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第五集 忠に背くとも
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李秀による決死の奇襲作戦に天が味方をした事で、南蛮兵を率いていた大将は討ち取られ、味城の包囲は無事に解かれる事となった。
しかし益州は既に氐族によって失陥しており、少ない兵力のまま中央と分断されてしまっている状況は変わらない。もしも南蛮が別な将に率いられて再び戻ってきたら、或いは益州の氐族が大軍勢で攻めてきたら、もはや李秀たちに勝ち目はなかったであろう。
そんな不安の中で過ごしていた味城の者たちであったが、幸運な事にどちらも攻めてこないまま時が過ぎた。城内での畑作や周辺の森での狩猟採集で何とか食いつないでいる内に、寧州刺史・李毅が亡くなってから三年の月日が流れていた。
既に十七歳となっていた李秀が指揮する味城に向けて、南方から軍勢が進んでくるとの報告が入った。遂に南蛮が体勢を立て直して攻めて来たかと城内に緊張が走ったが、それは何と漢人の兵士たち。そしてその先頭にいるのは、もう何年も会っていなかった李秀の兄・李釗であった。
兄との再会に涙を流して喜んだ李秀は、そこでずっと分断されていた中央の情勢を聞かされる事となる。
益州で氐族の李雄が「成」を国号に独立したという話は李秀も知っていたが、中原では南匈奴の劉淵が漢の正統後継者を名乗って「漢」を国号に建国し、都の周辺で一進一退の攻防を繰り広げているという。事ここに至っては、朝廷ももはや政争などしている場合ではない。逆に言えばそれほどまでに国家存亡の危機と言えたのである。
そんな最中にあって、朝廷は既に益州の氐族に討伐軍を割く余裕はない。結果として寧州も忘れ去られていたのであるが、李釗は何とか軍を借り受けて出兵。益州を通る事が出来ない以上、荊州を南下して、南海(南シナ海)に面した交州へと抜け、そこから未開の山岳地帯や密林を、実に二年もかけて切り開きながら進軍し、遂に寧州へと到達したのである。
李釗の方もここに至って初めて父の死を知り、味城の城内にある墓前で伏して涙を流した。「父上、遅れて申し訳ありません」と、数刻に渡って大粒の涙を流し続けたのである。
さて、その後に中央から新たなる寧州刺史が派遣される事になる。王遜というその男は、非常に厳格な人物であり、汚職などを嫌う高潔な人柄であった。だが悪く言えば生真面目が過ぎて融通が利かぬ嫌いがあったのだ。
殊に寧州のような辺境においては、あえて規則に不明瞭な部分を作る事で人を上手く回すという暗黙の了解があったわけだが、そうした部分で厳格な王遜との間に溝が生まれてしまう事になるのである。
味城の籠城戦を共に生き延びた者の中にも、王遜に叱責されて厳罰に処された者も少なくなかった。
勿論ながら王遜によって寧州の綱紀が粛正され、周辺の治安も良くなったのは確かである。しかし引き換えに彼は部下や領民からの信頼を得る事は無かったのだ。李釗、李秀の兄妹も、やはり王遜とは馬が合わなかった。
そうした事情もあり、李釗は越巂太守、王載は漢嘉太守という、益州との州境、つまり敵国である成との国境という前線に配属される事になった。李秀はと言えば、この時には王載の妻となっており、夫と共に漢嘉郡にいた。
そこで彼らは、故郷である蜀の様子を見る事になる。戦乱に明け暮れる晋朝の中央とは逆に、そこでは非常に安定した平和な統治が行われていたのだ。民も日々の食事に困っている様子はなく笑顔で暮らしている。
そうした状況の中で、李秀も李釗も、そして王載も、そこへ攻め込まねばならぬ状況に疑問を感じ始めていたのである。
晋朝滅亡の知らせが届いたのは、そんな頃であった。匈奴漢によって洛陽、そして長安が陥落し、皇帝である司馬鄴(愍帝)を始め、都にいた皇族が殺害されたというのだ。李秀らは遂に、仕える国を失ったのである。
寧州刺史・王遜は、すぐさま江東へ使者を送った。皇族の血を引く琅邪王・司馬睿を推戴し、晋の再興を計ろうというのである。結果としてこの工作は成功する事になる。
歴史の上で、匈奴に滅ぼされた方を西晋、江東で司馬睿が再興した方を東晋と呼んで分けるわけだが、寧州刺史の王遜こそが、そんな晋室再興の最大の立役者となったのである。
だが李釗、李秀の兄妹は、この王遜による晋室再興にはあまり乗り気では無かった。彼らの目に映っているのは、故郷である蜀の民の平和そうな顔である。
越巂にいる李釗を訪ねた李秀と王載は共に話し合い、同じ結論に辿り着いた。正確に言えば李釗と李秀が一致した見解で、王載は「俺はどこまでも二人に付いていくだけだ」と笑みを浮かべたのである。
「我らの決断に、父祖たちはどう思うかな?」
そう言って苦笑した李釗に対し、李秀は笑顔で返す。
「きっと草葉の影で笑ってますよ」
思い返せば彼らの曽祖父である李朝は、当時の益州牧・劉璋に仕えていながら、放浪者の劉備を迎え入れて旧主を追放した。そして父である李毅もまた、そんな劉備の築いた蜀漢を滅ぼした仇敵であるはずの晋に仕官したのである。
彼らの父祖も、そして彼ら兄妹も、考えは同じであった。主家に対する忠に背くとも、それは故郷の民への仁と侠を守るためである。
そして彼らは成に降伏する事を、城内で配下に布告した。
「我らと共に来る者は残れ。受け入れられぬ者は寧州刺史の許に行き、晋に忠を尽くせ」
しかし彼らの部下で王遜の許に行く者は驚くほどに少なかった。それは晋はもう滅びたという失意もあれば、王遜よりも李釗たちの方を信頼しているという部分もあった。だが巴蜀出身者の多い寧州兵にとっては、これでようやく戦を終えて故郷に戻れるという感情が何よりも強かったのである。
そうして越巂、漢嘉の両郡は、成に降伏したのである。降伏を受け入れた成の皇帝・李雄は、李釗と李秀を指名して呼び出した。それに一体どんな意図があるのか、兄妹は計りかねつつも素直に従う。
成の皇帝、氐族の頭領、李雄とは、一体どんな人物なのであろうか……。
しかし益州は既に氐族によって失陥しており、少ない兵力のまま中央と分断されてしまっている状況は変わらない。もしも南蛮が別な将に率いられて再び戻ってきたら、或いは益州の氐族が大軍勢で攻めてきたら、もはや李秀たちに勝ち目はなかったであろう。
そんな不安の中で過ごしていた味城の者たちであったが、幸運な事にどちらも攻めてこないまま時が過ぎた。城内での畑作や周辺の森での狩猟採集で何とか食いつないでいる内に、寧州刺史・李毅が亡くなってから三年の月日が流れていた。
既に十七歳となっていた李秀が指揮する味城に向けて、南方から軍勢が進んでくるとの報告が入った。遂に南蛮が体勢を立て直して攻めて来たかと城内に緊張が走ったが、それは何と漢人の兵士たち。そしてその先頭にいるのは、もう何年も会っていなかった李秀の兄・李釗であった。
兄との再会に涙を流して喜んだ李秀は、そこでずっと分断されていた中央の情勢を聞かされる事となる。
益州で氐族の李雄が「成」を国号に独立したという話は李秀も知っていたが、中原では南匈奴の劉淵が漢の正統後継者を名乗って「漢」を国号に建国し、都の周辺で一進一退の攻防を繰り広げているという。事ここに至っては、朝廷ももはや政争などしている場合ではない。逆に言えばそれほどまでに国家存亡の危機と言えたのである。
そんな最中にあって、朝廷は既に益州の氐族に討伐軍を割く余裕はない。結果として寧州も忘れ去られていたのであるが、李釗は何とか軍を借り受けて出兵。益州を通る事が出来ない以上、荊州を南下して、南海(南シナ海)に面した交州へと抜け、そこから未開の山岳地帯や密林を、実に二年もかけて切り開きながら進軍し、遂に寧州へと到達したのである。
李釗の方もここに至って初めて父の死を知り、味城の城内にある墓前で伏して涙を流した。「父上、遅れて申し訳ありません」と、数刻に渡って大粒の涙を流し続けたのである。
さて、その後に中央から新たなる寧州刺史が派遣される事になる。王遜というその男は、非常に厳格な人物であり、汚職などを嫌う高潔な人柄であった。だが悪く言えば生真面目が過ぎて融通が利かぬ嫌いがあったのだ。
殊に寧州のような辺境においては、あえて規則に不明瞭な部分を作る事で人を上手く回すという暗黙の了解があったわけだが、そうした部分で厳格な王遜との間に溝が生まれてしまう事になるのである。
味城の籠城戦を共に生き延びた者の中にも、王遜に叱責されて厳罰に処された者も少なくなかった。
勿論ながら王遜によって寧州の綱紀が粛正され、周辺の治安も良くなったのは確かである。しかし引き換えに彼は部下や領民からの信頼を得る事は無かったのだ。李釗、李秀の兄妹も、やはり王遜とは馬が合わなかった。
そうした事情もあり、李釗は越巂太守、王載は漢嘉太守という、益州との州境、つまり敵国である成との国境という前線に配属される事になった。李秀はと言えば、この時には王載の妻となっており、夫と共に漢嘉郡にいた。
そこで彼らは、故郷である蜀の様子を見る事になる。戦乱に明け暮れる晋朝の中央とは逆に、そこでは非常に安定した平和な統治が行われていたのだ。民も日々の食事に困っている様子はなく笑顔で暮らしている。
そうした状況の中で、李秀も李釗も、そして王載も、そこへ攻め込まねばならぬ状況に疑問を感じ始めていたのである。
晋朝滅亡の知らせが届いたのは、そんな頃であった。匈奴漢によって洛陽、そして長安が陥落し、皇帝である司馬鄴(愍帝)を始め、都にいた皇族が殺害されたというのだ。李秀らは遂に、仕える国を失ったのである。
寧州刺史・王遜は、すぐさま江東へ使者を送った。皇族の血を引く琅邪王・司馬睿を推戴し、晋の再興を計ろうというのである。結果としてこの工作は成功する事になる。
歴史の上で、匈奴に滅ぼされた方を西晋、江東で司馬睿が再興した方を東晋と呼んで分けるわけだが、寧州刺史の王遜こそが、そんな晋室再興の最大の立役者となったのである。
だが李釗、李秀の兄妹は、この王遜による晋室再興にはあまり乗り気では無かった。彼らの目に映っているのは、故郷である蜀の民の平和そうな顔である。
越巂にいる李釗を訪ねた李秀と王載は共に話し合い、同じ結論に辿り着いた。正確に言えば李釗と李秀が一致した見解で、王載は「俺はどこまでも二人に付いていくだけだ」と笑みを浮かべたのである。
「我らの決断に、父祖たちはどう思うかな?」
そう言って苦笑した李釗に対し、李秀は笑顔で返す。
「きっと草葉の影で笑ってますよ」
思い返せば彼らの曽祖父である李朝は、当時の益州牧・劉璋に仕えていながら、放浪者の劉備を迎え入れて旧主を追放した。そして父である李毅もまた、そんな劉備の築いた蜀漢を滅ぼした仇敵であるはずの晋に仕官したのである。
彼らの父祖も、そして彼ら兄妹も、考えは同じであった。主家に対する忠に背くとも、それは故郷の民への仁と侠を守るためである。
そして彼らは成に降伏する事を、城内で配下に布告した。
「我らと共に来る者は残れ。受け入れられぬ者は寧州刺史の許に行き、晋に忠を尽くせ」
しかし彼らの部下で王遜の許に行く者は驚くほどに少なかった。それは晋はもう滅びたという失意もあれば、王遜よりも李釗たちの方を信頼しているという部分もあった。だが巴蜀出身者の多い寧州兵にとっては、これでようやく戦を終えて故郷に戻れるという感情が何よりも強かったのである。
そうして越巂、漢嘉の両郡は、成に降伏したのである。降伏を受け入れた成の皇帝・李雄は、李釗と李秀を指名して呼び出した。それに一体どんな意図があるのか、兄妹は計りかねつつも素直に従う。
成の皇帝、氐族の頭領、李雄とは、一体どんな人物なのであろうか……。
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