皇帝陛下のお妃勤め

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第一部

3、湯けむり浴場の猛者

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 翌日、皇帝が前夜寝所から予想外に早く出てきたこともあって、新たな妃に仕える宮女たちは大いに焦っていた。
 期間限定とは知らない彼女たちにとって、この先ずっと仕えるだろうと思っている主人が寵愛を得られないのはとても悲しいし、彼女たち自身の出世にも関わるからだ。
 そう言うわけで、彼女たちは今晩に懸けていた。

「淑妃さま。さあさあどうぞお入り下さい」

 景素流が案内されたのは浴場で、湯殿にたっぷり張られたお湯の上には、宮女たちの手によって色とりどりの花弁が浮かべられていた。
 彼女たちは妃の日に焼けた肌を磨き上げ花の良き香りを纏わせれば、皇帝陛下もきっと満足してその気になってくれるだろうと期待したのだ。
 昨夜もこの新しい妃は他者に入浴の世話をされるのをかなり戸惑っていたのだが、しかし群れる宮女たちからあれよあれよと世話をされ、気付けば婚礼衣装を着せられて寝所に座っていた次第だった。
 当然ながら今夜も同様で、しかも昨日以上に入念に肌を磨き上げられ、仕上がればそれなりにはなった。
 実際、宮女たちは自分たちの仕事に大きな達成感を覚え上機嫌で、あとはどうにか皇帝が彼女を気に入って良くしてくれることだけを願った。
 しかし、景素流は何を思ったか、仰々しい綺麗な着物を着る前に少し一人にしてほしいと湯殿に残った。少し体を動かしたい、と。
 宮女たちは首を傾げたが、主人がそう言い張るのだから受け入れるしかなかった。

 しかしこの夜、計算違いの僥倖も甚だしいことに、皇帝が浴場にまでやってきた。

 着飾らせる前に来駕されてしまい、皆が皆あわあわと焦ったものの内心は狂喜乱舞だ。

「淑妃様! 淑妃様! 大変です皇帝陛下がお越しに……!」

 中からは返事はなく、何故か気合の籠った短い掛け声が聞こえてくる。
 もう何度か声を掛けたものの状況は変わらない。
 宮女たちは内心不審と焦りを覚えたものの、宮女の嗜みとして声を荒らげるようなことは……、

「「淑妃様あっ!」」

 した。
 皇帝陛下がやって来たのだから背に腹は変えられないのだ。
 この好機を逃す手はないのだ。
 やるしかないのだ。

「良いのだ。変に気を遣うな。朕と淑妃は夫婦なのだ。余計な気を回すでない」
「「へっ陛下!?」」

 若いだけあって皇帝は歩くのが速いのか、もう輿から降りてここまで来たという不測の事態に青くなる宮女たちは、機嫌がいいのか寛容なのかそんな皇帝の言葉に「有難きお言葉!」と平伏するや感動したようにして下がった。
 宮女が居なくなった浴室前で、皇帝は一人扉に手を掛ける。
 皇帝楊一翔は、実はこの日、皇后からお叱りを受けていた。
 折角の初夜を放り出すなど何をやっているのかと責められれば、今夜は必ず皇帝としての責務を果たすしかないと観念した。
 ただ、果たして昨日同様萎えないと言い切れるのか不安だったので、服を着ていない相手ならなし崩し的に行けるかもと浅はかにも思っていた。
 かくして彼は一人、新婚二日目の妻がいる浴室に足を踏み入れた。

「――はっ! ――やあっ! ――とやあっ!」

 広い浴室には湯気が漂い、湯船からの芳醇な花の香りが満ちている。室温も快適だ。
 気分も良くなるここなら成功間違いなしと、一歩を踏み入れた時点で一翔は思っていた。
 しかし彼は早々に気付いた。そんな甘い雰囲気などことごとく吹っ飛ばすような光景が、目の前で繰り広げられていたのだと。

「――せやああっ! ――ふんぬっ!」

 胸から下を隠す布を巻いただけの妃――景素流が、何やら細い棒を手に、兵士さながらの動きを見せていた。

「ほぅ……」

 布を巻いているとは言え体付きはすらりとして美しい。
 しかし、勇ましい裂帛れっぱくの声や動きはしなやかとはいえ決して女性的ではなく、戦場の兵士たちのそれにしか見えなかった。入浴に際して上げていたのだろう黒髪も背に落ち、振り乱れる様は落ち武者的にも思えた。
 しばらく呆気として突っ立って眺めていたが、向こうは湯気のためか鍛錬に夢中のためかこちらに全く気付かない。
 はあ、と皇帝は額を押さえ溜息をついた。
 下がったと思いきや、気掛かりで少し離れた所から密かに様子を窺っていた宮女たちの一人は泡を吹いて卒倒しそうになっている。
 あれでは皇帝の寵愛はない……と彼女たちは悲嘆に暮れ涙ぐんでいた。

「……どこの世界に風呂場でこのような鍛錬を行う妃がいるものか」

 一翔の呟きは湯気に溶け、彼はどこか背後の宮女たちを気の毒に思いながらも扉を閉めた。
 ここからは夫婦の領域なので二人きりになるのがいいと判断したのだ。
 加えて、今夜こそはと意気込んできたのだと、自らに言い聞かせる。萎えるな自分、と。
 彼は呼吸を整えゆっくりと近付いて、妃を呼んだ。

「淑妃よ」

 声が小さかったのか彼女は気付かず勢いよく掃除用具らしき棒を振り回し続けている。

「淑妃」

 今度はやや強めに呼び更に歩を進めたが、それでも気付かない。
 そんな背中に多少の苛立ちを覚えた。

「いい加減気付かぬか」

 とうとう手を伸ばして止めにかかった。

「――はあっ!」
「――ッ!?」

 肩を掴もうとした矢先、急に振り返った妃から棒でその腕を強打され、ついでに足を滑らせた彼は尻餅を付いてしまった。
 呆然と見上げる青年を、キョトンとした目の少女が見下ろした。
 少女景素流はすぐさま状況を理解すると掃除用具を取り落とし、口に手をやってみるみるうちに青くなった。

「へ? え!? ああああ陛下!? ごごごごめんなさい! 痛かったですよね!? ああどうしよう太医たいい、太医を呼びましょう!」
「い、いや、これくらいは平気だ。朕も臣下とよく鍛錬をするのでな。打ち身程度はさもない。いいから騒ぐな」
「え、でも……ああやっぱりもう赤くなってるうううっ。鍛錬に集中すると周りが全然見えなくなるんです、本当にごめんなさいっ!」

 一翔のすぐ傍に飛び付くようにして両膝を突き、問答無用で彼の袖をまくって腕の具合を確かめる素流は心配顔だったが、やや大袈裟に慌てふためく様子には、さしもの一翔も調子が狂ってしまいついつい苦笑を浮かべてしまった。
 本当にここは甘いことさえ起きる後宮内の湯殿なのか、まるで鍛錬場に新人武官とでもいるような気分だ、と。

「折角風呂に入ったのだろう? その様子では汗も掻いただろうし、反対に湯ざめしてしまうのではないのか? そもそもそんな恰好で何故兵士の真似事など」
「服を着てからだと動きにくくて。健康なお世継ぎを産むには体の充実が第一ですし、日課でもやっていましたし、腕立て腹筋背筋やその他諸々の運動は欠かせないなあ、と」

 彼はまたも思わず「くくっ」と笑ってしまった。
 妃と言えば素素としておしとやか、そんなものだと思っていたのに、全く以ってこの娘は規格外だ。
 彼は清々しいくらいに腹の底から可笑しさを感じていた。
 昨晩読み直した景素流の身上書には、確かに武芸も嗜むと記されていたのを思い出す。
 だから彼女の身のこなしは様になるのかと、一翔はそんなことを頭の片隅で思った。

「なるほど、服のままでは思うように動けぬからわざわざここでそのようなことを」
「そうです。だけどそのせいで陛下にお怪我を……もうここでは鍛錬しないようにします」
「そうだな。体を動かすのならば、明日にでも動きやすい服を届けさせる」
「……え? い、いいんですか?」
「健康な世継ぎを産んでくれるのだろう? そのために必要な運動ならば禁止するつもりはない。無理のない範囲で自由にやるといい」
「本当ですか!? ありがとうございます!!」

 ほくほくと嬉しそうにする素流に、彼は満足を覚えたが、実は結構腕が痛かったのをせ我慢してもいた。
 故に、今宵も二人の間には何ら進展はなく、また、彼の腕には密かに当分の間の養生が必要だったために、この後の夜もしばらくはただ一緒に夕食を摂るだけの日が続いた。
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