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6.捨てられない、母親の私
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しおりを挟む『ずっと咳が止まらないの。ご飯も食べられないし、寝てなくて、すごく……苦しそう』
「ずっと……って、お父さんは? 新しいお母さんは!?」
湊は喘息を患っている。
小学生になってだいぶん症状が軽くなってきたが、毎日の薬と発作が起きた時の吸入器は手放せないし、毎日の掃除と二、三日おきの布団乾燥機は必須だ。
スマホを耳に押し当てると、確かに咳が聞こえる。
「梨々花。吸入器は?」
『もうない』
「ないって――」
『――助けて、ママ!』
考えるより先に身体が動いた。
部屋の隅に置かれたボストンバッグの中から真っ白な封筒を取り出し、肩にかけたバッグに押し込む。
スマホを耳に当てたまま部屋を飛び出すと、居間でプロ野球を見ている両親に「東京に行ってくる!」と告げた。
「はぁ!? ちょっと、千恵――」
「――後で電話するから!」
説明している時間も惜しい。
私は玄関に用意してあってパンプスに足を入れる。
ベージュにボルドーのバックルが付いたパンプスも、お気に入りだが何度も履く機会がなかったもの。
ドアに手をかけた時、シャランッと金属音がした。
足元に落ちたイヤリングが、きらりと光る。
軽くなった耳から、娘のすすり泣きと息子の咳き込む音が聞こえる。
私は、もう片方のイヤリングを外して、放った。
「梨々! 今行くからね」
家を飛び出した私は、全速で駅を目指した。
「お姉ちゃん、湊はどこにいるの? 自分の部屋!?」
『うん』
「じゃあね、お姉ちゃんはお風呂にお湯を溜めて?」
『ママッ』
「梨々――梨々花。大丈夫。大丈夫だから、スマホを湊に渡して、梨々はお風呂に熱いお湯を溜めて。お風呂の蓋もドアも開けっ放しにしてね」
『でも――』
「――お願い。大丈夫だから」
『うん』
私も夢中だった。
梨々花がお湯を溜めている間、湊にゆっくり鼻呼吸するように言い聞かせ、浴室に行くように促した。
駅前で停車しているタクシーに乗り込み、高速を使って新千歳空港まで行ってほしいと伝えた。
地下鉄で札駅まで出て快速電車に乗った方が早いと思うが、電話を切らなければならない。
一秒でも早く空港に行き、一便でも早い飛行機に乗るべきだが、今の子供たちにとってこの電話が拠り所なのだと思うと、それはできなかった。
とはいえ、私が到着するまでの何時間もこのままではまずい。
飛行機に乗ってしまえば、どうしたって電話は切らなければならない。
私は子供たちをなだめ、すぐにかけなおすからと電話を切った。
選択肢は三つ。
どこで何をしているかわからない、子供たちの父親。
離婚の時に唯一常識的な考えで私に謝ってくれた、元義母。
そして、一一九番。
父親はかけても出る可能性が低いし、そもそもかけたくない。
義母の家はマンションから車で三十分ほどの場所にあり、最後に会った時も子供たちのことを案じていた。
湊の身体を思うと救急車を呼ぶのが最適なようだが、子供たちだけの家に入って、保護者の許可なく病院に運んでくれるのだろうか。
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