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参
散ずる桔梗に、宿る声 【十】
しおりを挟む「はあぁぁぁ、ふぅー。はあぁぁぁ、ふぅぅー」
あぁ、またか。
「ああぁ、気持ち良いなぁ。思う存分、息を吸えるというのは、なんと素晴らしいことなのだろう。なぁ、光成?」
また、始まったのか。
「喉と顎を潰されかけた時はどうなることかと思ったが、人の身体というのは丈夫にできているのだなぁ。なぁ、光成?」
「……」
傷の手当てを拒否した建殿が清涼殿《せいりょうでん》まで逃げ、頭《とうの》中将様の仕置き云々のひと悶着があってから、はや三日。
執務の区切りがついた頃に、この人はこんな風に私に話しかけるようになっていた。
我を忘れて建殿の顎をがくがくと揺らしまくった私に、見せつけるように大きく深呼吸を繰り返して。
「なぁ、光成? 私の話、聞いてくれているか?」
「……っ、聞こえていますよ。嫌みったらしく、何度も『なぁ、光成?』と繰り返さずともねっ」
「そうか。聞いてくれていたか。それは良かった! では、そろそろ“例のあれ”を頼んでもよいだろうか」
「はっ、はい。仕方ないですね。お仕事にも、ひと区切りついたことですし。でで、では、始めますよっ?」
『例のあれ』と言われた途端、鼓動が一気に跳ね上がる。
どくどくと波打つ鼓動で浮ついた心地のまま、仕舞っておいた薬を、私は取り出すのだ。基射様が生成し、真守殿に持たせてくださった塗り薬だ。
どういうわけか、建殿のお手当ての担当者に、私が任命されてしまった。当の、建殿によって。
清涼殿で建殿を拘束なされた中将様は、建殿が撫子の君への懸想文《けそうぶみ》をやめた理由を聞くなり、あっさりと解放し、仕置きも手当てもすることなく去っていかれた。
『え? 懸想文をやめた理由ですか? なんとなく? ですかねぇ。
『なんとなく、だと?』
『はい。色よい返歌は一向にいただけないし、頭中将様や帥宮《そちのみや》様など、名だたる求愛者がおられる中で頑張るのに疲れただけですー。あははっ。あ、そんな私ですので、もちろん、よその絶世の美女とも無縁です。ご期待に添えず、すみません』
へらへらと笑って告げた建殿に不憫そうな視線を向けて去っていかれるご様子が、やけに印象的だったのだが。実は、中将様が撫子に出されている懸想文に関しても裏話があったりする。
あちこちの女人を渡り歩いておられる中将様を警戒している父、大納言によって、女房たちを束ねる私の乳母、安芸《あき》に厳命が下されているのだ。『頭中将よりの文は、全て握り潰せ』と。
父上は、類い希な美しさを誇る撫子を、主上《おかみ》のもとへ入内《じゅだい》させることを目論み、その機会を窺っているのだ。
「光成ぃ、まだかぁ?」
「あっ、はい。今すぐっ」
しまった。少し、ぼうっとしていた。これでは、建殿のぼんやりを詰問できない。しっかりしなくては。
「さっ、さて、始めますよ」
「うん、頼むよー」
「……っ」
どくどくとうるさい鼓動を持て余しつつも懸命に険しい表情を作ってみせていたのに、無邪気で明るい笑顔を即座に返され、一瞬くらりと眩暈がした。
そして、瞬時に思い出す。三日前の建殿の言葉と様相を。
中将様が解放してくださった建殿を真守殿が待つ場所へと強制的に連れ帰って手当てを促したところ、途端にぶすっとした表情に変わり、『光成が良い』と、ひたすら繰り返されたのだ。
『こんな傷、痛くも痒くもないから、そもそも手当てなど必要ないが、どうしても手当てが必要だというのなら光成にしてもらう。でなければ、断固拒否だ』と。
どういう理由でそのようなことを口にされたのかはわからないが、その傷を心配している身としては、頷く他ない。
真守殿には、薬の御礼を申し上げて引き取っていただき、その日から私が手当てをすることになった。
いつの頃からだろう。建殿のお考えがよくわからない時が増えた。
お気楽で単純明快なお方だと思っていたのに、突然ぶすっとされたり。そうかと思えば、こうして私に手当てをせがんで甘えてこられたり。よくわからない。
一番よくわからないのは、真守殿への態度だ。あの少年のことを嫌ってはいないはずなのに、真守殿と私がお役目の相談をしていると、なぜか機嫌が悪くなっていく。
それも、日に日に、その度合いが強くなっているような、そんな気がする。
そんな気がするが、理由がわからないし確証もないから、何ともできないのが現状で……。
「……さ、準備ができました。貼りますよ?」
わからないことを悩んでも仕方ない。取り敢えずの最優先事項をこなすため、薬をべったりと塗りつけた晒し布を、うなじの傷へ。
『光成が良い』と私を指名してくださったからには、精いっぱい丁寧なお手当てを目指しますよ?
「ぎゃっ、痛い! 冷たい! しみるっ! 光成、もっと優しく頼むぅっ!」
「我慢なさい。この薬草は、傷口に丁寧に擦り込まねば効果がないと真守殿がおっしゃっていたのです。ほら、じっとして!」
「うおおぉう! しみるっ! ぎゃああぁっ!」
任された以上は、完璧にこなすのが、私の主義。
じっくり丁寧に、ぐりぐりと。傷口に晒し布を押しつけて、薬を塗り込む作業に没頭した。
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