世界は淫魔に支配されましたが、聖女の息子は屈せない

池家乃あひる

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第一章

4-4.悪あがき

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 進むごとに人影は少なく、同時に向けられる視線を意識させられる。
 二度見する者。我が目を疑う者。平然を装い、されど目が泳ぐ者。通り過ぎた後に顔を寄せ、互いの幻覚ではないかと疑う者。
 どの反応も当然だ。その視線を受けてなお上機嫌に進むアモルも、追従するクラロも異常なだけ。
 食堂に至る道から外れ、仕事部屋の密集した空間からも遠ざかり。普段は物置として使用されている付近にまで差し掛かる。
 隅に溜まった埃も、装飾品の類が一切ないことも、手入れの行き届いていないことを示すものだ。花瓶の一つどころか、壁紙さえ剥がれかかっている。
 一昔前なら、ここが王城の内部とは到底信じられなかっただろう。淫魔に支配されてからは、何ら不思議なことではない。
 いや、自分たちが行かない場所にまで気を配ることがないのは、旧時代でも同じことだ。……そう考えたところで、クラロの逃げ場は塞がれたまま。
 上級国民のいる区域に連れて行かれるよりかは、こちらの方がマシなことには変わりない。
 建前としては、まだ遊びに付き合ってくれるらしい。
 そうでなければ、とっくに大勢の群衆の中で文字通り食い散らかされていただろう。
 本来は倉庫として利用されている一室の前で止まったということは……まだ、生き延びられるチャンスが残っているということ。

「はい、到着ッス!」

 リズミカルに三回。叩かれた扉の質だってひどいものだ。軋む蝶番の音も、同様に。
 ……だが、想定していた通りであったのは、そこまでだった。
 まず飛び込んだのは、窓から差し込む光だ。目を細めるまでもない、だが、本来はないはずの光源に戸惑わないほど、クラロは冷静ではない。
 長い間務めているとはいえ城内は広く、全ての部屋を把握しているわけではない。
 だが、ここが本来は倉庫として利用され、窓もなく、埃とカビの匂いに支配された空間であることは記憶に残っている。
 上品な赤に染められた絨毯。窓際に飾られた花々。新しく張り替えられた壁紙。多少の記憶違いはあるとしても、明らかに違うと断言できる。
 唯一の名残は、天井の剥げた塗装ぐらいだろう。漂う甘い香りは可憐な花からなのか、あるいは……薬の類か。
 導線など考えずに置かれていた荷物は見る影もなく、あるのは中央に置かれた長テーブル。
 白いシーツで整えられたその上に並ぶのは、一切の乱れなく置かれたカトラリーとワイングラス。
 これだけで『お食事会』の中でも相当手がかかったものだと示している。
 道中さえ無視すれば、明らかにただの下級奴隷が入るには場違いな場所。招いた主催も、共に『お食事会』を楽しむ者も、眉を寄せて追い出すのが普通だ。
 だが、用意されたテーブルの向こう。対面となるその位置に座るのは、たった一人。

「やぁ、待っていたよペーター」

 にこやかな笑顔で出迎えたのは、アモルの言っていた通りの人物。
 黒のズボンに白いワイシャツ。初めて会った時のように気楽な恰好だが、それがクラロを安心させる要因にはなり得ない。
 背後で扉が閉まっても、クラロの足はまだその場に留まったまま。顔はそのまま、前髪越しでもう一度見渡した周囲に、やはり他に影はいない。

「急に誘って悪かったね。でも、こうでもしないと来ないと思って」
「はいっ、こちらへどうぞ!」

 悪びれた様子もない謝罪に、怒りを抱くこともない。
 専属のメイドとはいえ、淫魔が奴隷に対し椅子を引くなんて恐れ多い光景、他の者が見れば卒倒ものだ。
 だが、それでもクラロは動くことなく、強張りそうになる口を笑みの形に歪ませる。

「いやぁ、オラなんかがこった場所さ呼ばぃるなんてやっぱり恐れ多ぐで……マナーどがもよぐ分がってねす、それに……」

 見苦しいところを見せるわけにはいかないと。そう続けたかった言葉が、クスクスと笑う音で遮られる。

「大丈夫、これは個人的なものだから、マナーなんて気にしなくていいんだよ」
「ですが、」
「――なんて、もうここに一年以上勤めている君なら分かっていると思うけどね」

 互いに笑みは崩れない。だが、その見つめる赤は、クラロが動揺したことを見抜いているだろう。
 下手な足掻きも楽しんでいると。そう隠すこともなく、笑う瞳が手を伸ばす。
 座ったままの男と、立ったままのクラロ。その指先が触れることはなく、ただ椅子を示しただけ。

「大丈夫。まだ取って食べたりしないよ。普段から頑張っている君への、ちょっとしたご褒美と、お詫びも兼ねてだからさ」

 だから安心して座っていいと。そんな言葉を信じるのは、本当に盲信している奴隷かよほどの馬鹿だ。
 クラロだって、このまますぐに食われることはないと分かっている。そう、まだだ。……まだ。
 だって、これは『お食事会』その為に行われる、金をかけた茶番なのだから。
 そうだと分かっても逃げられず、足はテーブルへと向かう。こうなることだって、見つめる赤は見通していたのだろう。
 最初からクラロに拒否権はない。そうだと分かって足掻く一連までも、この男は楽しんでいるのだ。
 ……そうだと分かっていても、クラロは抗わずにはいられない。
 促されるまま椅子に腰掛ければ、柔らかな座面が臀部を支える。普段使っている物とは比べものにならない高級品。だが、胸に込み上げるのは感動ではなく緊張感。
 テーブルを挟んでいるおかげで、距離は取れている。だが、それは手を伸ばされてもギリギリ届かない程度のもの。
 通例の『お食事会』に比べれば、あまりにも近すぎる。

「さて、まずは……食前酒は赤と白、どっちがいい?」

 テーブルの端、クラロと男の中間に置かれたボトルは二つ。
 どちらも見た目は同じ。ラベルこそ隠していないが、読めたところでどちらが正解か知り得るはずもない。

「申すわけねぇです。この後も仕事が……」
「ははっ、やだなぁペーター。飲む前から酔っているのかい?」

 面白いと笑う声は、笑えない冗談と共に。薄く開いた赤は、心底その反応を楽しむように淀み、光る。

「これも仕事のうちだろう? だって、『お食事会』なんだから」

 戻れるはずがないだろうと笑い、嗤う男に込み上げる息を押し殺す。
 これ以上足掻いたところで喜ばせるだけ。そもそも、席に着いてまで逃げられるとは思っていない。
 だが、まだ対抗策は残っている。ただで食われるつもりはないと、向けた視線は無機質なボトルへ。
 確率は半分。悩むだけ馬鹿馬鹿しい。問題は、どれだけクラロが『毒』に耐えられるかだ。

「……では、白で」

 答えるなり、グラスに注がれるのは薄黄色の液体。口元に近付ければ、広がる果実の香りと慣れぬ酒の匂いに眉を寄せる。
 初めての酒がこんな形になるなんて、と。そんな恨みごと飲み干せば、芳醇な甘みと未知の苦味に頭が揺さぶられるかのような錯覚。
 それはアルコールのせいか。……あるいは、『当たり』だったのか。

「いい飲みっぷりだ。……さて」

 飲み干し、空になったグラスを机に戻す。満足げに頷いた男も続けて一口含み、その間に新たに用意されたグラスに満たされるは赤。
 そうして、続けて差しだされたサラダは二つ。

は、どっちにする?」

 揺れるワインよりも深く、透き通った赤が、クラロの足掻きを待っていた。
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