わせる。
「君はミャアミャア鳴くから、ミーコってどうかな?」
思いついたようにこちらへ視線を向ける。
そんなにミャアミャア鳴いていただろうか。
でもまぁ、子猫につける名前としてはごくありふれていると思う。
尚美は「ミャア」と短く返事をした。
「よかった。気に入ってくれたんだね」
そんなことを言うから意思疎通できているのかと思ったが、健一の勝手な認識で返事をしただけみたいだ。
「さて、名前も決まったことだし、お菓子でも食べる?」
その言葉に自然と耳がピンッと立った。
お菓子という単語にはどうしても弱い。
尚美はそろそろとテーブルから出てくると健一を見上げて「ミャア」と鳴く。
今日のお菓子はなんだろう。
新作はチョコレート菓子だったはずだ。
定番のクッキー菓子にチョコレートチップを練り込んで、更に上からビターチョコをかけた商品。
すでに店頭にも並んでいて、CMも流れている。
尚美ももう3回は食べた。
あれ、おいしいんだよね!
お菓子に期待して待っていると健一が差し出して来たのはジャーキーだった。
ジャーキーか。
嫌いじゃないけれど、甘いものが良かったなぁ。
と、かじりついてみたけれどその味の薄さに思わず吐き出してしまった。
なにこれ!
「あれ、まだジャーキーは早かったのかな?」
思わず吐き出してしまったジャーキーを見て健一が眉にシワを寄せる。
その手に握りしめられているパッケージを見てみると、猫用のおやつと書かれている。
これ、猫用ジャーキーだったんだ。
ジャーキーといえば犬のようなイメージがあるけれど、猫用もあるみたいだ。
それにしても、動物用のおかしはこんな味なんだ……。
尚美は吐き出してしまったジャーキーの匂いをクンクンとかぐ。
最初は妙な味だと思って吐き出してしまったけれど、慣れてくると美味しそうな匂いに感じられてくる。
もしかして私がこの体に適応していっているのかな?
なんて思いながら、「もう一口食べてみる?」と、差し出されてそれを加える。
奥歯を使って噛みちぎり、今度は吐き出すことなく咀嚼する。
だんだんと美味しくなってきたかもしれない。
そう感じ始めると今度は止まらなくなってきてしまった。
次がほしくて健一の腕にすがりつく。
こんな姿本当は恥ずかしくて嫌なのに、なんだか本能に抗えない気分がする。
「はいはい、もう1本だけね」
健一がジャーキーを差し出すとそれを奪い取るようにして自分の元へ引き寄せ、地面に押さえつけて噛みちぎる。
あぁ、これじゃまるで野生児だ。
こんな姿を憧れの上司に見られているなんて恥ずかしくてたまらない。
だけどお菓子を止めることもできなくて、あっという間に食べ終わってしまった。
それでもまだなにか残っていないか鼻先でくんくん部屋の中の匂いをかぐ。
その姿を見て健一が「もうないよ」と笑った。
こんなにいやしい姿を見ても笑ってくれているなんて、なんて優しい人なんだろう。
自分が子猫になっていることをすっかり忘れて健一のことを惚れ直してしまう。
健一の大きな手で頭を撫でられたら本当に心地よくて、また眠ってしまいそうになる。
が、今度はしっかりと目をあけて健一の手の甲を確認した。
さっき自分が引っ掻いてしまった傷が残っている。
それほど深い傷じゃないけれど、ほっておくことはできない。
本当なら消毒しなきゃいけないけれど、今の尚美にはそれもできない……。
尚美は健一を見上げて「ミャア」と鳴いた。
ごめんなさい。
の意味を込めて。
するとやはり健一は言葉がわかるかのように「大丈夫だよ、痛くないから」と、答えてくれた。
やっぱり私の言葉がわかるんじゃないの!?
そう思って何度も「ミャアミャア」鳴いてみたけれど、後の言葉はなにも通じなかった。
少しガッカリするけれどそれでも優しい健一に拾われたことは不幸中の幸いだったに違いない。
「さぁ、今日はもう寝よう。明日は一緒に買い物へ行くよ」
そう言われて尚美は明日も休日であることを思い出した。
健一は今日休日出勤だったのだろう。
だから会社の近くにいたんだ。
「こっちにおいで」
リビングの電気を消した健一に手招きされて尚美はその後をついていく。
隣の部屋は寝室になっていて、大きなベッドが中央に置かれている。
さすがに広い……!
そう思っていると健一は枕元の電気だけをつけてすぐに布団の中に潜り込んでしまった。
猫である自分が一緒に眠るわけにもいかなくて、どこで寝ようかと室内を見回した。
大きなクッチョンがあるから、あの上で寝させてもらおう。
そう思って移動しかけたとき、大きな両手で抱き上げられて強制的にベッドの上に移動してきていた。
そのまま布団の中に引き込まれてしまう。
「今日は一緒に寝るんだよ」
健一の息がかかるくらいに密着して囁かれて尚美はまた暴れそうになる。
けれど健一が両手でギュッと抱きしめてくるので抵抗もできなくなってしまった。
こ、こんな状態で眠れるわけがない!
健一と同じ布団で眠るなんてこと想像の中でもしたことがない。
こんなの恥ずかしすぎる!
理性のある尚美はそう思うけれど、体は子猫のものだ。
今日はずっと空腹で歩きまわっていたから、いくら寝ても寝たりない状態にあるらしい。
健一に抱っこされ、暖かな布団にくるまれて再びまどろみはじめてしまった。
あぁ、ダメだってば私。
こんなところで寝ちゃ、みんなに誤解されちゃう……。
一瞬会社の健一ファンたちの顔が浮かんできたけれど、それもすぐに消えて今度こそ深井眠りについたのだった。
元々お菓子が大好きだったことが功を奏しての入社で、事務の仕事もやりがいがあって楽しかった。
一番の魅力は会社全体で行っている3時のおやつの時間だった。
この時間になるとどこの部署でも関係なく、自社商品を一種類無料で食べることができる。
尚美はこの3時のおやつの時間が大好きで、いつも新商品を選んで食べていた。
『工場にいる人たちはこの時間だけじゃなくても味見で食べてるらしいよ』
同僚からそんな話を聞いたときには悔しくて本気で歯噛みしたくらい、お菓子が大好きだった。
会社には尚美みたいな人が多くいたためか、社員が使える事務やサウナが会社の近くにあった。
みんなそこで汗を流しておかしのカロリーをなかったことにしているのだ。
運動をしてでもお菓子を食べたい。
それは尚美もよく理解できる感情だった。
食べなきゃいいじゃん。
というのは論外だ。
頑張って仕事をして、そのご褒美に食べるおやつ。
休日、頑張って自分へ向けてちょっと高いおやつを買ってかえる。
それに日常的に食べるおやつもありだ。
健康に気を使うなら野菜がふんだんに使われているおやつだって発売されている。
とにかく、我慢することがなによりも体に悪いことだと尚美は考えていた。
『田崎さんのお弁当は毎日おいしそうですね』
ふと、そんなことを言われたことがあるのを思い出した。
会社では沢山の人が働いているけれど、その中でも尚美が一番尊敬している上司、関健一からの言葉だった。
健一は30歳という若さで役職についているエリート社員で、誰にでも優しくそして見た目がいいことで人気の上司だった。
尚美も1度、入社して半年の頃に書類で大きなミスをしてしまった。
怒られる覚悟で健一の報告すると、健一は難しそうな顔をしたあと『これは田崎さんのミスですが、誰でも起こしうるミスでもあります。
一緒に解決策を考えて行きましょう』そう言ったのだ。
ミスした尚美を一方的に怒るのではなく、ミスは誰でも起こすものだから、根本的なところを解決しようとする。
その姿勢にひかれた。
それ以来ミスをしても健一に報告することが怖くなくなった。
一緒に解決してくれるから仕事もどんどん向上していく。
仕事の手順を変えて、方法を変えて、職場そのものがアップデートさせるたびによくなっていく気がする。
そんな空気を作ってくれている健一に感謝しているし、男性としても惹かれて行った。
そんな健一がくれた『田崎さんのお弁当は毎日おいしそうですね』という言葉は尚美の胸に刺さった。
料理は昔から好きだったから毎日お弁当を作ることも苦ではなかった。
ときには前日の残り物も使っていたし、冷凍食品を使うこともある。
それでも健一は『毎日おいしそうですね』と言ってくれた。
この言葉の『毎日』という部分にグッときたのだ。
健一はよく自分のことを見てくれているのだ。
毎日頑張ってお弁当を作ってきていることを知ってくれていたんだ。
それと同じで、毎日仕事を頑張ってくれていることも見てくれている。
それが嬉しかった。
気がつけば尚美も他の女性社員たち同様に健一に惹かれるようになっていた。
健一は未婚で彼女もいないと知ったのは、それからすぐのことだった。
☆☆☆
ヒョイッと抱き上げられて目を覚ました尚美は体から元気がみなぎるのを感じて相手の顔を確認した。
今までは空腹と疲労で相手の顔をはっきりと認識することもできなかったのだけれど、今あら大丈夫そうだと思ったからだ。
しかし相手の顔を見た瞬間尚美は爪を立ててその手を引っ掻いて逃げ出していた。
「いてっ」
と顔をしかめて血が滲んできた手の甲を見つめているのは、紛れもなく健一だったのだ。
な、なんで関さんがここに!?
すぐざま低いテーブルの下に逃げ込んで警戒する。
心臓がバクバクと音を立てていて、今にも爆発してしまいそうだ。
「まだ人間のことが怖いのかな」
健一はティッシュで手の甲を拭きながらテーブルの下を覗き込んでくる。
尚美は咄嗟に身構えて体勢を低くした。
ここは関さんの家!?
そう言えば私、職場の近くで拾われたんだっけ。
自分を拾った人が憧れの上司だったとわかり、体温が急上昇していく。
今人間の姿だったなら、きっと耳まで真っ赤になっていたことだろう。
ってことは私、関さんにミルクを飲まされていたってこと!?
衝撃の事実を知り愕然とする。
健一に抱っこされてミルクを飲んでいる自分の姿が、人間バージョンで脳内再生される。
尚美は慌てて左右に首を振ってそのいやらしい妄想をかき消した。
わ、私は今猫なんだし!
しかも子猫だからなんの問題もないはずだ。
わかっているのに心臓はどんどん早くなっていく。
どうすればいいかわからなくてテーブルの下から出ていくこともできない。
「俺の名前は関健一です。よろしくね」
すると健一が手床に寝そべるようにして尚美へ話しかけてきたのだ。
人間が怖いのだと思いこんでいる健一は優しい笑顔を浮かべている。
手の甲を引っ掻いてしまったのに全然怒っている様子はない。
「君にも名前が必要だよね? なにがいいかなぁ?」
うーんと空中へ視線を投げて考え込むその姿は、いつも会社で見る顔と代わりなかった。
きっと健一には裏表がないんだろうと思わせる。
「君はミャアミャア鳴くから、ミーコってどうかな?」
思いついたようにこちらへ視線を向ける。
そんなにミャアミャア鳴いていただろうか。
でもまぁ、子猫につける名前としてはごくありふれていると思う。
尚美は「ミャア」と短く返事をした。
「よかった。気に入ってくれたんだね」
そんなことを言うから意思疎通できているのかと思ったが、健一の勝手な認識で返事をしただけみたいだ。
「さて、名前も決まったことだし、お菓子でも食べる?」
その言葉に自然と耳がピンッと立った。
お菓子という単語にはどうしても弱い。
尚美はそろそろとテーブルから出てくると健一を見上げて「ミャア」と鳴く。
今日のお菓子はなんだろう。
新作はチョコレート菓子だったはずだ。
定番のクッキー菓子にチョコレートチップを練り込んで、更に上からビターチョコをかけた商品。
すでに店頭にも並んでいて、CMも流れている。
尚美ももう3回は食べた。
あれ、おいしいんだよね!
お菓子に期待して待っていると健一が差し出して来たのはジャーキーだった。
ジャーキーか。
嫌いじゃないけれど、甘いものが良かったなぁ。
と、かじりついてみたけれどその味の薄さに思わず吐き出してしまった。
なにこれ!
「あれ、まだジャーキーは早かったのかな?」
思わず吐き出してしまったジャーキーを見て健一が眉にシワを寄せる。
その手に握りしめられているパッケージを見てみると、猫用のおやつと書かれている。
これ、猫用ジャーキーだったんだ。
ジャーキーといえば犬のようなイメージがあるけれど、猫用もあるみたいだ。
それにしても、動物用のおかしはこんな味なんだ……。
尚美は吐き出してしまったジャーキーの匂いをクンクンとかぐ。
最初は妙な味だと思って吐き出してしまったけれど、慣れてくると美味しそうな匂いに感じられてくる。
もしかして私がこの体に適応していっているのかな?
なんて思いながら、「もう一口食べてみる?」と、差し出されてそれを加える。
奥歯を使って噛みちぎり、今度は吐き出すことなく咀嚼する。
だんだんと美味しくなってきたかもしれない。
そう感じ始めると今度は止まらなくなってきてしまった。
次がほしくて健一の腕にすがりつく。
こんな姿本当は恥ずかしくて嫌なのに、なんだか本能に抗えない気分がする。
「はいはい、もう1本だけね」
健一がジャーキーを差し出すとそれを奪い取るようにして自分の元へ引き寄せ、地面に押さえつけて噛みちぎる。
あぁ、これじゃまるで野生児だ。
こんな姿を憧れの上司に見られているなんて恥ずかしくてたまらない。
だけどお菓子を止めることもできなくて、あっという間に食べ終わってしまった。
それでもまだなにか残っていないか鼻先でくんくん部屋の中の匂いをかぐ。
その姿を見て健一が「もうないよ」と笑った。
こんなにいやしい姿を見ても笑ってくれているなんて、なんて優しい人なんだろう。
自分が子猫になっていることをすっかり忘れて健一のことを惚れ直してしまう。
健一の大きな手で頭を撫でられたら本当に心地よくて、また眠ってしまいそうになる。
が、今度はしっかりと目をあけて健一の手の甲を確認した。
さっき自分が引っ掻いてしまった傷が残っている。
それほど深い傷じゃないけれど、ほっておくことはできない。
本当なら消毒しなきゃいけないけれど、今の尚美にはそれもできない……。
尚美は健一を見上げて「ミャア」と鳴いた。
ごめんなさい。
の意味を込めて。
するとやはり健一は言葉がわかるかのように「大丈夫だよ、痛くないから」と、答えてくれた。
やっぱり私の言葉がわかるんじゃないの!?
そう思って何度も「ミャアミャア」鳴いてみたけれど、後の言葉はなにも通じなかった。
少しガッカリするけれどそれでも優しい健一に拾われたことは不幸中の幸いだったに違いない。
「さぁ、今日はもう寝よう。明日は一緒に買い物へ行くよ」
そう言われて尚美は明日も休日であることを思い出した。
健一は今日休日出勤だったのだろう。
だから会社の近くにいたんだ。
「こっちにおいで」
リビングの電気を消した健一に手招きされて尚美はその後をついていく。
隣の部屋は寝室になっていて、大きなベッドが中央に置かれている。
さすがに広い……!
そう思っていると健一は枕元の電気だけをつけてすぐに布団の中に潜り込んでしまった。
猫である自分が一緒に眠るわけにもいかなくて、どこで寝ようかと室内を見回した。
大きなクッチョンがあるから、あの上で寝させてもらおう。
そう思って移動しかけたとき、大きな両手で抱き上げられて強制的にベッドの上に移動してきていた。
そのまま布団の中に引き込まれてしまう。
「今日は一緒に寝るんだよ」
健一の息がかかるくらいに密着して囁かれて尚美はまた暴れそうになる。
けれど健一が両手でギュッと抱きしめてくるので抵抗もできなくなってしまった。
こ、こんな状態で眠れるわけがない!
健一と同じ布団で眠るなんてこと想像の中でもしたことがない。
こんなの恥ずかしすぎる!
理性のある尚美はそう思うけれど、体は子猫のものだ。
今日はずっと空腹で歩きまわっていたから、いくら寝ても寝たりない状態にあるらしい。
健一に抱っこされ、暖かな布団にくるまれて再びまどろみはじめてしまった。
あぁ、ダメだってば私。
こんなところで寝ちゃ、みんなに誤解されちゃう……。
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