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LESSON:5

第42話

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 隣人たちのサポートに感謝しながら、梨乃は彼らに今度の公演のチケットを渡した。隣人たちだけではなく神崎夫妻や相坂と三橋にも、先日アルバイトに行ったときに手渡していた。

「やだ梨乃ちゃん、S席ってこんな。チケット代を払うから!」

 いくら何でも、高校生からチケットを只で貰うわけにはいかない。年上の社会人として、隣人たちをはじめとする大人たちは絶対にそこを譲らなかった。無理矢理チケット代を梨乃に握らせると諦めたのか、苦笑混じりに「当日、見に来てくださいね」と笑顔で言った。

「勿論よ、楽しみだわぁ」
「みんなで、控え室にお邪魔してもいいかな」

 遠慮がちに恭一が尋ねると、梨乃は頷いた。心もち頬が染まっているように見えたのは、決して気のせいではない。

 ソリストとして出場する梨乃の控え室は個室があてがわれている。彼女の出番はプログラムの終盤なので、女性楽団と一緒でも結局一人になるので個室を用意された。それに今回の公演でソリストは梨乃だけなので、恭一たちがお邪魔しても他の者に迷惑はかからない。

「ヘアメイクは任せてね、梨乃ちゃん!」
「お願いします、円果さん」

 公演日に休みをもぎ取った円果は、今から鼻息が荒い。

「十日って大安なのに、よく休みが取れたな」
「ふふん、チーフ代理の特権ってやつよ!」
「円果先輩……それってパワハラじゃないのか? 同情するよ、職場の皆さんに」

 恭一が呆れたように肩をすくめ、円果は
「今回だけよ!」
 と誤解されたくないらしく、声を荒げた。

 そんな隣人たちの会話が面白く、本番まで日にちがあまりないというのに、リラックスしている自分に気付く。

(二人のおかげだなぁ……今までだったら、緊張で震えていたのに)

 環境が変わり、素敵な隣人たちに恵まれたことがありがたかった。両親と暮らしていたときは、どんなに励まして貰っても落ち着かず、精神的にあまり好調とはいえない状態で本番を迎えたものだ。だが今は楽しくて居心地が良くて、ついつい梨乃の頬は緩む。

「そうよ梨乃ちゃん、その笑顔。本番直前までそうやって笑顔でいれば緊張なんかどこかに飛んで行っちゃうからね」
「うん……ありがとう円果さん」

 本当に隣人に恵まれたと、感謝してもし足りない。恩返しは是非とも本番でミス無く演奏することだと、そして最高の笑顔で感謝の礼することだと……梨乃は改めて、やる気を奮い起こした。

 本番の前日まで夕食を共にし、睡眠もしっかりと取った梨乃は心身共に最高のコンディションで当日を迎え、会場である市民ホール関係者入り口の前にいた。職員に控え室まで案内してもらうと、ステージ衣装に着替える。と、着替え終わったのを見計らったかのようにノックがされ、入室を許可するとメイク道具一式を持った円果が顔を出す。

「わあ梨乃ちゃん素敵ね、そのドレス!」

 夏の青空を連想させる、爽やかなブルーのドレスは梨乃を普段よりも大人に見せた。ドレスのデザインや色を考慮して、今日の髪型とメイクを瞬時に決めていく。

「じゃあ梨乃ちゃん、座ってちょうだい」

 壁面には大きな鏡が設えてあり、スツールにドレスが皺にならないようにして座る。円果は演奏の邪魔にならぬよう、また表情がよく見えるように考慮しながら梨乃の髪を結い上げ、シンプルながらも存在感を感じさせる髪飾りを付け終えると、メイクに取りかかった。舞台映えを考慮しつつも濃くならないように仕上げる技は、流石にプロだ。あっという間にヘアメイクは完成し、円果に促され目を開けると、一段と大人っぽくなった梨乃が鏡の中でポカンとした表情を見せている。

「だ、誰? これ……」
「やあねぇ、梨乃ちゃん以外に誰がいるっていうの? さあ、アタシの役目はここまで。後は梨乃ちゃん自身の、腕の見せ所よ」
「ありがとう円果さん、忙しいのに」
「構わないわよ、梨乃ちゃんの為だもの」

 軽く肩を叩いてから、円果は出て行った。例え円果が元男性であったとしても、現在は女同士の(?)友情を育んでいる。手を振りながら出て行く彼女を見送り小さく息を吐くと、指揮者に挨拶をすべく部屋を出た。指揮者の控え室も個室で、梨乃の右隣だ。挨拶を交わしているとコンサートマスター(第一バイオリンの首席奏者)もやって来て、今日はよろしくと気さくに話しかけてくれた。どことなくコンマスの雰囲気が神崎に似ていて、梨乃の肩の力が若干抜けた。いろいろと雑談をしている内に開演十分前になったので、自分の控え室に戻りイメージトレーニングを始める。
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