16年目のKiss

深冬 芽以

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1.夢に見る、会いたくなかった男

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 結果的に大学院には行かなかったが、就活に苦戦して実家に帰ったなんて真っ赤な大嘘だ。

 それだけじゃない。

 卒業式の三日前、いつもより少し強引に、かなり激しく私を抱いた後で、匡は言った。

『俺、実家帰るから』

 整わない呼吸が一瞬止まる。

『兄貴がさ? 実家継ぎたくないって言い出して』

『だからって、今すぐ?』

『継ぐなら、大学院に行く必要ないし』

 狭いベッドの上で、匡は仰向けで頭の下で手を組み、天井を見ながら言った。

『一緒に来るか?』

 何の熱も感じない問いに、私も反射的に答えた。

『バカにしないで』

 匡は私を見ない。

『なんで? 未来の社長夫人だぞ?』

 だから、私も彼から顔を背けた。というか、背を向けた。

『興味ないわ』



 あの時、匡はどんな表情かおをしてた……?



 十六年も前のことだ。

 今更だ。

 匡の言葉の何が嘘で何が本当か、わかったところで今更だ。

 社長夫人に興味がないと言った私は、その三年後にちゃっかり社長夫人となった。

 それを、匡が知っているかはわからない。

 きっと、知っているだろう。

 だからどうということはない。

 今更だ。

「千恵?」

 ぼうっとしたいたせいで、名前を呼ばれて思わず顔を上げてしまった。

 思いっきり、匡と視線が絡む。

「熱、ある?」

 夢の中で聞いた台詞。

 夢と現実、過去と現在が交差する。

 夢の中で、私は『ある、かも』と答えた。

 過去の私も、そう。

 けれど、私は夢の中の私とも過去の私とも違う。

 もう、違う。

 だから、私は言った。

「ないわ」

 匡がどんなつもりで聞いたかなんて、わからない。

 だから、どうして少し寂しそうに笑ったのかも、わからない。

 わかりたくない。

 わかるのが怖い。

「嘘つきだな、俺たち」

 匡が、言った。

 口元は笑っているのに、目が笑っていない。

 会いたくなかった。

 匡の嘘も、本当も、知りたくなかった。

 それ以上に、知られたくなかった。



 私の嘘と本当を、知られたくなかった。



『一緒に来るか?』

 十六年前。

 匡は最後まで『一緒に来てほしい』とは言わなかった。

『行かない』

 私は、何度目かもそう答えた。

『お前には、俺じゃなきゃダメだろう?』

 最後の時、匡が言った。

 朝ご飯の後で歯を磨いた匡が、使った歯ブラシをゴミ箱に捨てた。それを見た時、残された私の歯ブラシを見た時、身体の半分を失ったような、多分、そんな気持ちになった。

 それでも、私は、笑った。

 笑って、言った。

『バカにしないで。あんたじゃなくても幸せになれるわ』

 私は嘘なんて言ってない。

 私は、匡とは違う。

 だから、そう言った。

 何でもないようなことのように。

「私は、嘘つきじゃない――」

 自分のその声が、やけに嘘っぽく聞こえた。

 私は中身が半分残ったジョッキを、一気に空にした。

「そうだな。千恵は、嘘つきじゃない」

 匡が私の手からジョッキを抜き取り、「お代わり注文する人!」とみんなに聞いた。

 真奈美がタブレットで、みんなの飲み物を注文する。

 何杯飲んだかわからない。

 トイレに行こうと立ち上がって、ふらつくくらいは飲んだ。

 力強い手に支えられてトイレに行き、席に戻った。戻ろうとした。

「千恵は、素直じゃないだけだよな」

 瞼の重みに耐えかねて、目を閉じるとともに、聞こえた気がした。

 夢にまで見た、匡の声。



 あ、夢か。



 目が覚めたらまた病院のベッドかもしれないな、なんて思いながら、私は意識を手放した。

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