それを人は愛と呼ぶ

菊池昭仁

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第2話

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 初めて千秋と出会ったのは正月明けの月曜日、深夜、午前1時を過ぎた頃だった。
 彼女はここから歩いて5分ほどのところにあるキャバクラ、『王様と私』のナンバーワン・キャバ嬢で、ウチの店の常連、シオンに連れられてここへやって来た時だった。
 その時の千秋はかなり酔っていた。

 「大湊さん、おはようございます。今夜は友だちの千秋を連れて来ました」
 「シオンちゃん、お帰りなさい」

 私はお客に「いらっしゃいませ」とは言わない。ここは面倒臭い人間関係という海から航海を終えて帰港してくる船乗りたちの母港だからだ。

 「ちょっとー、何よこの『港町食堂』って? 栃木県に海はないっつーの! あはははは」

 そう言って千秋はコートも脱がず、珍しそうに店内を見回していた。

 「千秋、いいから早くここに座りなさいよ」

 シオンはカウンターのいつもの定位置に、千秋と一緒に並んで腰を降ろした。

 「とりあえず生!」
 「千秋、ここは瓶ビールだけなのよ」
 「どうして?」
 「さあ? 知らないけど生ビールはないの」
 「じゃあ瓶でいいよ」

 生ビールは置いていなかった。旨い生ビールを出すには毎日の徹底したビール・サーバーの洗浄や温度管理、グラスの冷蔵保管などに手間が掛かるのと、殆どが酔って店を訪れる客なので酒の注文は少なく、折角出しても残す客が多かったからだ。

 「大湊さん、ビールを1本下さい。それと餃子を2枚」
 「はい」
 「ねえ、メニューは?」
 「メニューはないの、壁に貼ってあるあの白木札にあるだけ。でもどれも絶品よ」
 「支那そば1,000円。ライスカレー1,000円。あとはチャーハンと餃子とビールがそれぞれ500円。これしかないの? だったら「ラーメンとカレーの店」にすればいいじゃん」 

 食材にこだわっているので当然原価は上がる。料金は少し高めだがお客は納得してくれていた。
 それに1,000円と500円なので、計算も簡単で釣銭を用意するのもラクだった。
 そして殆どの客は常連だった。

 「担々麺とかカツ丼や生姜焼き定食とかはないんだ?」
 「いいから食べてみなさいよ、大湊さんの作るお料理、絶対にハマるから」

 私はカウンターに座ったふたりに冷えた瓶ビールとグラスを置き、餃子の皮を作り始めた。

 「このお店の餃子って皮から作るの?」

 千秋は珍しそうに私の手元をじっと見ていた。

 「そうだよ、皮がモチモチっとしててとっても美味しいんだから」
 「餃子ってそうやって包むんだ? 凄い、中国の人みたい。初めて見た」

 シオンはグラスにビールを注ぎ、千秋にそれを渡すと自分のコップにもビールを注いで乾杯をした。

 「お疲れさまーっつ! 今日も私たち、よく頑張ったよね?」
 「あー疲れた~。今日は新年会からの流れが多かったから忙しかったもんねー」
 「特に千秋は人気があるから大変だったもんね?」
 「みんな私のカラダ目当てのスケベオヤジばっかりだよ。もううんざり。
 早く結婚してキャバ嬢なんて辞めたーい」

 千秋はそう言って、小さなコップのビールを一気に飲み干すと、すぐに自分のグラスにビールを注いだ。
 その時、千秋が酷く寂しそうな目をしていたのを私は見逃さなかった。

 「お待ちどう様」
 「わーっ、美味しそう! 羽根付き餃子だあ!」
 
 千秋が熱々の餃子を頬張ると、すぐにそれを冷えたビールで追い駆けた。

 「あちちちち はふはふ でもメチャンコ美味しいよ、この餃子! 今まで食べた餃子の中で一番おいしい!」
 「ねっ? 私が言った通りでしょ?」
 「うんうん、凄く美味しい!」

 私は千秋が少女のように喜んで、美味しそうに餃子を食べるのを見て、思わず口元が緩んでしまった。
 宇都宮は餃子の街として有名だが、殆どの店は野菜の割合が多い。
 だから安く提供出来るメリットもあるのだが、私が作る餃子は野菜4割に対して豚挽肉が6割。
 白菜を使う店もあるが、私は蒸したキャベツとニラ、エノキ茸を使い、そこにニンニクと生姜、胡麻油、山椒と塩コショウ、そこに出汁醤油を加えて十分に練りあげ、一晩冷蔵庫で寝かせて餡を作る。
 その餡に合う餃子の皮は中国人の点心師、周さんから教わったものだった。
 冷凍や作り置きはしない。皮がダレるからだ。

 「ラーメンも食べたい!」
 「私はライスカレーを下さい」

 シオンはライスカレーを、そして千秋は支那そばを注文してくれた。
 ウチのライスカレーはステンレス製の船形の容器にライスを盛り付け、カレールーはカレー専用容器に入れて出していた。
 付け合わせの福神漬けとラッキョウ、そしてピクルスはもちろん私の自家製で別皿で出し、好きなだけ掛けられるようにしてあり、『オタフクソース』も置いてあった。
 シオンはいつも通り、ソースを掛けてライスカレーを食べていた。

 「カレーにソースなんか掛けちゃうの?」
 「大湊さんのカレーにはこれが合うのよー」
 「ちょっと味見させて」
 「いいよ」

 シオンは千秋の前にカレー皿を置いた。
 
 「美味しい! 何、このカレー! ココイチよりも美味しいじゃん!」
 「ここはなんでも美味しいんだよ」

 私は千秋の前に支那そばを置いた。

 「なんだか日光のお婆ちゃんの近くの食堂のラーメンに似てる。
 ナルトがカワイイ」

 千秋は長い巻き髪をヘヤバンドで束ねると、一口、レンゲでスープを掬って慎重に口へと運んだ。
 彼女の顔が雲間から覗いた太陽のように輝いた。
 慌てて麺を手繰り寄せ、啜る千秋。

 「マスター! 明日からご飯は毎日ここで食べることにするからよろしくね!」

 私は久しぶりに声を出して笑った。

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