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化生の群編

森林地帯の秘密

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 一懇楼いっこんろうに戻った結城ゆうき媛寿えんじゅは、早々に温泉で埃を落とし、そのまま夕食も済ませて一休みしていた。
「はっひゅ~」
 座椅子に座った結城を座椅子代わりにし、媛寿は結城にお腹を撫でられて気持ち良さそうに息を吐いた。今日はいつもより能力を使ったからと多めに夕食を摂ったので、ポッコリ膨れたお腹を擦るよう結城に言ってきたのだ。結城も媛寿がいてくれたおかげで事なきを得たので、要望には快く応えていた。
「ではユウキ、その村長は一命を取り留めたのですね?」
 フォークに載せたチーズムースケーキを口に運びつつ、アテナは結城に事の経緯を聞いていた。
「はい。でも意識不明の状態で、お医者さんもいつ目覚めるか分からないそうです。肝心なことは何も聞けずじまいになっちゃいました」
「人死にが出なかっただけでも僥倖です。よくぞ救いましたよ、ユウキ」
「いえ、媛寿がいろいろ用意してくれてたおかげですよ」
「えんじゅもがんばったー」
 結城にもたれかかりながら、媛寿は両手をいっぱいに伸ばして嬉しさを表現した。
 友宮ともみや邸での一件で結城が予想以上の大怪我を負ったので、媛寿は今後のことを考慮して救急セットやAEDを購入し、事態に備えて携行していた。今回は結城に使うことはなかったが、結果として村長の救命に繋がったのは確かな幸運だった。
「でも謎は深まりました。マスクマンが戦ったっていう怪物のほかに別の怪物も出てくるし……」
「その別の怪物というものはオニだったのですか?」
「全然そんなんじゃなかったです。本当に『培養ハザード』に出てきそうな感じの恐いやつでした。角もなかったから、あれは鬼じゃないです」
「フ~ム……」
 口に運んだフォークを咥えたまま、アテナは目を細めて思案し始めた。結城も倣って考えをまとめようとする。だが、螺久道村らくどうむらにおけるここまでの出来事は、まるでピースが足りないパズルのようなものだった。謎の手紙に端を発した螺久道村での事件に、結城はまだ何の糸口も見出せないでいる。糸口が見えそうになったと思ったら逃げられているような感覚だ。
 もっとも目を引くのは、謎の怪物たちの出現だ。しかし、それが螺久道村において何かが起こっていると示唆していても、手紙の内容とはまるで合致しない。結城も目の当たりにした怪物たちは、どう見ても『鬼』とは呼べない。ならば、他に『鬼』と言える存在が潜んでいるのかもしれないが、それを裏付ける根拠も手がかりも皆無だった。
「ゆうきゆうき」
 不意に体を揺さぶられ、結城は媛寿に目を落とした。
「て、とまってる」
「あっ、ごめんごめん」
 媛寿に催促され、結城はまた手を動かして媛寿のお腹を撫でる。考え事に集中して手が止まっていたらしい。
「はひゅ~」
 結城の手がよほど心地よいのか、媛寿は相貌を蕩けさせて脱力している。それを見ながら、結城は今はこれ以上考えても仕方ないと思った。答えを出すためのピースは、圧倒的に不足している。
「ところでアテナ様、森の方は何かありましたか?」
 村長宅での出来事をあらかた話し終えた結城は、アテナたちの方で収穫がなかったか訊ねた。
「ありました。ただし、まだ見つけていません」
「? どういう意味ですか、それ?」
「私たちでは破ることができなかったのです」
 アテナは目を鋭く細め、最後のチーズムースケーキの欠片を口に運んだ。
 結城と媛寿が村長宅に潜入している間、アテナ、マスクマン、シロガネの三名は森林地帯の調査を行っていた。件の殺人事件が発生し、斑模様の怪物が襲撃してきた場所であるならば、事件の核心に繋がるものがあるかもしれないと考えたからだ。
 何より、媛寿やアテナをはじめとした神霊たちは、当初から森に異質な気配を感じていた。その正体を見極めるべく、完全武装した上で、森林地帯をくまなく捜索してきていた。
「これがあの森の全体図です」
 チーズムースケーキを食べ終えたアテナは、折り曲げたA4サイズの紙を取り出し、座卓の上に広げた。紙面には森林地帯を記した地図がプリントされていた。
「おそらく……」
 アテナはさらに赤のサインペンを取り出し、
「この辺りです」
 地図の一角、森林地帯の最奥部を赤い丸で囲った。
「……何もありませんよ?」
 結城は首を傾げた。アテナが赤丸で示した場所は、木々が生い茂っているだけで何もなかったからだ。
「TΠ1↓AE(そのエリアに差し掛かると感覚が狂わされて、気が付けば明後日の方向に歩いてるんだよ)」
「えっ!?」
 地図を覗いてきたマスクマンの言葉に、結城は目を丸くした。
「マスクマン、例の物はプリンアウトしてきたのですか?」
「YΣ4↑CC(ああ。一懇楼の事務所でパソコンを借りた。やっぱり写ってやがった)」
 マグカップのココナッツミルク(パインジュース割り)を飲みながら、マスクマンはアテナにA4のコピー用紙を一枚渡した。
「……ユウキ」
 アテナはマスクマンから受け取った用紙に目を通すと、それを結城に見るよう促してきた。
「っ!?」
 結城は驚いて息を詰まらせた。印刷されていたのはカラーの航空写真であり、先程アテナが出した地図と範囲も縮尺も同じだったが、明らかに違っている部分があった。ちょうどアテナが赤丸で囲った部分、その場所だけは開けた空間になっており、中央に建物らしき屋根も見えていた。
「えっ、これって……」
「たぶん、結界」
 食後の昆布茶を淹れてきたシロガネが、湯呑みを結城の傍らに置きつつ言った。
「結界!? 友宮さんの時みたいな?」
「トモミヤの時とはタイプが違うようです。あれは一切の侵入を阻むものでしたが、これは侵入者を惑わすことで遠ざけるものですね」
 アテナはそこまで言って小さく息を吐き、座卓に軽く頬杖をついて黙ってしまった。はっきり口に出してはいないが、現状では有効な打開策がないということらしい。
 直接的な戦闘能力で敵う者は滅多にいないが、アテナは何かしらの『術』を打破するのは得意ではない。『術』というものは爆弾解体や化学実験と同じく、手順や条件が重要になってくるため、単に力技で押し通ればいいというわけでもない。加えて神話時代ならいざしらず、力が大幅に落ちてしまった現代では無理からぬことだった。
 マスクマンやシロガネにしても、術を解くのが得意というわけではないので、結界の突破は難しい課題だ。空いた手で昆布茶を飲みながら、結城も考えを巡らせる。
「……ねぇ媛寿、友宮さんのとタイプが違うなら通り抜けられない?」
「けっかいはむり~」
「無理か~」
「『しーあいえー』と『ぺんたごん』ならはいれる~」
「それは……ちょっと」
 媛寿と問答しながら、結城は初めて逢った時のことを思い出していた。たまたま駄菓子メーカーの企業ロゴが封印の力を持ってしまっていたために、媛寿は段ボール箱から抜け出せなくなり、箱の購入者である結城の元に来たことを。座敷童子ざしきわらしは家々には気付かれずに入ることはできても、結界や封印の類は破れないらしい。
「う~ん、その結界の中を調べることができたら何か分かるのかな~」
 まだ謎が一つも解けていないまま、新たに出現した謎に、結城は眉根を寄せて唸った。
「今すぐには目処は立ちません。結界をどうするかはまた考えておきましょう。ユウキ、あなたもお休みなさい。今日は疲れているでしょう」
「ありがとうございます、アテナ様。今日はいろいろあったからもう休みた―――」
「ゆうきゆうき」
「ん?」
 浴衣の襟をくいくいと引っ張られ、結城は媛寿に視線を落とした。
「もっかいおんせん」
「えっ? もう一回行くの? 明日じゃダメ?」
「ぷ~。えんじゅ、きょうがんばったもん」
 媛寿は少し頬を膨らませて結城を睨む。要は自分がいたおかげで村長宅でのことが何とかなったから、その分言うことを聞いてほしいというわけだ。
「エンジュ、ユウキも疲れています。温泉は良きものですが、睡眠による休息も大事なのですよ?」
「じゃあ、あてな様もいっしょにはいる?」
 座卓の上を片付けながら、媛寿を諭していたアテナの手が止まる。媛寿の一言で何かを思い出したらしく、結城は変な空気を感じ取っていた。
「そういえば古代ギリシャ式マッサージをまだ披露していませんでしたね」
 結城の直感は半ば的中しつつあった。以前、アテナは結城の疲労を取るために、古代ギリシャ式マッサージを敢行しようとしていた。腰布だけの格好で。
「そうですね……温泉に浸かりつつ、私がマッサージをするというのはどうでしょう。相乗効果で疲れも一挙に取れるやもしれません」
「お、温泉に入りながらって……」
 結城はその情景を頭の中でイメージした途端、赤面して鼻血を吹き出しそうになってしまった。そんなことをされては、のぼせるどころか意識が天まで飛び立ってしまう。
 小林結城、二十五歳。昨夜は危ういところだったが、未だ童貞である。
「そ、それはまだ遠慮したいような~」
「むっ、エンジュとは入れて私とは入れないというのですか?」
「い、いいえ。決してそそそ、そういうわけで―――わっ!?」
 アテナから目を逸らした結城だったが、そこで見たものに思わず声を上げてしまった。
 シロガネが黙々と荷物の中からモザイク必須のオモチャをいくつも出していたからだ。
「ちょっ! シロガネ、何してんの!? というかソレ持って来てたの!?」
「ワタシも、結城を癒す」
 そう言ってシロガネは両手にオモチャを構えてにじり寄ってくる。すでにスイッチが入って怪しい動きをしているオモチャに、結城は嫌な汗をかきながらたじろぐ。
「シロガネ、あなたの趣味をとやかく言うつもりはありませんが、とりあえずそのイヤラシイ道具を収めなさい」
「むぅ、アテナ様だけ楽しむ、ズルい」
「私は楽しんでいるわけではありません。目をかけている戦士を労うのは、戦いの女神として当然のことなのです」
「ワタシも、結城を労う。コレ、で」
 シロガネは強行にオトナのオモチャを突き出す。退く気がないところを見ると、どうやら溜まっているらしい。
 その様子を見ている結城の顔は、完全に引きつっていた。このままではヤられてしまう。
「今日は随分と強気ですね。ならば、遊技場で雌雄を決するとしましょう」
「へっ!?」
「望む、ところ」
「ええっ!?」
 意外な転び方をした事態に、結城だけがついていけず困惑する。どうやら断固として退かないシロガネに、アテナの闘志は火が点いたらしい。
 戦女神アテナ。自らに立ち塞がる者には燃えるタイプである。
「一度本気のあなたと手合わせしたいと思っていました」
「勝った方が、結城を好きにする」
 不敵な笑みと高揚感を纏ったアテナと、異様に鋭いオーラを放つシロガネが、揃って部屋を後にする。果し合いでもしそうな雰囲気の二人ではあるが、向かう場所は遊技場の卓球台だった。
 いつになく迫力満点な二人の姿が見えなくなった頃、
「ぼ、僕の貞操だいじなものが景品にかけられちゃった……」
 しんみりと静まり返った室内で、結城は一人ごちた。マスクマンは巻き込まれまいと、すでにどこかに消え去っている。
「ゆうき、おんせんおんせん」
 後に残ったのは、いつの間にか結城の手から湯呑みを取って昆布茶を飲んでいた媛寿だけだった。

 ちなみに、結局アテナが勝者となり、温泉に浸かりながらマッサージを受けた結城が鼻血を盛大に吹いたのは言うまでもない。
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