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5.すべての始まり
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ふわり、と風が靡く。
青みがかった光景の中に、懐かしい、古めかしい建物が視えた。
『フィオナ、教会に行く時間よ』
柔らかい微笑を浮かべた、会いたくてももう二度と会えない――フィオナの母親がそこに立っている。信心深い彼女は、病気が進んで歩けなくなるまで毎週末、必ず教会へと足を運んでいた。
(ママ……!!)
駆け寄りそうになるが、脇を小さな自分が走り抜けていったので思いとどまる。
あの頃よくしていたように、母親と手をつなぐ。
『いい、フィオナ? 牧師さんの話をよーく聞くのよ? 貴女が『ちから』を得た後、善悪の判断をしなくてはならないことがあるときに、きっと役に立つわ』
(ママ、そんなことを思っていたの……!?)
フィオナすらも忘れていた会話。
『忘れないでね。ママはずっとフィオナの味方よ』
『うん、ママ、だーいすき!』
まだ五歳くらいだろうか。
この先に待っている未来を知らないフィオナは、ただただ明るい声を響かせて笑っている。
幸せだったあの日。
でもこうして母に愛されていたからこそ、フィオナはあの暗黒の、大聖堂での暮らしをなんとか生き抜くことができたのだ。母への思いを胸に、強くいられたから。
(ママにまた会えるなら何でもするのに……!)
だがそこで、思ってもみないことが起きた。
母が、こちらを振り返り、微笑んだのだ。
「――ママ……っ!?」
叫んでしまった、と思う。
フィオナは思わず両手で自分の口元を押さえ――その瞬間、映像は瞬く前に消え失せてしまう。
「――っ」
気づけば、また馬車の中にいた。
彼女はゆっくりと手を自分の口元から下ろした。どうやら無意識に彼から手を離してしまっていたようだ。
(初めて、ママの……記憶を視た……!)
あまりにも映像が鮮明すぎて、まだ浮遊しているかのようだった。
どっどっ、と鼓動が高鳴り続けている。
(普通に、考えたら……、私が立っていた場所の後ろに誰かが……知り合いが立っていて……その人に、挨拶をしたのよね……?)
母が、自分が見えているかのように微笑んだから驚いてしまったが、フィオナはそうやって心を落ちつかせる。目の前でやはり呆然として座り込んでいる青年に視線を送る。
(彼がいると……、やはり『ちから』が強くなる気がする……。ママの記憶が視れたのは、きっと彼と手をつないだからに違いない)
そして、やはり頭痛はしていない。
青年の顔色もますます良くなっている気がする。
「君は、やっぱり本物、なんだな……。今の……は、確かに、幼い頃の君だった」
青年がじっとフィオナの顔を見つめながら、そう呟く。
「私だけでなく……、貴方も、だと思います」
フィオナが答えると、彼がさっと顔を紅潮させた。
「フィオナ」
「え?」
フィオナはぽかんとした。
「どうして私の名前を?」
「だって、あの女性がそう呼んでいたじゃないか」
(そうだ、確かに……ママが私の名前を呼んでいた……!)
彼はやはり、フィオナと先ほどの映像を共有していた。
「君の名前だろう?」
重ねて尋ねられて、彼女は頷いた。
「はい」
そこで青年が口元をきゅっと引き締める。
「フィオナ、また君に会いたい」
「え……?」
青年は真っ直ぐな視線を、彼女に向けていた。
「俺は、占い師は信じていない。だが君のことは……信じかけている。それに、自分の『ちから』のことも、もっと知りたい。だから君の助けが必要だ」
確かに、大聖堂で出会った令嬢たちをのぞけば、彼はフィオナが初めて会った『ちから』の持ち主だ。それにどうやら二人の『ちから』の相性は悪くないらしく、彼は眠れるようになるし、フィオナも体調が良い。今まで視れない記憶だって呼び起こされる。
「いいだろう?」
すがるように尋ねられ、フィオナは考える前に、あることを口にした。
(きっと、彼なら――……)
「私……」
「うん」
「私、この国に来たのは目的があるんです」
「目的、だって……?」
「ええ」
彼女はポケットに忍ばせていた金の指輪を取り出した。
「私の父は、どうやら貴族らしいのです」
「なんだって……?」
「私が生まれたときにはもう父とは一緒に住んでいなくて……、名前もなにも、分からないんです。この指輪が形見です」
フィオナは金の指輪を握りしめる。
「君のお母様は?」
「ずいぶん前に亡くなりました。母は平民でした――さきほどご覧になられたと思いますが、あの後すぐに病で倒れて――……」
「そうだったのか……」
「父が貴族なのが真実なのかもわかりません。でも、もしかしたら会えるかもしれないと、それだけを励みにしています」
そう言えば、男性が、うん、と頷いた。
彼に呼びかけようとして、ふと名前をまだ聞いていないことに気付く。
「それで、貴方のお名前をうかがっても?」
彼もはっとしたかのような表情になる。
「失礼。名乗っていなかったな。俺はアッシュ=ロイド伯爵という」
貴族だろうとは思っていたが、伯爵だったか。
「では、ロイド伯爵と呼ばせていただいても?」
それはただの確認だったが、アッシュは首を横に振る。
「アッシュで構わないよ」
「いや、それは……」
それはさすがに、平民の自分にとっては敷居が高すぎる。
「構わない。それで、君が君の父親を探すのを手伝おう。きっと少しは役に立てるはずだ――それで、フィオナと会う対価となるだろうか」
アッシュの提案に、ぽかんとする。
「え?」
「そうさせて欲しい。それでフィオナはこうして夜会に占い師として赴いてるのか?」
それまで唖然としていた彼女は、ぎくしゃくしながら頷く。
「は、はい。生活費を稼がないとなりませんから」
「なるほど……、そうだよな」
しばらくアッシュは考えこみ、ふと顔をあげた。
「では次からは俺も同行しよう」
「え!」
「貴族邸の夜会だろう? だったら俺が同行できないことはあるまい?」
「ま、まぁそうですが……でも、そんな必要あります?」
さっきから話が急展開すぎて、戸惑ってばかりだ。
「必要はない。だが俺が行きたいんだ」
「はぁ……」
曖昧に返事をしつつ、内心で首を傾げる。
確かに『ちから』を使う場面に居合わせることが、彼にとって何か役にたつ可能性がない……とは言えない? フィオナとしては、別にアッシュがいようがいまいが、自分がするべきことをするだけなのだが。
「それか、君が依頼を受ける場所を提供しようか?」
「は?」
「そうしたら効率よく依頼を受けることが出来るし、生活費も稼ぐことができるぞ?」
彼女はその申し出について考えてみる。
(確かに、それはそうかも)
ほぼ着の身着のままカルドリア王国へやってきた。
お腹がすきすぎて入った大衆食堂で、とある貴族宅で働いている下男が話している内容が耳に入った。そこで『占い』が貴族たちの間で流行っていると知り、また『占い師』だったら夜会に入り込めるらしいと知る。
これしかないと勢いで、その下男に話しかけて情報をもらった。『占い師』を必要としているらしい貴族宅を訪問し、まず最初の仕事を貰うまでは必死だった。
今はようやく軌道に乗りつつあるが、しかしそれでも毎日仕事があるわけではない。
だから伯爵であるアッシュの手助けのもと、確実な依頼を受けることは悪いではない。それに彼にも『ちから』があるのならば――側にいることは決してマイナスにはならないような気もする。
だが即断はできない。
「それに関しては、少し考えさせていただいても?」
アッシュとは出会ったばかりだ。
さすがにフィオナのことは認めてくれているような感じはするが、そもそも彼は、『占い師』に強烈に嫌悪感を持っているというのに。
「もちろん、ゆっくり考えてくれたらそれでいい」
そこで馬車がゆっくりとした速度になり、車輪が軋むような音を立てて、完全に止まった。御者が扉を開けてくれると、夜風がさっと入り込む。
荷物を抱えたフィオナが一人で馬車から降りると、アッシュも続き、周囲を見渡した。
街灯もほとんどないため、辺りは闇に支配されている。
彼が顔をしかめた。
「暗すぎる。君の家まで送ろう」
「いえ、必要ありません。もう半年はこのエリアに住んでいます。もっと遅い時間に自宅に戻ったこともありますから」
それにもともと隣国の貧民街の育ちだ。
「だが――」
フィオナは黙って、粗末なワンピース姿でカーテシーをする。
今の彼女には必要ないが、貴族の礼儀は頭に入っている。
「ここまで送っていただき、ありがとうございました」
「……、うん」
それ以上言っても無駄だと悟ったのか、アッシュが頷く。
「今夜はこのまま帰るが――明日、また会えないか?」
「え?」
「お願いだ」
アッシュがそこで、付け加える。
「君のことを、もっと知りたい」
「――!」
彼の眼差しは真剣そのもので。
フィオナは息を呑む。
「明日は仕事は?」
「それは……ない、ですけど……」
「じゃあ、明日またここに来るよ。何時に来たら良い?」
そこで往来を歩く酔っ払いが、けっ、お貴族様がよっとぺっと唾を吐いた音が聞こえたので、フィオナは我に返る。これ以上ここで話し込んでいると、誰かに目をつけられるかもしれない。決して治安がいいわけではないのだから。
「私が参ります。何処に行ったら良いですか? ……その、用事のついでになりますが!」
焦って付け足すと、アッシュが不承不承といった風に頷く。
「別に俺は迎えにくるので構わないんだが……じゃあ、タッカー通りにあるロイド邸に来てくれ。何時でも良いよ」
「畏まりました!」
明日の約束をすると、彼女はアッシュを馬車に追い立てた。
「伯爵、また明日お目にかかります!」
「だからアッシュで良いと言っているのに……」
彼のぼやきが聞こえた気がしたが、フィオナは扉をしめると、御者に合図を送った。
馬車が軽快に走り出して去っていくと、はあ、とため息をつく。
(一体何があったの、いま……?)
彼女はそのまますぐにあるアパートの階段を登ると、自室のドアの鍵を開けた。
ワンルーム、必要最小限の物しか置いていない部屋だ。
燭台に火を灯し、荷物を置くと、そのまま床に置きっぱなしのマットレスに力なく倒れ込む。
(えっと……、なんですって……?)
いろんなことがありすぎて、処理が追いつかない。
(イケメン、不眠症伯爵に会って……? 彼が同じ『ちから』を持っていて……? 父探しに協力してくれると言い出して……? え、え、えええええ~~!?)
バタバタと足をばたつかせる。
フィオナはそっとポケットから金色の指輪を取り出し、握り締めた。
(でも、もしかしたら、お父さんに会える第一歩になるのかな……?)
疲れきっていた彼女は、そのまますうっと眠りについたのだった。
青みがかった光景の中に、懐かしい、古めかしい建物が視えた。
『フィオナ、教会に行く時間よ』
柔らかい微笑を浮かべた、会いたくてももう二度と会えない――フィオナの母親がそこに立っている。信心深い彼女は、病気が進んで歩けなくなるまで毎週末、必ず教会へと足を運んでいた。
(ママ……!!)
駆け寄りそうになるが、脇を小さな自分が走り抜けていったので思いとどまる。
あの頃よくしていたように、母親と手をつなぐ。
『いい、フィオナ? 牧師さんの話をよーく聞くのよ? 貴女が『ちから』を得た後、善悪の判断をしなくてはならないことがあるときに、きっと役に立つわ』
(ママ、そんなことを思っていたの……!?)
フィオナすらも忘れていた会話。
『忘れないでね。ママはずっとフィオナの味方よ』
『うん、ママ、だーいすき!』
まだ五歳くらいだろうか。
この先に待っている未来を知らないフィオナは、ただただ明るい声を響かせて笑っている。
幸せだったあの日。
でもこうして母に愛されていたからこそ、フィオナはあの暗黒の、大聖堂での暮らしをなんとか生き抜くことができたのだ。母への思いを胸に、強くいられたから。
(ママにまた会えるなら何でもするのに……!)
だがそこで、思ってもみないことが起きた。
母が、こちらを振り返り、微笑んだのだ。
「――ママ……っ!?」
叫んでしまった、と思う。
フィオナは思わず両手で自分の口元を押さえ――その瞬間、映像は瞬く前に消え失せてしまう。
「――っ」
気づけば、また馬車の中にいた。
彼女はゆっくりと手を自分の口元から下ろした。どうやら無意識に彼から手を離してしまっていたようだ。
(初めて、ママの……記憶を視た……!)
あまりにも映像が鮮明すぎて、まだ浮遊しているかのようだった。
どっどっ、と鼓動が高鳴り続けている。
(普通に、考えたら……、私が立っていた場所の後ろに誰かが……知り合いが立っていて……その人に、挨拶をしたのよね……?)
母が、自分が見えているかのように微笑んだから驚いてしまったが、フィオナはそうやって心を落ちつかせる。目の前でやはり呆然として座り込んでいる青年に視線を送る。
(彼がいると……、やはり『ちから』が強くなる気がする……。ママの記憶が視れたのは、きっと彼と手をつないだからに違いない)
そして、やはり頭痛はしていない。
青年の顔色もますます良くなっている気がする。
「君は、やっぱり本物、なんだな……。今の……は、確かに、幼い頃の君だった」
青年がじっとフィオナの顔を見つめながら、そう呟く。
「私だけでなく……、貴方も、だと思います」
フィオナが答えると、彼がさっと顔を紅潮させた。
「フィオナ」
「え?」
フィオナはぽかんとした。
「どうして私の名前を?」
「だって、あの女性がそう呼んでいたじゃないか」
(そうだ、確かに……ママが私の名前を呼んでいた……!)
彼はやはり、フィオナと先ほどの映像を共有していた。
「君の名前だろう?」
重ねて尋ねられて、彼女は頷いた。
「はい」
そこで青年が口元をきゅっと引き締める。
「フィオナ、また君に会いたい」
「え……?」
青年は真っ直ぐな視線を、彼女に向けていた。
「俺は、占い師は信じていない。だが君のことは……信じかけている。それに、自分の『ちから』のことも、もっと知りたい。だから君の助けが必要だ」
確かに、大聖堂で出会った令嬢たちをのぞけば、彼はフィオナが初めて会った『ちから』の持ち主だ。それにどうやら二人の『ちから』の相性は悪くないらしく、彼は眠れるようになるし、フィオナも体調が良い。今まで視れない記憶だって呼び起こされる。
「いいだろう?」
すがるように尋ねられ、フィオナは考える前に、あることを口にした。
(きっと、彼なら――……)
「私……」
「うん」
「私、この国に来たのは目的があるんです」
「目的、だって……?」
「ええ」
彼女はポケットに忍ばせていた金の指輪を取り出した。
「私の父は、どうやら貴族らしいのです」
「なんだって……?」
「私が生まれたときにはもう父とは一緒に住んでいなくて……、名前もなにも、分からないんです。この指輪が形見です」
フィオナは金の指輪を握りしめる。
「君のお母様は?」
「ずいぶん前に亡くなりました。母は平民でした――さきほどご覧になられたと思いますが、あの後すぐに病で倒れて――……」
「そうだったのか……」
「父が貴族なのが真実なのかもわかりません。でも、もしかしたら会えるかもしれないと、それだけを励みにしています」
そう言えば、男性が、うん、と頷いた。
彼に呼びかけようとして、ふと名前をまだ聞いていないことに気付く。
「それで、貴方のお名前をうかがっても?」
彼もはっとしたかのような表情になる。
「失礼。名乗っていなかったな。俺はアッシュ=ロイド伯爵という」
貴族だろうとは思っていたが、伯爵だったか。
「では、ロイド伯爵と呼ばせていただいても?」
それはただの確認だったが、アッシュは首を横に振る。
「アッシュで構わないよ」
「いや、それは……」
それはさすがに、平民の自分にとっては敷居が高すぎる。
「構わない。それで、君が君の父親を探すのを手伝おう。きっと少しは役に立てるはずだ――それで、フィオナと会う対価となるだろうか」
アッシュの提案に、ぽかんとする。
「え?」
「そうさせて欲しい。それでフィオナはこうして夜会に占い師として赴いてるのか?」
それまで唖然としていた彼女は、ぎくしゃくしながら頷く。
「は、はい。生活費を稼がないとなりませんから」
「なるほど……、そうだよな」
しばらくアッシュは考えこみ、ふと顔をあげた。
「では次からは俺も同行しよう」
「え!」
「貴族邸の夜会だろう? だったら俺が同行できないことはあるまい?」
「ま、まぁそうですが……でも、そんな必要あります?」
さっきから話が急展開すぎて、戸惑ってばかりだ。
「必要はない。だが俺が行きたいんだ」
「はぁ……」
曖昧に返事をしつつ、内心で首を傾げる。
確かに『ちから』を使う場面に居合わせることが、彼にとって何か役にたつ可能性がない……とは言えない? フィオナとしては、別にアッシュがいようがいまいが、自分がするべきことをするだけなのだが。
「それか、君が依頼を受ける場所を提供しようか?」
「は?」
「そうしたら効率よく依頼を受けることが出来るし、生活費も稼ぐことができるぞ?」
彼女はその申し出について考えてみる。
(確かに、それはそうかも)
ほぼ着の身着のままカルドリア王国へやってきた。
お腹がすきすぎて入った大衆食堂で、とある貴族宅で働いている下男が話している内容が耳に入った。そこで『占い』が貴族たちの間で流行っていると知り、また『占い師』だったら夜会に入り込めるらしいと知る。
これしかないと勢いで、その下男に話しかけて情報をもらった。『占い師』を必要としているらしい貴族宅を訪問し、まず最初の仕事を貰うまでは必死だった。
今はようやく軌道に乗りつつあるが、しかしそれでも毎日仕事があるわけではない。
だから伯爵であるアッシュの手助けのもと、確実な依頼を受けることは悪いではない。それに彼にも『ちから』があるのならば――側にいることは決してマイナスにはならないような気もする。
だが即断はできない。
「それに関しては、少し考えさせていただいても?」
アッシュとは出会ったばかりだ。
さすがにフィオナのことは認めてくれているような感じはするが、そもそも彼は、『占い師』に強烈に嫌悪感を持っているというのに。
「もちろん、ゆっくり考えてくれたらそれでいい」
そこで馬車がゆっくりとした速度になり、車輪が軋むような音を立てて、完全に止まった。御者が扉を開けてくれると、夜風がさっと入り込む。
荷物を抱えたフィオナが一人で馬車から降りると、アッシュも続き、周囲を見渡した。
街灯もほとんどないため、辺りは闇に支配されている。
彼が顔をしかめた。
「暗すぎる。君の家まで送ろう」
「いえ、必要ありません。もう半年はこのエリアに住んでいます。もっと遅い時間に自宅に戻ったこともありますから」
それにもともと隣国の貧民街の育ちだ。
「だが――」
フィオナは黙って、粗末なワンピース姿でカーテシーをする。
今の彼女には必要ないが、貴族の礼儀は頭に入っている。
「ここまで送っていただき、ありがとうございました」
「……、うん」
それ以上言っても無駄だと悟ったのか、アッシュが頷く。
「今夜はこのまま帰るが――明日、また会えないか?」
「え?」
「お願いだ」
アッシュがそこで、付け加える。
「君のことを、もっと知りたい」
「――!」
彼の眼差しは真剣そのもので。
フィオナは息を呑む。
「明日は仕事は?」
「それは……ない、ですけど……」
「じゃあ、明日またここに来るよ。何時に来たら良い?」
そこで往来を歩く酔っ払いが、けっ、お貴族様がよっとぺっと唾を吐いた音が聞こえたので、フィオナは我に返る。これ以上ここで話し込んでいると、誰かに目をつけられるかもしれない。決して治安がいいわけではないのだから。
「私が参ります。何処に行ったら良いですか? ……その、用事のついでになりますが!」
焦って付け足すと、アッシュが不承不承といった風に頷く。
「別に俺は迎えにくるので構わないんだが……じゃあ、タッカー通りにあるロイド邸に来てくれ。何時でも良いよ」
「畏まりました!」
明日の約束をすると、彼女はアッシュを馬車に追い立てた。
「伯爵、また明日お目にかかります!」
「だからアッシュで良いと言っているのに……」
彼のぼやきが聞こえた気がしたが、フィオナは扉をしめると、御者に合図を送った。
馬車が軽快に走り出して去っていくと、はあ、とため息をつく。
(一体何があったの、いま……?)
彼女はそのまますぐにあるアパートの階段を登ると、自室のドアの鍵を開けた。
ワンルーム、必要最小限の物しか置いていない部屋だ。
燭台に火を灯し、荷物を置くと、そのまま床に置きっぱなしのマットレスに力なく倒れ込む。
(えっと……、なんですって……?)
いろんなことがありすぎて、処理が追いつかない。
(イケメン、不眠症伯爵に会って……? 彼が同じ『ちから』を持っていて……? 父探しに協力してくれると言い出して……? え、え、えええええ~~!?)
バタバタと足をばたつかせる。
フィオナはそっとポケットから金色の指輪を取り出し、握り締めた。
(でも、もしかしたら、お父さんに会える第一歩になるのかな……?)
疲れきっていた彼女は、そのまますうっと眠りについたのだった。
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