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2  ヘンリー

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 「ミア!」

 突然、大声が響いた。はっとして振り返ると、ヘンリーがいた。

「……ヘンリー」

 ヘンリーは糸で引かれるように、早足でこちらに向かってきた。

「どうしたの?」

 ヘンリーは唇を震わせた。黙ってミアの前に立ち、親指をぐっと握ったこぶしの中に隠す。

 これは、ヘンリーの癖だった。緊張している時は幼い頃からこうしていた。
 ティナが知らない、ミアだけが知る彼の癖だ。

「ティナの所に行かなくていいの?」

 嫌らしく聞こえないように、努めて明るく言う。
 ヘンリーはもどかしそうに口を開いた。声はかすかに震えている。

「ミア、僕は」

 ミアは黙って続きを待った。彼の薄い色の瞳がまっすぐにこちらを見つめた。言葉を探しながら、ヘンリーは言った。

「ミア、急にごめん。本当にごめん。なんていえばいいかわからないけど、ミアを傷付けたことは分かる」

 言葉が思うように出てこないもどかしさからか、彼の顔はかすかに歪んでいる。
 いたたまれなくて、ミアは小さく手を挙げた。

「もうわかったわ。ヘンリー。あなたのことは怒ってない」

 ヘンリーはゆっくりと顔を上げた。

「どうせ、お父さまの命令でしょう? なら、あなたが断らなくて正解だったじゃない」

 彼の瞳が揺れた。ミアは苦笑して微笑んでみせた。

「お父さまに歯向かっていたら、ただじゃすまなかったわよ。ヘンリーに迷惑が掛からなくてよかったわ」

 そう言ったとたん、彼の顔が、泣きだす寸前のようにゆがんだ。
 細い喉がゆっくりと上下し、唇が動く。

(ああ、駄目だ)

 泣いてしまいそうだ。

 鼻の奥が痛み、熱い塊が押し寄せる。
 喉に何かがつかえてしまったようで、言葉が出なかった。それでも、涙だけはみせまい、と歯を食いしばる。

「ミア、僕、本当に心から君のことが」

「二人でどうしたのかしら」

 とがった声がこだました。ヘンリーがはっとして口をつぐむ。彼の泣きそうな顔に、一瞬罪悪の色がよぎったのをミアは見逃さなかった。
 ゆっくりと首を回し、妹を見る。

 大きな窓から差し込む光が、ティナの髪を金色に輝かせている。

 こつ、とヒールの音を響かせて、ティナが近づいてくる。

 華やかなドレスに散りばめられた宝石の数々が、光り輝く瞳が、整った顔立ちが、重く強くミアを圧倒する。彼女の小さな唇が動いて、鈴の音のような澄んだ声が響く。

「探したんだから、ヘンリー」

 ヘンリーの腕を取り、花の蜜のような笑顔をむけたあと、ミアに氷のような視線を突き刺す。

「お姉さまと何を話していたの、ヘンリー?」

 唇は柔らかな曲線を描いているが、目は笑っていない。

 ヘンリーと一瞬目が合った。
 親指をこぶしの中に入れ、彼はぽつりと吐き出した。

「なんでも、ない」

 ティナは満足そうに微笑み、くるりと身を翻す。ついでに、ミアに嘲笑を投げることは忘れなかった。
 どんどん遠ざかっていく二人を見ながら、唇をかみしめた。

 彼は、優しすぎる。
 
 さっき、彼が何か意見すれば、ミアかティナ、どちらかが傷ついていた。
 それを、彼はわかっている。

 歩く足を早める。

(絶対、泣かない)

 そう思っても、震える手は止まらない。

(―泣いちゃ、だめ)

 自分の部屋に飛び込む。ドアを閉め、硬く鍵をかけた。そのまま、ドアに沿ってずるずると崩れ落ちる。

 もう、限界だ。

 うう、と喉から細い声が漏れる。
 ぽたり、と大きな雫が零れ、膝に落ちた。

 とまらなかった。
 とめられない。

 次から次へと頬を濡らす雫は、意外なほどに熱かった。
 このまま子供のように泣きわめけたら、どれほど楽だろう。
 けれど、そうすることは自尊心が許さなかった。

 ああ、と今更ながら悟る。
 失ってから大切さに気付く、とはこのことか。

 彼のことがこんなにも好きだったなんて。
 でも、もう戻ってこない。
 握りしめたはずの幸せは、いつのまにか指の間から零れ落ち、あとかたもなくなくなっていた。

「……なんて、あっけないの」

 呟いた声は、乾いた床に落ちた。

 茜色の陽が、斜めに頬を照らしている。
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