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第30話
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座学と実習で毎日がヘトヘトだった。それに航海当直実習もしなければならない。
船の世界も医者と同じように「術」をよく使う。歴史と伝統のある技術だからである。
航海術、運用術、操船術などがそれだ。
海技士の国家試験は記述論文形式で、それに合格すると口述試験がある。航海術、運用術、航海法規、航海英語の四科目。ちなみに英語は辞書の持ち込みが許可されるほど難しい。英訳問題がたったの二問。それに1時間半。
それぞれの科目は2から4問ほどで2,3時間を要する物だ。ゆえに一級、二級海技士なると合格率は極めて低くなる。
日本はSOLAS条約に批准しているので、その免状があれば世界中の船の船長や航海士が出来る。
50万トンの超大型タンカーはもちろん、豪華客船の運行も可能なのだ。
扱う金額も桁外れであり、失敗の許されない、責任の重い仕事である。
そして船長の権限は絶対である。
教官たちは商船大学のスーパーエリートたちだった。教え方が極めて上手い。
特に航海当直実習は過酷だった。4時間の当直時におけるすべてを暗記して次の当直実習生に引き継がなければならない。
それぞれに航海士役、操舵手役などに扮してこれを行う。
「南南西の風、風力3から南西の風、風力4に変化。海水温度、ポツ0.2℃上りの18.6℃・・・」
「違う! ポツ上0.3℃あがりのだ! やり直し!」
こんな調子で気象状況、周囲の状況、計器、エンジンの状況等をすべての項目を暗記する。しかも夜間はチャートルームの僅かな明かりの中でこれらをすべて暗記しなければならない。
私はこれが苦手だった。
初めてLog bookの記載をさせられた。いわゆる航海日誌である。
当直航海士官はこれに自分が担当した当直内容を英語で記載する。これは事故が起きた時などの重要証拠になるのでカルテと同様、消すことが出来ないようにペンで書いて最後に英語で自分のサインをする。
「菊池、「大きな波がデッキに上がり、本船は激しく揺れた」。何だこれは? お前の英語は中学生レベルか? やり直し」
次席一等航海士から書き直しを命じられ、二重線を引いて直した。
昼食を摂り、午後からの科業にキャビンからデッキに出る時、一番最後だった次席三等航海士に捕まった。
「いいか菊池、ギャレーから火災が発生したと大声で走ってみんなに知らせろ。
いいか? 大声でだぞ」
「何でですか?」
「いいから黙ってやれ」
仕方なく私は大声でみんなが既にならんでいる後部甲板へと、「火事だー! 火事だー!」と叫びながら全力で走った。
すると首席一等航海士が、
「火事だと! 菊池、どこが火事だ!」
「はい! ギャレーから出火している模様です!」
「よし、これより直ちに消火作業に移る! 準備されたし!」
船火事は恐ろしい。何しろ塗料が戦隊に塗ってあるのでまるで鉄板焼の状態になってしまうからだ。
周囲を海に囲まれているのに皮肉な話である。
船内には防火服などあらゆる防火、消火備品や設備が備わっている。私たちはそれぞれの持場に付かせられた。
それは「Fire Station Drill」と言って、一ヶ月に一度ほど実施される消火訓練だった。
その他に浸水訓練、救命艇訓練などが一週間に一度、実施される。
気を抜くと怪我や死亡事故につながる訓練だった。
訓練の後、みんなから言われた。
「ワシはブチ本物の火事や思うたでえ。菊池、お前役者やのう」
広島商船高専の奴らが笑っていた。
そんな毎日だったが、当直後はよくみんなで毎晩酒を飲んだ。
大分出身の広島商船高専の奴から初めて、『さつま白波』を飲ませてもらった。
「やっぱり酒はこれじゃ菊池、どうじゃ、旨いじゃろう?」
芋の香りがした。意外にイケる。
歌ったり踊ったり、彼女や地元の話で盛り上がる毎日だった。
日本沿岸を航海する時は、訓練以外は帆走はしない。操船の問題やスケジュールがあるのでエンジンを使っての航海となる。
ようやく神戸港への入港準備を終え、次席二等航海士からの訓示があった。
テノールボイスの映画俳優みたいな教官だった。
「いいか諸君。神戸は日本で一番美しい港町である。
女も美しい。横浜や東京の女とは違い、服のセンスも良く、エレガントである。
お前たちはモテるかもしれん、だが勘違いをするな。モテるのはお前らではなく、この日本丸であることを忘れるな。以上」
神戸では一般公開が行われ、沢山の人たちに船内を案内した。
セールドリルと言って実習生がマストに登り、セールを広げた。観客から歓声があがり、ビデオやカメラを向ける人も多かった。
17時に一般公開を終え、街に買物に出掛けて帰って来た私は、舷門当直の実習生に呼び止められた。
「菊池、この人たちが船内を見学したいそうなんだが案内してやってくれんか?」
「いいよ」
ひとりはまさに次席が言っていたような女優、松下奈緒みたいな神戸美人、そしてもうひとりはフツーのポッチャリ女性だった。ふたりとも同じ中学校の先生だという。
一通り船内を案内して、船首に辿り着いた時、私は女優の方をナンパした。
「どうです? この後食事でも?」
「いいですよ、それじゃあ私たちクルマで来たので三宮まで一緒に行きましょうか?」
ポッチャリさんがそう言った。松下奈緒さんは静かに笑っていた。
(俺はこっちの奈緒ちゃんだけでいいんだけどなあ)
そして仕方なく、私はもうひとりダチを呼んで合コンをすることにした。
私はその美女とかなりいい雰囲気になり、
「明日、長崎に出港なんです。また神戸に戻って来ますので、その時もまた会えませんか?」
「いいですよ」
そして彼女のアドレスを教えてもらい、長崎から速達を出した。
次の神戸が楽しみだった。
船の世界も医者と同じように「術」をよく使う。歴史と伝統のある技術だからである。
航海術、運用術、操船術などがそれだ。
海技士の国家試験は記述論文形式で、それに合格すると口述試験がある。航海術、運用術、航海法規、航海英語の四科目。ちなみに英語は辞書の持ち込みが許可されるほど難しい。英訳問題がたったの二問。それに1時間半。
それぞれの科目は2から4問ほどで2,3時間を要する物だ。ゆえに一級、二級海技士なると合格率は極めて低くなる。
日本はSOLAS条約に批准しているので、その免状があれば世界中の船の船長や航海士が出来る。
50万トンの超大型タンカーはもちろん、豪華客船の運行も可能なのだ。
扱う金額も桁外れであり、失敗の許されない、責任の重い仕事である。
そして船長の権限は絶対である。
教官たちは商船大学のスーパーエリートたちだった。教え方が極めて上手い。
特に航海当直実習は過酷だった。4時間の当直時におけるすべてを暗記して次の当直実習生に引き継がなければならない。
それぞれに航海士役、操舵手役などに扮してこれを行う。
「南南西の風、風力3から南西の風、風力4に変化。海水温度、ポツ0.2℃上りの18.6℃・・・」
「違う! ポツ上0.3℃あがりのだ! やり直し!」
こんな調子で気象状況、周囲の状況、計器、エンジンの状況等をすべての項目を暗記する。しかも夜間はチャートルームの僅かな明かりの中でこれらをすべて暗記しなければならない。
私はこれが苦手だった。
初めてLog bookの記載をさせられた。いわゆる航海日誌である。
当直航海士官はこれに自分が担当した当直内容を英語で記載する。これは事故が起きた時などの重要証拠になるのでカルテと同様、消すことが出来ないようにペンで書いて最後に英語で自分のサインをする。
「菊池、「大きな波がデッキに上がり、本船は激しく揺れた」。何だこれは? お前の英語は中学生レベルか? やり直し」
次席一等航海士から書き直しを命じられ、二重線を引いて直した。
昼食を摂り、午後からの科業にキャビンからデッキに出る時、一番最後だった次席三等航海士に捕まった。
「いいか菊池、ギャレーから火災が発生したと大声で走ってみんなに知らせろ。
いいか? 大声でだぞ」
「何でですか?」
「いいから黙ってやれ」
仕方なく私は大声でみんなが既にならんでいる後部甲板へと、「火事だー! 火事だー!」と叫びながら全力で走った。
すると首席一等航海士が、
「火事だと! 菊池、どこが火事だ!」
「はい! ギャレーから出火している模様です!」
「よし、これより直ちに消火作業に移る! 準備されたし!」
船火事は恐ろしい。何しろ塗料が戦隊に塗ってあるのでまるで鉄板焼の状態になってしまうからだ。
周囲を海に囲まれているのに皮肉な話である。
船内には防火服などあらゆる防火、消火備品や設備が備わっている。私たちはそれぞれの持場に付かせられた。
それは「Fire Station Drill」と言って、一ヶ月に一度ほど実施される消火訓練だった。
その他に浸水訓練、救命艇訓練などが一週間に一度、実施される。
気を抜くと怪我や死亡事故につながる訓練だった。
訓練の後、みんなから言われた。
「ワシはブチ本物の火事や思うたでえ。菊池、お前役者やのう」
広島商船高専の奴らが笑っていた。
そんな毎日だったが、当直後はよくみんなで毎晩酒を飲んだ。
大分出身の広島商船高専の奴から初めて、『さつま白波』を飲ませてもらった。
「やっぱり酒はこれじゃ菊池、どうじゃ、旨いじゃろう?」
芋の香りがした。意外にイケる。
歌ったり踊ったり、彼女や地元の話で盛り上がる毎日だった。
日本沿岸を航海する時は、訓練以外は帆走はしない。操船の問題やスケジュールがあるのでエンジンを使っての航海となる。
ようやく神戸港への入港準備を終え、次席二等航海士からの訓示があった。
テノールボイスの映画俳優みたいな教官だった。
「いいか諸君。神戸は日本で一番美しい港町である。
女も美しい。横浜や東京の女とは違い、服のセンスも良く、エレガントである。
お前たちはモテるかもしれん、だが勘違いをするな。モテるのはお前らではなく、この日本丸であることを忘れるな。以上」
神戸では一般公開が行われ、沢山の人たちに船内を案内した。
セールドリルと言って実習生がマストに登り、セールを広げた。観客から歓声があがり、ビデオやカメラを向ける人も多かった。
17時に一般公開を終え、街に買物に出掛けて帰って来た私は、舷門当直の実習生に呼び止められた。
「菊池、この人たちが船内を見学したいそうなんだが案内してやってくれんか?」
「いいよ」
ひとりはまさに次席が言っていたような女優、松下奈緒みたいな神戸美人、そしてもうひとりはフツーのポッチャリ女性だった。ふたりとも同じ中学校の先生だという。
一通り船内を案内して、船首に辿り着いた時、私は女優の方をナンパした。
「どうです? この後食事でも?」
「いいですよ、それじゃあ私たちクルマで来たので三宮まで一緒に行きましょうか?」
ポッチャリさんがそう言った。松下奈緒さんは静かに笑っていた。
(俺はこっちの奈緒ちゃんだけでいいんだけどなあ)
そして仕方なく、私はもうひとりダチを呼んで合コンをすることにした。
私はその美女とかなりいい雰囲気になり、
「明日、長崎に出港なんです。また神戸に戻って来ますので、その時もまた会えませんか?」
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そして彼女のアドレスを教えてもらい、長崎から速達を出した。
次の神戸が楽しみだった。
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