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竜の恩讐編

伯爵の血を継ぐ者 その5

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「何? これ」
 ルーシーが上空そらを見上げた時、そこには巨大な黒雲がわだかまっていた。
 天逐山てんぢくざんを登る際、小雨が降っていたので、多少の雨雲があっても不思議ではない。
 しかし今、マスクマンとルーシーの真上にある雲は、すぐにでも稲妻を放ちそうなほどの凶暴さを感じさせる。
 そして、それはただ蟠っているのではなく、映像を倍速再生するように急激にうずを巻き始めていた。
「SΛ1→DW(もうすぐ、『あいつ』が降りてくるぞ)」
「一体なにする気!?」
「DΩ3←。KΔ4→(とびきりヤバい風を呼んだ。『あいつ』ならお前を殺せる)」
「!?」
 黒雲の中心に渦が形成されるにつれ、マスクマンたちの周囲の空気も確実に変わりつつあった。
 マスクマンが霧の発生をうながすために呼んだ、小雨を降らせる程度の雨雲は、いまや強大な積乱雲へと変化していた。
 その中の上昇気流を中心に形作られる渦が、全てをぎ払う暴風へと変わろうとしている。
 発達した積乱雲によって生まれる渦流風メソサイクロンが、マスクマンとルーシー、その周辺をも巻き込んだ狭域きょういき竜巻トルネードを呼ぼうとしていた。
「ぐっ―――っ!?」
 急いでマスクマンから離れようとしたルーシーだったが、それができないことを思い出し、寸でのところで足を止めた。
 ルーシーの心臓は今、マスクマンにしっかりと鷲掴わしづかみにされてしまっていたからだ。
 心臓を幾度となく貫かれたことはあれど、心臓を丸ごとえぐり取られたことなど、ルーシーはいまだかつて経験したことはない。
 最大致死率が脊髄せきずいに寄っているとしても、心臓そのものを失っても存命できるかは試したことがない。
 ここで踏み切るには危険度リスクが大き過ぎる。
 かといってこのままの状態では、上空から竜巻が降りてくる。
 竜巻は周囲のあらゆる物体もろともルーシーたちをさらい、逆巻く風が自然の回転刃ミキサーとなってばらばらに切り刻むだろう。
 そうなれば、どこが弱点でも関係ない。
 全てが細切こまぎれにされてしまうのだから。
 その上、回転する風は刻んだ肉体をあらゆる方向にき散らす。
 弱点を破砕され、さらに無軌道ランダムにばら撒かれたのでは、吸血鬼とて再生できる保証がない。
 たとえ、不死性の底上げがかなったルーシーであっても。
「…………………………降参」
「?」
「降参するから、竜巻あれを止めて」
「LΦ8↓SΘ(それはもう結城ゆうきの命を狙わないということか?)」
「そうよ! だから早く止めて!」
 ルーシーの降伏を受け入れたマスクマンは、開かれていた単眼をゆっくり閉じた。
 同時に、荒れ狂っていた風も落ちついていった。
(ごめん、千春ちはるわたしはここでリタイヤ。あとはあなたと千秋ちあきに任せるわ)
 風が完全に静まると、マスクマンはようやくルーシーの心臓を離した。
「―――とっ、とっとっと」
 よろけるように数歩あとずさったルーシーは、手斧で斬られた傷を回復すると、再びマスクマンに向き直った。
「あなた、名前は?」
「……☆Ξ1IΩΛ」
「え!? 何?」
「Hξ1↑MS(聞き取れなかったならマスクマンでいい)」
「そ、そう。わたしはルーシー・ウェステンラ」
「……Yπ(……そうか)」
 ルーシーの名前を聞くと、マスクマンはゆっくり歩いて手斧とブーメランの回収に向かった。
 そしてルーシーは、その様子を珍しいものを見るような目で追った。
(こんなとんでもないのを相手取ることになったのって、百年ほど前のロンドン以来かもしれないわね)
 かつて英国をおさめる最も高貴な淑女レディから、ロンドンを騒がす連続殺人鬼の正体を暴いてほしいと依頼を受けた時のことを、ルーシーはしみじみと思い出していた。
 千春と出会う前までは、ルーシーにとってそれが最大の難敵であり、最大の難事件だった。
(今回の依頼しごと、どうなると思う? 千春)
 今も山頂を目指しているであろう盟友に、ルーシーは心の中で問いかけた。
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