それを人は愛と呼ぶ

菊池昭仁

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第1話

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        それは親子ほども歳の離れた恋だった
        それを人は愛と呼んだ



 海のない宇都宮の街に正月の記憶は消え、JR宇都宮駅の西口を蛇行して流れる田川には、少しフライング気味の春の陽光が、川面を軽やかに照らしていた。
 春になると、この川岸のサクラが一斉に咲き乱れ、田川はその落ちた桜の花びらでピンク色に染まる。

 私は昼食を終え、夜の営業の仕込みをするために店に向かって自転車を漕いでいた。
 快晴の早春の空を春風が吹き抜けてゆく。

 私の店はオリオン通りのアーケードから北の小路に入った場所にあった。

 その『港町食堂』はひっそりと、そして誰に媚びるでもなく堂々と存在していた。
 
 築50年の木造店舗を改装し、大きな看板はなく、ただ「港町食堂」と白文字で抜かれた藍染めの暖簾のれんが出ているだけの大衆食堂。
 歓楽街にあるため、営業は夜の9時から朝の5時まで。雨の日と日曜日を休みにしていた。

 「晴耕雨読」

 雨の日は好きなバーボンを飲みながら、読書をすることにしていた。

 「雨の日など出歩くものではない」

 私はこの歳になるまでそう思って生きて来た。
 8年前に妻と離婚し、子供はいない。
 別に不自由はなく、私は独りで穏やかに暮らしていた。

 店はカウンターが10席と4人掛けのテーブル席が4つ。ハーフ・ティンバーの古民家風の内装にしていた。
 黒い柱と白い漆喰の壁。
 メニューは支那そばとライスカレー、餃子とチャーハンのみ。大衆食堂とは呼び難い店だった。

 私は以前、住宅会社を経営していたが、会社は専務の大河内おおこうちに譲り、神田、神保町にある人気ラーメン店とカレーの有名店で掛け持ちのアルバイトをして、5年前にこの店を地元にオープンした。

 だが私はそれらの店の味を盗もうとしたわけではない。私が欲しかったのは味ではなく、飲食店経営のノウハウだった。
 どちらの店も味については左程さほどではなく、あまり参考にはならなかった。
 それは味ではなく、行列を作るための店主の緻密な戦略があったのだ。

 ラーメン店の店主は開業当初、「限定感」を演出するために、折角作った10時間煮込んだスープを敢えて捨て、3カ月間は毎日50食でその日の営業を終えていた。
 その希少価値を求めてネットやテレビのグルメ番組などに紹介され、お客たちが勝手にその店の神秘性を語り始めた。

 あっという間にそのラーメン店は評判となり、店主は「優秀な経営者」として成功を収め、都内に次々と店舗を増やして、今やロールスロイスを3台所有するまでになっていた。
 効率的な店のオペレーションや食材の仕入れ、原価計算や人事管理はかなり勉強になった。

 以前からの人脈もあり、忙し過ぎず暇すぎず、私の店はそこそこ繁盛していた。
 1日の売り上げは5万円から7万円。バイトも雇わずの営業だったので、ひとりで食べて行くには十分な稼ぎになっていた。

 夜の9時からの営業のため、仕込みは昼の13時から始める。
 まずは支那そばのスープ作りからだ。
 スープの作り置きはしない。味が劣化するからだ。
 冷蔵や冷凍も試してみたが、どうしても雑味が気になった。

 スープは骨や肉、野菜、果物系のスープと、魚介系スープを別々に作るダブルスープ方式を採用し、お客に提供する直前に合わせて提供するスタイルにしていた。

 私はかなり多くの種類の食材を使う。
 基本は香味野菜と地鶏ベースだが、50リットルの寸胴に浄水したアルカリイオン水に酒と味醂を加え、セロリ、玉葱、青ネギを切らずに丸ごと寸胴に入れ、ニンニク、生姜、人参、リンゴとレモンは皮の付いたままふたつに割り、煮立って来たらそこへ会津地鶏を丸ごと1羽を入れ、豚足、モミジ(鳥足)、髄液が出るように肉屋に切断してもらった牛骨、そしてタコ糸で縛った鹿児島産の黒豚のバラ肉を入れて8時間じっくりと火に掛け、スープが沸騰しないように注意しながら灰汁あくを丁寧に取り、煮込んでゆく。
 煮込んで3時間過ぎたらチャーシュー用の肉だけを取り出し、生醤油で沸騰するまで煮込んだら粗熱を取って冷蔵庫で冷やして保存する。
 
 魚介系スープは利尻昆布、スルメ、干椎茸、乾燥させたホタテ貝柱、枕崎の鰹節の粗節と花かつお、ビンチョウマグロの鮪節と鯖節を入れる。
 煮干はアゴ(トビウオ)、アジ、鮎、カタクチイワシを使い、水に漬け込んでゆっくりと旨みを抽出してから火を入れる。そこから昆布だけを取り除く。

 30分ほど煮立たせたらムール貝を入れて更に30分。今度は弱火で煮込む。
 醤油ラーメンを作る上で最も重要なのが「かえし」だ。
 醤油ダレがいちばん難しい。
 私は銚子の醤油蔵をすべて回り、異なる性質の二種類の醤油を選び、それにいくつかの食材を加え、煮切りの酒と味醂で味を整える。
 
 メンマも自家製で太い物を使う。
 ネギで味がかなり変わるため、長ネギと九条ネギをバランスよく入れた。
 ホウレン草とナルトで庶民性を演出し、後は寿司海苔を二枚、ラーメンどんぶりの縁に添え、半熟の煮卵を切らずに丸ごと入れて完成となる。

 だが未だに悩むのが麺である。
 このスープに見合う麺はストレートの多かん水の細麺だが、コシや歯ざわりや喉越し、味、小麦の香りなどを考えると、まだまだ改善の余地はあった。

 支那そばの仕込みをしながらカレーを仕込むのだが、カレー作りは一週間の工程になるのでその日によって作業は異なる。
 作るのは牛テール・カレーのみ。

 カレーは作ってから途中で何回か火を入れて一週間寝かせるため、牛テールはその日に使う分だけを丹念に茹で、その茹汁はカレーの出汁として使う。
 肉はその日に提供する分しか入れない。寝かせると肉の臭みが出るからだ。
 カレーはスパイスを食べる物だ。シード系は極力自分で挽くようにし、リーフ系はその入れ時と引き上げるタイミングに気を付けた。

 そこに摺り下ろしたリンゴと蜂蜜、マンゴーネクターとココナッツミルクを加え、隠し味にチョコと醤油を入れる。

 メニューをカレーライスとはせず、「ライスカレー」にしたのは、自分が育った田舎ではカレーのことを「ライスカレー」と呼んでいたからだ。

 仕込みが終わっても火を使っているので、調理場を離れる訳には行かない。
 私はキャンプ用の折りたたみ椅子を寸胴の前に置き、火加減を調整して何度も灰汁を掬い、味を確認しながらラジオを聴いていた。
 

     好きなことをして生きる


 私の日常は充実していた。

 17才も歳の離れたナンバーワン・キャバ嬢、千秋と出会うまでは。

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