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第一部
4、皇后の正体
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「淑妃様、今日も陛下が参りましたよ」
妙にうきうきとした宮女へと淑妃である景素流は怪訝にした。
彼女は現在庭先で鍛錬中だった。
約束通り運動用の服一式を届けてくれた皇帝陛下には感謝している。しかしそれも彼自身のために過ぎないのだと素流はそう思っていた。
素流が世継ぎを産めば、その子が皇后の子として扱われる。
そこに不満はない。
食うに困るような環境で流行り病に罹って死んでしまう幼子が、城下でも少なくはないのだ。田舎の方ならもっとその率も高いという。
医療環境が整っていて、病で儚くなる可能性の低い場所で我が子が生きていけるなら、素流はそれでよしとする。この国のこの時代、不作や飢饉に喘ぐ年も少なくはなく、そういう考え方の下での選択は珍しくもなかった。
「来たからって、どうしてそんなに嬉しそうなの?」
「だって、陛下が淑妃様を気にかけてらっしゃる証拠じゃないですか」
「うーん、それはどうかなあ」
単に怪我をされては困るからではないだろうか、と素流は考えている。それしか理由なんて思い浮かばない。だから一応は気を付けて体を動かしてはいるのだ。
まあついつい、集中していると知らない間にどこかに擦っていて傷を作っている時もあるが、何故かそういう傷を見つけるのは決まって痛みを感じる自分ではなく彼の方だったりするのが不思議だった。
宮女たちに言わせれば、それだけ熱心に妃である素流の事を見ている証拠だと、我が事のように頬を染める。
素流はそこに一切甘さは感じず、むしろこれは究極の監獄の囚人であり、まさに監視の日々ではないかと辟易とした。
(はあー。人の鍛錬を一挙一動逃さずに眺めてられる程、あの人って暇皇帝なの? きっちり政務に取り組む性格だって聞いてたけどなあ)
鍛錬後、今日も素流はそんなうんざりした疑惑を胸に、医官に手当てを命じる夫を見つめたものだった。
後宮入りするまでは時間を惜しんでせこせこ働いていた素流にとっては、好感度は下がる一方だ。
彼の方にしても素流への好意があるとは思えない。
会話をしてもさほどこちらに興味があるとか言った様子はないし、初日同様にどこか淡白だ。
ただ、一度だけ、嘗めておけば治るような傷に手当てはいらないと言った時は、
「大事な体だという自覚が足りぬ」
と鋭く睨まれてしまったが。
以来大人しく手当てを受けている素流だった。
(でもそのくせ、未だに私たち子作りしてないのよね。あの人ホント何したいのかわけわかんない)
どうせ今日も清い関係で終わるのだろうと予想すれば、まさにその通りの日々が流れていった。
「――どうして何もしてこないのですか!」
人払いのなされた皇后の宮の一室で、麗しの皇后が声を荒らげた。
怒りが向けられているのは彼女の宮を訪れた若き皇帝陛下だ。
通された室内で、彼はやや気まずげにそっぽを向くとかりかりと自身の首を掻く。
「いや、万全の状態でなければ発揮できないと思ってな。それに腕の腫れ具合を直接目にしたら向こうが気にするだろう? それでは色々と支障が出る」
鮮やかな布を翻して皇帝に詰め寄った皇后はこめかみに青筋を立てている。
「そんなものは、いざ閨事に及べばさして気にならなくなるものだ! しかももうほとんど治っているだろうに!」
赤い唇から抑えたように紡がれる声は低く、まるで男のようだ。
「それはそなたの経験からか? ――蓮博風」
「おいそっちで呼ぶな。誰が聞いているかもわからないんだぞ」
「だったらそなたもその地声で喋るな。どうするんだ皇后が男だってバレたら。そなたの姉君の捜索にも影響が出るだろうに」
他では見せない皇帝の砕けた口調に美麗な顔を苦くした皇后は、胸のうちの鬱憤を逃がすように嘆息を落とした。
「もう四年だぞ。本当に姉上が見つかると思っているのか?」
「さあな。どこにいるにせよ、彼女は現状を知らない可能性が高いだろう。皇后は姉君に課された役目だったんだ。それを弟のそなたが代わりにしているなんて知ったら卒倒するんじゃないか? 知って飛んで来ない性格には見えない」
「だろうな。きっと蓮家出身の別の娘を姉だと偽って皇后に立てたと思ってるんだろう。だから乗り込んで来ない」
今回の側室劇も皇后の生家である蓮家が大いに関わっている。
ただし、皇后たっての願いだと言われてはいるものの、実際の表向きは政敵たちからの猛反発を食らわないよう巧妙に根回しがなされ、蓮家とは全く関係ない臣下からの奏上が発端とされている。
表向きは、その奏上を耳にした皇后が乗り気になったという無難な形になっているのだ。
「何にせよ、このまま世継ぎが出来りゃ皇后の子として育てるだろ。その子が早々に立太子されれば、皆の目は太子に向くだろうしそう仕向けるようにするだろ。そこまで来たら皇后は特段病が悪化したとして皆の前に一切出ないようにする。そうやっていけば皇后の存在感も薄まるだろうし、後は病死でも何でもでっちあげればいい。いい加減夜陰に乗じてこそこそここを抜け出すの面倒になってきたんだよな。私もそろそろ年中無休の蓮博風として生きたい。だからよくよく頑張ってくれよ、色男?」
「……他人事と思ってよくも抜け抜けと」
じろりと睨まれたものの皇后の衣装を着ただけで歴とした「男」である蓮博風は、乳兄弟である皇帝に怯むことは全くなかった。もちろんときめくことも。
四年前、婚礼の直前に皇后になるはずだった博風の姉が行方をくらまし、このままではあることないことを追及され、政敵に追い落とされるだろう崖っぷちに立たされた蓮家は、一計を案じたのだ。
姉に容姿の良く似た弟の博風に、皇后の代役を任せたのだ。
皇后が替え玉であることを隠すため、皇帝本人さえ加担している欺きは今の所上手く運んでいる。
皇后の存在自体を後宮から消すと言う方法を急ぐのも、四年前はもう少し少年らしく線の細かった博風も、今や一翔と同じく二十歳を幾つか超え化粧を取れば男だとバレてしまう恐れがあったからだ。
一翔としては、中世的な顔立ちは変わっていないので皇后としてはまだまだ行けるんじゃないかと思っているが、それを口にすると頗る不機嫌になるので言わないようにしていた。
博風の気持ちも理解できる。もしも自分も同じようなことを言われれば面白くないだろう。
とにもかくにも成婚して四年、皇后が男である以上子など成せるはずがない。
最近では臣下たちからは世継ぎの心配をされ、側室を娶るよう再三にわたって奏上されてきた。
景素流を後宮に入れたのは、もうそろそろ躱わすのも限界だろうと判断した皇帝自身と、そして蓮家の総意だったのだ。
妙にうきうきとした宮女へと淑妃である景素流は怪訝にした。
彼女は現在庭先で鍛錬中だった。
約束通り運動用の服一式を届けてくれた皇帝陛下には感謝している。しかしそれも彼自身のために過ぎないのだと素流はそう思っていた。
素流が世継ぎを産めば、その子が皇后の子として扱われる。
そこに不満はない。
食うに困るような環境で流行り病に罹って死んでしまう幼子が、城下でも少なくはないのだ。田舎の方ならもっとその率も高いという。
医療環境が整っていて、病で儚くなる可能性の低い場所で我が子が生きていけるなら、素流はそれでよしとする。この国のこの時代、不作や飢饉に喘ぐ年も少なくはなく、そういう考え方の下での選択は珍しくもなかった。
「来たからって、どうしてそんなに嬉しそうなの?」
「だって、陛下が淑妃様を気にかけてらっしゃる証拠じゃないですか」
「うーん、それはどうかなあ」
単に怪我をされては困るからではないだろうか、と素流は考えている。それしか理由なんて思い浮かばない。だから一応は気を付けて体を動かしてはいるのだ。
まあついつい、集中していると知らない間にどこかに擦っていて傷を作っている時もあるが、何故かそういう傷を見つけるのは決まって痛みを感じる自分ではなく彼の方だったりするのが不思議だった。
宮女たちに言わせれば、それだけ熱心に妃である素流の事を見ている証拠だと、我が事のように頬を染める。
素流はそこに一切甘さは感じず、むしろこれは究極の監獄の囚人であり、まさに監視の日々ではないかと辟易とした。
(はあー。人の鍛錬を一挙一動逃さずに眺めてられる程、あの人って暇皇帝なの? きっちり政務に取り組む性格だって聞いてたけどなあ)
鍛錬後、今日も素流はそんなうんざりした疑惑を胸に、医官に手当てを命じる夫を見つめたものだった。
後宮入りするまでは時間を惜しんでせこせこ働いていた素流にとっては、好感度は下がる一方だ。
彼の方にしても素流への好意があるとは思えない。
会話をしてもさほどこちらに興味があるとか言った様子はないし、初日同様にどこか淡白だ。
ただ、一度だけ、嘗めておけば治るような傷に手当てはいらないと言った時は、
「大事な体だという自覚が足りぬ」
と鋭く睨まれてしまったが。
以来大人しく手当てを受けている素流だった。
(でもそのくせ、未だに私たち子作りしてないのよね。あの人ホント何したいのかわけわかんない)
どうせ今日も清い関係で終わるのだろうと予想すれば、まさにその通りの日々が流れていった。
「――どうして何もしてこないのですか!」
人払いのなされた皇后の宮の一室で、麗しの皇后が声を荒らげた。
怒りが向けられているのは彼女の宮を訪れた若き皇帝陛下だ。
通された室内で、彼はやや気まずげにそっぽを向くとかりかりと自身の首を掻く。
「いや、万全の状態でなければ発揮できないと思ってな。それに腕の腫れ具合を直接目にしたら向こうが気にするだろう? それでは色々と支障が出る」
鮮やかな布を翻して皇帝に詰め寄った皇后はこめかみに青筋を立てている。
「そんなものは、いざ閨事に及べばさして気にならなくなるものだ! しかももうほとんど治っているだろうに!」
赤い唇から抑えたように紡がれる声は低く、まるで男のようだ。
「それはそなたの経験からか? ――蓮博風」
「おいそっちで呼ぶな。誰が聞いているかもわからないんだぞ」
「だったらそなたもその地声で喋るな。どうするんだ皇后が男だってバレたら。そなたの姉君の捜索にも影響が出るだろうに」
他では見せない皇帝の砕けた口調に美麗な顔を苦くした皇后は、胸のうちの鬱憤を逃がすように嘆息を落とした。
「もう四年だぞ。本当に姉上が見つかると思っているのか?」
「さあな。どこにいるにせよ、彼女は現状を知らない可能性が高いだろう。皇后は姉君に課された役目だったんだ。それを弟のそなたが代わりにしているなんて知ったら卒倒するんじゃないか? 知って飛んで来ない性格には見えない」
「だろうな。きっと蓮家出身の別の娘を姉だと偽って皇后に立てたと思ってるんだろう。だから乗り込んで来ない」
今回の側室劇も皇后の生家である蓮家が大いに関わっている。
ただし、皇后たっての願いだと言われてはいるものの、実際の表向きは政敵たちからの猛反発を食らわないよう巧妙に根回しがなされ、蓮家とは全く関係ない臣下からの奏上が発端とされている。
表向きは、その奏上を耳にした皇后が乗り気になったという無難な形になっているのだ。
「何にせよ、このまま世継ぎが出来りゃ皇后の子として育てるだろ。その子が早々に立太子されれば、皆の目は太子に向くだろうしそう仕向けるようにするだろ。そこまで来たら皇后は特段病が悪化したとして皆の前に一切出ないようにする。そうやっていけば皇后の存在感も薄まるだろうし、後は病死でも何でもでっちあげればいい。いい加減夜陰に乗じてこそこそここを抜け出すの面倒になってきたんだよな。私もそろそろ年中無休の蓮博風として生きたい。だからよくよく頑張ってくれよ、色男?」
「……他人事と思ってよくも抜け抜けと」
じろりと睨まれたものの皇后の衣装を着ただけで歴とした「男」である蓮博風は、乳兄弟である皇帝に怯むことは全くなかった。もちろんときめくことも。
四年前、婚礼の直前に皇后になるはずだった博風の姉が行方をくらまし、このままではあることないことを追及され、政敵に追い落とされるだろう崖っぷちに立たされた蓮家は、一計を案じたのだ。
姉に容姿の良く似た弟の博風に、皇后の代役を任せたのだ。
皇后が替え玉であることを隠すため、皇帝本人さえ加担している欺きは今の所上手く運んでいる。
皇后の存在自体を後宮から消すと言う方法を急ぐのも、四年前はもう少し少年らしく線の細かった博風も、今や一翔と同じく二十歳を幾つか超え化粧を取れば男だとバレてしまう恐れがあったからだ。
一翔としては、中世的な顔立ちは変わっていないので皇后としてはまだまだ行けるんじゃないかと思っているが、それを口にすると頗る不機嫌になるので言わないようにしていた。
博風の気持ちも理解できる。もしも自分も同じようなことを言われれば面白くないだろう。
とにもかくにも成婚して四年、皇后が男である以上子など成せるはずがない。
最近では臣下たちからは世継ぎの心配をされ、側室を娶るよう再三にわたって奏上されてきた。
景素流を後宮に入れたのは、もうそろそろ躱わすのも限界だろうと判断した皇帝自身と、そして蓮家の総意だったのだ。
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